「真に頭を下げることの出来ない人には、神や仏は現れて来ない」(每田周一)
神を求める道、精神的な目覚めの道は、決して無理を伴う訳でも、努力精進を重ねる必要も無く、難しい道ではありません。
だからと言って、誰にも出来る易しい道だ、などと言える訳がありません。
大体、自分がいくら思ったって、やろうとしたって出来ない、開かれない道なのですよ!
ある意味ではこんな難しい道など無いのかもしれません。そこには多くの危険が伴っているという意味でも!...
私自身、正にあの神的な現臨が開かれる契機において、まかり間違えば、廃人になりかねなくなるような危険なところを通らされました。
でも、それは誰しも通らなければならないなんて言っているのではないですよ!..だから安心して下さい。“心安かれ!“と祈っていれば多分、安心(あの“平安“に与るってことですよ!)でしょう?
私の場合は、とにかく道を求めて日が浅く、知識も素養も無く、取り分け、心構えが出来ていなかったということです。
精神的な道には、色々な神秘的なこと、超常的なことなどが付きまとうものですが、私にはそれらに対する上っ調子な、興味本位な(それは全く持って思念世界に迷っている状態に他ならないのですが)、思いに囚われていたのです。
神や霊的存在について知識では知っている、分かったつもりでいましたが、現実にそういうものが直接臨んで来ることとは大違いで、全く分かっていなかったのです。
言葉を換えれば、これも分かっているつもりの、祈るということを本当には知らなかったのです。
冒頭に揚げた每田周一先生の言葉は、実に至言だと思いますが、逆に言えば、神仏が本当に臨んだならば、こちらは平伏さざるを得なくなるということでしょう。
何十年も祈りの真似事をしていて、神のことも祈りのことも何一つ分かっていないヤカラは居ないか?!
神だの、霊だの、あの世だの、超能力だののことが、固定観念のように、ずっと頭から抜けられず、妙ちきりんなことをやり出す人間などがそのことを自ら示しているではないか!
思念世界から離れなければ、神は臨んで来ず、精神的な目覚めも開かれないのです。
然るに、(あの御仁のように)臆面もなく、“完全解脱を目指している“、などと曰うことが、如何に場違いなことであるか、少し考えれば分かるではないか?、それとも完全に思考停止してしまったのだろうか?
思いを超えた世界のことは、その超えたもの無しには開かれない!...だから祈りが必要なのです。
私は全く無茶苦茶に祈っていたら(マネしないで下さい)、意識が遠のき、倒れそうになりました。でも祈らずにおれなかったのです。
興味本位にカルト宗教に近づいてしまったツケで、本当に魔の手が迫る恐怖にさらされたのです。
結果的にあの無勝手な祈りをして良かったと思います。危なかったけど、そのままだったらどうなっていたか分かりません。そして、心の底では、神が現れたなら、自分はどうなっても構わないという覚悟はあったのです。“倒れ、果ててしまうのなら、御前でそうなりたい!“
もう、平伏すのみ!...本当に地ベタに額をこすりつけてましたよ!
そして、思考は飛んだ!...意識次元が開かれたのです。
それからというもの、興味本位に神秘的なことなどに関わろうとすることの愚かさ、恐ろしさを身を持って知らされ、ある精神的規範のようなものが自然と身に付きました。
最初からこういう素養のある人には、道を求めることは実に安全なもの言っていいでしょう。
もし、あなたが祈ることで何とも幸福な気持ちになれるとしたら...あなたは自然とそういう道に導かれていると言えるでしょう。
祈ることを知らない多くの人が知らずにそれを求めているものを、あなたは既に知っているのだから!
神を求める道、精神的な目覚めの道は、決して無理を伴う訳でも、努力精進を重ねる必要も無く、難しい道ではありません。
だからと言って、誰にも出来る易しい道だ、などと言える訳がありません。
大体、自分がいくら思ったって、やろうとしたって出来ない、開かれない道なのですよ!
ある意味ではこんな難しい道など無いのかもしれません。そこには多くの危険が伴っているという意味でも!...
私自身、正にあの神的な現臨が開かれる契機において、まかり間違えば、廃人になりかねなくなるような危険なところを通らされました。
でも、それは誰しも通らなければならないなんて言っているのではないですよ!..だから安心して下さい。“心安かれ!“と祈っていれば多分、安心(あの“平安“に与るってことですよ!)でしょう?
私の場合は、とにかく道を求めて日が浅く、知識も素養も無く、取り分け、心構えが出来ていなかったということです。
精神的な道には、色々な神秘的なこと、超常的なことなどが付きまとうものですが、私にはそれらに対する上っ調子な、興味本位な(それは全く持って思念世界に迷っている状態に他ならないのですが)、思いに囚われていたのです。
神や霊的存在について知識では知っている、分かったつもりでいましたが、現実にそういうものが直接臨んで来ることとは大違いで、全く分かっていなかったのです。
言葉を換えれば、これも分かっているつもりの、祈るということを本当には知らなかったのです。
冒頭に揚げた每田周一先生の言葉は、実に至言だと思いますが、逆に言えば、神仏が本当に臨んだならば、こちらは平伏さざるを得なくなるということでしょう。
何十年も祈りの真似事をしていて、神のことも祈りのことも何一つ分かっていないヤカラは居ないか?!
神だの、霊だの、あの世だの、超能力だののことが、固定観念のように、ずっと頭から抜けられず、妙ちきりんなことをやり出す人間などがそのことを自ら示しているではないか!
思念世界から離れなければ、神は臨んで来ず、精神的な目覚めも開かれないのです。
然るに、(あの御仁のように)臆面もなく、“完全解脱を目指している“、などと曰うことが、如何に場違いなことであるか、少し考えれば分かるではないか?、それとも完全に思考停止してしまったのだろうか?
思いを超えた世界のことは、その超えたもの無しには開かれない!...だから祈りが必要なのです。
私は全く無茶苦茶に祈っていたら(マネしないで下さい)、意識が遠のき、倒れそうになりました。でも祈らずにおれなかったのです。
興味本位にカルト宗教に近づいてしまったツケで、本当に魔の手が迫る恐怖にさらされたのです。
結果的にあの無勝手な祈りをして良かったと思います。危なかったけど、そのままだったらどうなっていたか分かりません。そして、心の底では、神が現れたなら、自分はどうなっても構わないという覚悟はあったのです。“倒れ、果ててしまうのなら、御前でそうなりたい!“
もう、平伏すのみ!...本当に地ベタに額をこすりつけてましたよ!
そして、思考は飛んだ!...意識次元が開かれたのです。
それからというもの、興味本位に神秘的なことなどに関わろうとすることの愚かさ、恐ろしさを身を持って知らされ、ある精神的規範のようなものが自然と身に付きました。
最初からこういう素養のある人には、道を求めることは実に安全なもの言っていいでしょう。
もし、あなたが祈ることで何とも幸福な気持ちになれるとしたら...あなたは自然とそういう道に導かれていると言えるでしょう。
祈ることを知らない多くの人が知らずにそれを求めているものを、あなたは既に知っているのだから!
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