「人間の人格は世界よりも神秘である。」ベルジャーエフ
人間てほんとに中途半端な生き物だと思いませんか?
人間以外の動物でしたら本能とか摂理のままに生かされているのに、なまじっか自由意志みたいなものを与えられているだけに、”生きる意味とは?”だとか”ちゃんと自立して生きる”とか”何かからの依存から離れる”ことなどで、頭を悩まさなければならないのです。
人間一人、生まれるということは、正にこの世に”生れ落ちた”と言った方がピッタリなのではないでしょうか?
何か中途の段階で偶発的に、誤作動かなんかでポコンと出てきてしまった、という印象です。
そして他の動物と違って一丁前になるのに時間がかかるので、その間はもうあらゆるものに依存しなければなりません。
民族、国家、家族、学校、友人関係…依存というか、こうしたものに依拠せざるを得ないものです。
でもただ流れのままに、受動的にそれらに任せていたら”その人生一体誰が生きているの?”ということが、考える人には問題になってきます。
そこでよく言われてきているのが”主体性を持って生きましょう…”ということです。
でも、一体主体性ってなんでしょう? 人間は物心ついてから、先述の諸々の要素に依拠して一応、独立した人間っぽいナリをしているだけです。
つまり見たままの人間からは、一体何がその人らしさ…つまりは人格的なもの、その主対的なものの根拠というものは中々見いだせないものです。
(プロフィールのような作文など見たって分かるものですか! そこにどんな裏面史が隠されていることか…)
だが、ある人と出会い、そこに何とも言えない、その人にしか見い出せない、強烈なキャラクター(造られらたものでない、天性のもの)、その人をその人たらしめている何か…というものは何人にも感じられることでしょう。
これはそもどこから来るのか? それは中途半端な感じで生れ落ちたヘンな生き物、依拠する諸々の付帯的なものの混成、他人が見た所謂”ああいう人、こういう人”の印象だけからは決して分からないでしょうね。
見える人間の裏には、見えない本当の人格的なもの、主体がある。
そうしたものを想起しないとおそらく説明つかないのではないでしょうか?
このより根源的人格、主体といったものは通常の”思われている、そうだとされている”それらとは全く違ったものになります。
何故、人間は一人一人、様相、性格、生き様がそれぞれが掛替えの出来ない有り様で在り続けるのか?
その出どころと思しきものを、私は至(私)聖所と呼んでいますが、これこそはこれまでの精神的、哲学的伝統でも今日流行の精神世界でも語られることの少なかった、秘教的なものの最右翼ではなかろうかと思います。
個人というものが何故在るのか? 何故この矛盾多き二元的現実を生きているのか? (これらのことは絶対に非二元からは何一つ導きだされ得ない事でしょう)本当のことを言えば、それらについてこの見えるままの、思われただけの人間が”こうである!”などと宣うのは僭越と言うべきものです。
それは根源的人格、主体が顕わになった時、自明なものとなる…いや、そのこと自体が”格”なるもの、主体なるものの働きと言えるでしょう。
私の理解では、主体とは如何なる諸々の諸要素、付帯的なものにも自由で、何ものにも依拠してないもののことです。
それ自身で生きて働いているものです。そしてそういう他のものと置き換えられない何ものかが、実体が無くて掴むことが出来ないが…確かに在る。
それは”私は在る”という意識と共に…人が通常言われている人格とか主体性というものは、この深みにあるものの部分的、不完全な表現と言えるでしょう。(そうでなきゃみんなスピ屋のカモにされるしかありません。)
見える実体としての私は仮現的であり、中途半端な部分的現れに過ぎません。半月か三日月のようなものと言っていいでしょうか?
本態的なもの在ってのものなのです。月が丸いというのは満月にならないと分かりません。
だから自分も、人生も思われたままのものでないのです…。
人間てほんとに中途半端な生き物だと思いませんか?
人間以外の動物でしたら本能とか摂理のままに生かされているのに、なまじっか自由意志みたいなものを与えられているだけに、”生きる意味とは?”だとか”ちゃんと自立して生きる”とか”何かからの依存から離れる”ことなどで、頭を悩まさなければならないのです。
人間一人、生まれるということは、正にこの世に”生れ落ちた”と言った方がピッタリなのではないでしょうか?
何か中途の段階で偶発的に、誤作動かなんかでポコンと出てきてしまった、という印象です。
そして他の動物と違って一丁前になるのに時間がかかるので、その間はもうあらゆるものに依存しなければなりません。
民族、国家、家族、学校、友人関係…依存というか、こうしたものに依拠せざるを得ないものです。
でもただ流れのままに、受動的にそれらに任せていたら”その人生一体誰が生きているの?”ということが、考える人には問題になってきます。
そこでよく言われてきているのが”主体性を持って生きましょう…”ということです。
でも、一体主体性ってなんでしょう? 人間は物心ついてから、先述の諸々の要素に依拠して一応、独立した人間っぽいナリをしているだけです。
つまり見たままの人間からは、一体何がその人らしさ…つまりは人格的なもの、その主対的なものの根拠というものは中々見いだせないものです。
(プロフィールのような作文など見たって分かるものですか! そこにどんな裏面史が隠されていることか…)
だが、ある人と出会い、そこに何とも言えない、その人にしか見い出せない、強烈なキャラクター(造られらたものでない、天性のもの)、その人をその人たらしめている何か…というものは何人にも感じられることでしょう。
これはそもどこから来るのか? それは中途半端な感じで生れ落ちたヘンな生き物、依拠する諸々の付帯的なものの混成、他人が見た所謂”ああいう人、こういう人”の印象だけからは決して分からないでしょうね。
見える人間の裏には、見えない本当の人格的なもの、主体がある。
そうしたものを想起しないとおそらく説明つかないのではないでしょうか?
このより根源的人格、主体といったものは通常の”思われている、そうだとされている”それらとは全く違ったものになります。
何故、人間は一人一人、様相、性格、生き様がそれぞれが掛替えの出来ない有り様で在り続けるのか?
その出どころと思しきものを、私は至(私)聖所と呼んでいますが、これこそはこれまでの精神的、哲学的伝統でも今日流行の精神世界でも語られることの少なかった、秘教的なものの最右翼ではなかろうかと思います。
個人というものが何故在るのか? 何故この矛盾多き二元的現実を生きているのか? (これらのことは絶対に非二元からは何一つ導きだされ得ない事でしょう)本当のことを言えば、それらについてこの見えるままの、思われただけの人間が”こうである!”などと宣うのは僭越と言うべきものです。
それは根源的人格、主体が顕わになった時、自明なものとなる…いや、そのこと自体が”格”なるもの、主体なるものの働きと言えるでしょう。
私の理解では、主体とは如何なる諸々の諸要素、付帯的なものにも自由で、何ものにも依拠してないもののことです。
それ自身で生きて働いているものです。そしてそういう他のものと置き換えられない何ものかが、実体が無くて掴むことが出来ないが…確かに在る。
それは”私は在る”という意識と共に…人が通常言われている人格とか主体性というものは、この深みにあるものの部分的、不完全な表現と言えるでしょう。(そうでなきゃみんなスピ屋のカモにされるしかありません。)
見える実体としての私は仮現的であり、中途半端な部分的現れに過ぎません。半月か三日月のようなものと言っていいでしょうか?
本態的なもの在ってのものなのです。月が丸いというのは満月にならないと分かりません。
だから自分も、人生も思われたままのものでないのです…。
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