人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あなたが幸せならば...

2020-06-20 10:08:13 | 求道、探究
「大切なことは君がどうかいだよ。君がどうなのかということさ。君が生き生きとしているか、君がOKなのか...」(ダンテスダイジ「雨宮第慈講話録2.君がどうかい」SCL刊)

所謂狂信者、盲信者と言われている人たちというのは、ほとんどその自分が信じ込んでいることを他にアッピールしたい欲求を持っているものです。
実際に伝えるか、どうかはともかく、彼らには伝えるべき他者(他者集団)というものが常に想定されているのです。
つまり、意識は常に外向きになっており、だからこそ、そういう心的傾向が表わされ、他者からは「ああ、あの人完全にハマっちゃってるわ...」と認識出来るのでしょう。
他を巻き込もうと、同じような信者を沢山引き入れ、作ろうとします。カルト宗教などが増強される過程には、このような集団におもねられた思念が大きな役割を持っているのです。
有り体に言えば、彼らは自分の世界で、自分自身から直接満たされるということが出来ないのです。
自分が正しいということにやたらと囚われていて、他に認めてもらわずに居られない...ということは、本当には自分は正しいとは思っていないということでしょう。
自分が満たされていないのだから...自分を受け入れていないのだから当然でしょう。
その"信的"エネルギーは、信じる特定の教師、教えにばかり向けられ、自身には向けられることがありません。そしてその正しい信仰を不特定多数の人間に及ぼそうとせずに居られないのです。
"そこに愛はあるのか?...平安は?、幸福は?"
もし、あるというのなら、赤の他人の出る幕などありません。
私は特定の教師、教えを信じ奉ること自体が悪いと言っているんじゃありません。本当にそれであなたが幸福に感じているのなら、それでいいじゃないかi...
"私はペットの猫を神様のように崇拝してる"って人が居ても、まあ、聞いたらおかしいことではあるけれども(気持ちは分かる)、その人がハッピーなら文句なんか言いませんよi いや、言ってはいけないんだ、他人の神聖な領域を犯すようなことはi
本当に幸福ならば...それはあなたの中から来るものに他ならないのではありませんか?
そのことにあなたは、あなたの正しさなんかを求める必要があるでしょうか?
沢山の人にそれを認めてもらう必要があるでしょうか?
認めようが、認めまいが人が幸福にあって、生き生きとしている様に接すると、何でか分からないが、こっちも生き生きとしてきます。
彼らは自覚してようが、いまいがそうなっている自分を受け入れているのでしょう。
それに引き換え、人の自由な感性というものをしばしば踏みにじり、一人一人の内側に向き合おうとせずに集団的思念におもねってばかりの信者たち...そこには何が強固に信じられていても、根底には不信、迷いが感じられてなりません。
そういうのは"独りカルト"でいいじゃないかと思うのですが、そうならないんならせめて他所でやってほしいですi
ここは"私がどうかい、君がどうかい"、というノリで行きたいですから...
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