人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いは神に帰す

2021-08-24 12:02:42 | 求道、探究
"私はいつもある修行をしているので、恐怖を克服したので、コロナに患かりません。自我も欲望もありません"
などと、平然と言っている人が居ますが、こういう人は自我というものが、どういうものなのかすらよく分かっていないのでしょう。
まず、そういうことを認めてくれる他者を想定しないと、こういう言葉は出てこないものでしょう。
"認めてもらいたい、自分を誇りたい"、という思いがどっから来るのか...
考え、為そうとする自分、思われた自分からは分かりようがありません。
そして、そういう自分が修行を志そうとするのですから、どうしてもそれにより何かを得よう、何かの境地を目指そうとする思いに駆られて行きます。
それで何かを得たり、何かの境地に達するのかもしれないが、思われた自分が超えられるということはないでしょう。
(おそらくは、"無"だとか"空"、といったことなどにも思いが馳せて、それを目指そうともするのでしょうが、多分、その内実も分からずにそう思い描かれているだけでしょう)
こういうことを何十年も続けていると、自分が如何に何かを得たか、進んだかといったことを誇りたい気持ちを捨てきれなくなって、ますます自我性を強めて行ってしまいます。
こういう人は、そんなものは、一瞬にして無に帰してしまうことがある、ということなど思いも及ばないことでしょう。
しかし...こうなってみて初めて"思いを超える"、ということがどういうことなのか分かる...かもしれません。
たとへ、何十年もの修行の成果がご破算になったとしても、得たことを失ったとしても、進化したことが元に戻ったとしても、"無になった"んだからいいじゃないですか?
別に、修行というものを否定している訳じゃないですが、こういう"裏側"の消息と隣り合わせのもの、ということを知っておいた方がいいでしょう。
"すべてが無に帰す"ということは、考え、為そうとする自分には、何も帰せられないということ...つまりは、思いを超えさせるもの、そういうものに出くわさなけりゃ、何も始まってこないということです。
そして、そういう恩寵の光を受けて、考える自分の限界が示されるのです。
自分に纏わる思いが無に帰すということは、神に帰す、神に帰るということに他なりません。
ちっぽけな自分が何を求めても何も始まりませんが、神(的なもの)は求められるでしょう。神でも仏でも聖霊でも、そういうものにより頼むことしか出来ないでしょう。
その気が無い人とというのは、いつまでも考え、為そうとする自分により頼んでいて、堂々巡りを繰り返しているのです。
それが人間のサガというものなのか、私自身も勿論克服出来たタメシなどありません。
いや、だからですね、自分で克服しようなどということは...反面教師殿の言行に習って、我が身を省みることが出来る訳で...というか、じんじんと思いを超えて臨んで来るものに迫られるし...
今の時節は否応なしに、そういう在り方を見つめ直す契機が与えられているのを感じずにおれません。
見つめ直すとは、我々の思いを超えた光に照らされるということでしょう。

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