人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全ての私を照らす光

2017-10-14 11:47:43 | 意識、照明
多くのスピ関連では、自己観察、自己観照というものを重視しています。
端的に言うと、ありのままの自分を見つめるということですね。
私はしかし、これまでほとんどそういうことをやってこなかった、と言ってもいいのです。
もっとも、そう意識しないで、やっていたのかもしれません。いや、やらされていたと言うべきか?
この事が"意識された"のは、二年前の今頃、たしかそれを重視していた故.エンライトさんのブログを読んでからだったと思います。
同じ頃、近くの公園で暖かい日差しを受けながら、無為的な祈りとも瞑想ともつかないことに浸っていた時、突如"おおっi...こ、これは..."と電撃のように閃くものがあったのです。
"私は自分で観照ということはようしなかったけど、観照は受けていたではないかi"
この形なき祈りモドキというのは、意識のちょっとした動き(人為的な意念を加えないことが肝心)でそれに応じた感じ方に導かれるのです。
見えざる光にありのままの自分が照らされるように("光の玉が見えてきました..."とか、そういうイメージを人為的に頭に描くことではない)パッと意識されると、パッとそういう風になるのです。これは実際にそうした全てを透し、貫くような照射を受けたことがあるのを身に覚えているからそうなるのです。
"自分で自分を見つめる"って、フツーに言われるけど、実際にやろうとしても難しいものです。
そこで例えば自我と真我とを見極めようとか、するんでしょうけど、やろうとしているのはきっと自我でしょう?
マインドを超えたものを見い出そうとするんでしょうけど、きっとマインドがそうしようとしているんです。
それに、ありのままの自分というのは、ダメだったり、罪深かったりする、向き合いたくも、受け入れたくもない自分のことでもあるのです。
マインド、自我にとってこれを受け入れることが何よりも嫌なことなのです。
罪の意識が強い人は、通常その忌み嫌う自分を見ないことにし、否定し、フタ閉めしようとします。そしてダメでない、善なる、光ある自分に肖ろうとします。
それはしかし、自分の"かくあれかし"と思い描いている夢想の自分であり、全くありのままの自分ではありません。
フタ閉めされた、闇の自分にはずっと光が当てられることがなくなります。
その闇の部分は自分の外側へと投影され、サタンとか、悪い宇宙人とか実在性の分からないものか、ユダヤ人や金融やフリーメーソン、あるいは気に食わない隣人など、実在するものに向けられます。今、世界ではそうして拡散された闇の思いで充満しているようです。
ここにおいては自己は、思い込みによって善悪の観念などで分裂され、トータルな自己というものを見い出されることがありません。
真我というものは、正しくありたい人が思い描いているように、果たして忌まわしきエゴが消え去らねば、現れないものなのでしょうか?
又、エゴの性質を頭で分析して、真我とおぼしき自分と対比しようとして分かるものなのでしょうか? そこには真我に肖ろうとして、エゴを認めようとしない自分が居座り続けていないでしょうか?
第一、現実に自分の限られた力で、自我性が消えただろうか? 真我というものが見つかっただろうか? いや、そもそも消さねばならない、見つけなければならないものだろうか?
こういうことは、自分の思いを超えたものによってしか示されないのではありませんか?
それを私は内なるものを照らす光の如きものとして"照明"と呼んでいるのです。これはあの強烈な照射を受けた以前からその萌芽は知られていたのです。神への帰依の感情と共に芽生えてくるものでしょう。
そこに写し出されるものは、自分からは向き合うことの出来ないキライな自分も、眩いばかりの知られざる我もある..."全ての私"なのです。
善も悪も無いトータルな私。それがありのままの私に他ならないのです。
この意味で本当の真我?というものは、自我でも真我でもないもののことではないでしょうか? そこに神的なリアリティが開かれる...
だから...このものを受け入れざるを得ないのです。




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