私は、人生で自分が自分を生きられないことほど不幸なことは無いと思っています。
言い換えると、自分を信じることが出来ないということです。
自分が信じられなければ、愛する人も神も本当には信じられないでしょう。
神について言えば、熱心に信じている人は居ます。しかし、信じられているのは多く神についての教え、それを発している教祖様なのです。
そのような人には、神的なもの自体が本当に、自分自身の実存にアリアリと臨んでくることなど思いも寄らないことだと思っているのです。
そう、彼はその運命的邂逅のことなどこれっぽちも望んでなどいないのです。
いや、むしろその運命の瞬間を恐れているかのようです。
だから、いつまでもヴァーチャルな宗教的ドグマ、高次元とか前世とか、ありとあらゆる妄言に逃避し続けるのです。
そこでは、例えば"地球はこれまで64回生まれ変わっている"といった、それを信じない人には全くどうでもいい話が既成の事実であるごとく信じられているのです。
信じ込むということは、それについて自分で考える(多くは考える余地など無いものですが)というプロセスが抜け落ちてしまう(思考停止)のですが、それは考えることがどうこう、ということよりも自分自身に意識が向けられないということが問題なのです。
そこに例えば、神や光の霊団(これは考察の余地はあります)や、あるいは、その敵対勢力フリーメーソンのことや、ナニやカニが語られようと、自分の内なるものが開かれることとは何の関係も無いことなのです。
本当に自己の内面に照らせば、本当の闇の勢力とは、あなたを真実の自己から遠ざけ、それを覆い隠そうとしている思念をおいて他には存在しないでしょう。
(ついでに私の公平無比?の見解によれば、フリーメーソンに代表される結社には、あらゆる宗教がそうであるように善に写ったり、悪に写ったり裏表が表されているものと感じられます。これこそは裏表のある全ての人間に関連づけて考察されるべきではないでしょうか?)
意識が自分自身に向けられず、そこから遊離していく思念、自己の直接性から離れた形あるもの、方法などへの固執 ...
宗教、スピなどで、依存ということが云々されるのは、こうした自己自身の主体から離れてしまう事態のことを指しているのでしょう。
世間では自分で考え、自分の足で立つという主体性の欠如のように捉えれているようです。
他力信仰などと揶揄されたりしていますが、神に信じ、ゆだねるということも同様に思われているようです。
しかし、以前にも書きましたが、真に神にゆだねることと、自己に意識が向かない所謂依存的有り様とは、意識の向かい先は全く異なった道を示すものです。
上記したように、自分以外の何かに依存している人は、観念的には思っているでしょうが、けっして神にゆだねるという道には赴かないでしょう。
後生大事にしているものを手放そうとしないでしょうし、向かうべき自己、そしてその向こうにある、神的なものと共にある、真の自己への決定的な"信"に預けることが出来ないからです。
その信とは、ヴァーチャルな信仰でなくて、神的な導きと共にある絶対信ともいうべきものです。
向き合おうとしない自己とは、善でも悪でもない、ありのままの自己のことです。(多くは罪の意識というものが、向き合わせなくさせているのです)
そこに本当は、表向きのあなたには分からなくとも、あなたがこの世でどうあっても、こうあっても出会わなければならない唯一無二の人...本当の神と共なるあなたが居る...かもしれない。誰にも確たることは言えません。
思いを超えて、絶対信へと赴くのはあなた自身なのだから...
言い換えると、自分を信じることが出来ないということです。
自分が信じられなければ、愛する人も神も本当には信じられないでしょう。
神について言えば、熱心に信じている人は居ます。しかし、信じられているのは多く神についての教え、それを発している教祖様なのです。
そのような人には、神的なもの自体が本当に、自分自身の実存にアリアリと臨んでくることなど思いも寄らないことだと思っているのです。
そう、彼はその運命的邂逅のことなどこれっぽちも望んでなどいないのです。
いや、むしろその運命の瞬間を恐れているかのようです。
だから、いつまでもヴァーチャルな宗教的ドグマ、高次元とか前世とか、ありとあらゆる妄言に逃避し続けるのです。
そこでは、例えば"地球はこれまで64回生まれ変わっている"といった、それを信じない人には全くどうでもいい話が既成の事実であるごとく信じられているのです。
信じ込むということは、それについて自分で考える(多くは考える余地など無いものですが)というプロセスが抜け落ちてしまう(思考停止)のですが、それは考えることがどうこう、ということよりも自分自身に意識が向けられないということが問題なのです。
そこに例えば、神や光の霊団(これは考察の余地はあります)や、あるいは、その敵対勢力フリーメーソンのことや、ナニやカニが語られようと、自分の内なるものが開かれることとは何の関係も無いことなのです。
本当に自己の内面に照らせば、本当の闇の勢力とは、あなたを真実の自己から遠ざけ、それを覆い隠そうとしている思念をおいて他には存在しないでしょう。
(ついでに私の公平無比?の見解によれば、フリーメーソンに代表される結社には、あらゆる宗教がそうであるように善に写ったり、悪に写ったり裏表が表されているものと感じられます。これこそは裏表のある全ての人間に関連づけて考察されるべきではないでしょうか?)
意識が自分自身に向けられず、そこから遊離していく思念、自己の直接性から離れた形あるもの、方法などへの固執 ...
宗教、スピなどで、依存ということが云々されるのは、こうした自己自身の主体から離れてしまう事態のことを指しているのでしょう。
世間では自分で考え、自分の足で立つという主体性の欠如のように捉えれているようです。
他力信仰などと揶揄されたりしていますが、神に信じ、ゆだねるということも同様に思われているようです。
しかし、以前にも書きましたが、真に神にゆだねることと、自己に意識が向かない所謂依存的有り様とは、意識の向かい先は全く異なった道を示すものです。
上記したように、自分以外の何かに依存している人は、観念的には思っているでしょうが、けっして神にゆだねるという道には赴かないでしょう。
後生大事にしているものを手放そうとしないでしょうし、向かうべき自己、そしてその向こうにある、神的なものと共にある、真の自己への決定的な"信"に預けることが出来ないからです。
その信とは、ヴァーチャルな信仰でなくて、神的な導きと共にある絶対信ともいうべきものです。
向き合おうとしない自己とは、善でも悪でもない、ありのままの自己のことです。(多くは罪の意識というものが、向き合わせなくさせているのです)
そこに本当は、表向きのあなたには分からなくとも、あなたがこの世でどうあっても、こうあっても出会わなければならない唯一無二の人...本当の神と共なるあなたが居る...かもしれない。誰にも確たることは言えません。
思いを超えて、絶対信へと赴くのはあなた自身なのだから...
道院も全ての宗教も然り。依存しているとき、信じているときは、気付きもしませんでしたが。
ありのままの自分を受け入れることが、神を受け入れることなんだ、と最近強く感じています。