ドラマ「正直不動産」で、主人公の元同僚で、ライバルの営業マンの口グセ...“人間てそんなに変われるものじゃないですよ!“
そうです!...少なくとも私は変わろうと思い立って、やろうとして一度も変わったタメシなどありません。
だから、思い、為そうとする自分からは変わることが出来ないんだってば!
しかし、そこに一陣の風が吹き込むと...いや、冗談でも誇張でもなく、私はこれまで、厳しい寒風が吹き荒れる天候が、暖かい、優しい風に変わっただけで(夏は逆なんだ)気分が変わったことは何遍もありますよ!
別に風でなくてもいい...美しい夕日、通りがかりの猫...要するにそれはほとんどが思いがけないことなのです。
つまりは、“変わろう!、変わらなきゃ!“、という思いに囚われているから変われないのです。いや、そもそも、変わろうとすること自体がそういうもので、変わらなくてもいいかもしれないのです。
エ、誰かが見てる、なんか言おうとしているんですか?...私がどうしようと、どうなろうと彼らにゃ関係ないだろ!
ハ、神サマが見ているのか?...正しい、進んだ自分にならないと、このまま悪いまま、罪のまま変わらないと地獄に落とされるとでも?
到底、このままでは神の御前に立つことは出来ない!、本当の、ありのままのダメな自分を見ることは出来ないですか?
それが出来るんなら、どんな難行苦行でもずっと続けられるのですか?..“こりゃあ、生き地獄だ!“
熱心な信仰者が神を恐れているのは、別に驚くことじゃないですよ!...彼らはホントは神など信じちゃいないのです。信じてたら受け入れられるのです。
神を受け入れられない...それは本当の自分を受け入れられないことと同じじゃないですか?
この意味でも、神と本当の自分は一つのもの、ということが言えるでしょう。
“神を受け入れると、ありのままの自分が隠さずに映し出されて、その裁きを受ける“、というのは言うまでもなく、そう思い込んでいるだけです。
まあ、それはほとんど刷り込まれているようなものなので、自分からは思い込みを外せないのでしょう。
あの、“思い込みで出来た謎の祠さえ壊しちゃえば!...しかし中から何が出て来るか分からないし、神の祟りがコワイ!“、ってとこでしょうか?
だから、これはあの“お照らし“、“正直の風“などのなせる技なのです。
そこに、“まかせる“道が開かれるのです。それには、何らの行など必要でありませんが、ただ、ある“覚悟“は必要でしょう。
分かりますか?、“覚“、“悟“ですよ!
覚醒も悟りもこれを置いては絶対にあり得ない!、と断言しちゃおう!
あの風を呼び込みさえすれば!...それはやはり祈ることでしょう...。
そうです!...少なくとも私は変わろうと思い立って、やろうとして一度も変わったタメシなどありません。
だから、思い、為そうとする自分からは変わることが出来ないんだってば!
しかし、そこに一陣の風が吹き込むと...いや、冗談でも誇張でもなく、私はこれまで、厳しい寒風が吹き荒れる天候が、暖かい、優しい風に変わっただけで(夏は逆なんだ)気分が変わったことは何遍もありますよ!
別に風でなくてもいい...美しい夕日、通りがかりの猫...要するにそれはほとんどが思いがけないことなのです。
つまりは、“変わろう!、変わらなきゃ!“、という思いに囚われているから変われないのです。いや、そもそも、変わろうとすること自体がそういうもので、変わらなくてもいいかもしれないのです。
エ、誰かが見てる、なんか言おうとしているんですか?...私がどうしようと、どうなろうと彼らにゃ関係ないだろ!
ハ、神サマが見ているのか?...正しい、進んだ自分にならないと、このまま悪いまま、罪のまま変わらないと地獄に落とされるとでも?
到底、このままでは神の御前に立つことは出来ない!、本当の、ありのままのダメな自分を見ることは出来ないですか?
それが出来るんなら、どんな難行苦行でもずっと続けられるのですか?..“こりゃあ、生き地獄だ!“
熱心な信仰者が神を恐れているのは、別に驚くことじゃないですよ!...彼らはホントは神など信じちゃいないのです。信じてたら受け入れられるのです。
神を受け入れられない...それは本当の自分を受け入れられないことと同じじゃないですか?
この意味でも、神と本当の自分は一つのもの、ということが言えるでしょう。
“神を受け入れると、ありのままの自分が隠さずに映し出されて、その裁きを受ける“、というのは言うまでもなく、そう思い込んでいるだけです。
まあ、それはほとんど刷り込まれているようなものなので、自分からは思い込みを外せないのでしょう。
あの、“思い込みで出来た謎の祠さえ壊しちゃえば!...しかし中から何が出て来るか分からないし、神の祟りがコワイ!“、ってとこでしょうか?
だから、これはあの“お照らし“、“正直の風“などのなせる技なのです。
そこに、“まかせる“道が開かれるのです。それには、何らの行など必要でありませんが、ただ、ある“覚悟“は必要でしょう。
分かりますか?、“覚“、“悟“ですよ!
覚醒も悟りもこれを置いては絶対にあり得ない!、と断言しちゃおう!
あの風を呼び込みさえすれば!...それはやはり祈ることでしょう...。
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