ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりかと思いますが、私は特定の宗教、思想から自由なのです。
いくつか、そういう団体と関わったことはありましたが、最初に入信した宗教教団は別として、その枠に縛られて、自由を失うということは無かったのです。
特定のそうした枠の中では、けっして私の精神が生かされることはないのです。
これは、その教団との関わりで苦しみを抱き、そこを辞めて初めて自由の尊さを知った私の宿命と言えるでしょう。
それは、言わば無教会人の宿命でしょうか?...これを読まれる方の多くもおそらくそういう人たちではないかと拝察されます。
無教会というのは、ご存知のように明治時代、内村鑑三先生によって提唱されたものでしたが、私がここで言ってるような、”生粋(?)の無教会人”とは意味合いが異なっています。
内村先生に始まる“無教会主義”というのは、諸々の理由で教会に行けない信者や、先生のように教会制度に反感を持っていて、“行かない“信者たちの、ある精神的な”群れ“のことですが、そこでは言うまでもなくキリスト教、それも福音的な教えを信奉するということが大前提となっているのです。
彼らは教会は持たないのでしょうが、心の中にはその精神的牙城ともなる教会は、固く築かれていりのです。
“私はキリスト教からも聖書からも自由だ!”などと言おうものなら、即破門となるでしょう。教会が無いというのに!
又例えば、五井先生を信奉していて、先のように現在の会の在り方に反感を持っていて、会から離れている人でも、先生の教えが強固にその精神に根づいて離れないような人は、私はここでは無教会人と見なさないのです。
要するに特定の教えの信者か否かということが大きいのです。
勿論五井先生に縁のある人でも、そうした信仰から自由な人も相当数居ると思われます。どのくらい縛られ、自由かということは程度の問題と言えるでしょう。
そういう自由な無教会人にも欠点があります。
心根に根づくものが無いというか、一歩踏み込みが足りないというか、如何にも表層を漂ってばかりで、浅薄な印象が拭えないのです。
それでも私は狂信的信者のような在り様よりは、はるかにマシだと思います。
”強いられる“ということが無いから!
言い方を変えれば、自由であること、精神的に開かれていることは、何よりも尊いことなのです。
自由で、開かれているから、今の状態を超えることが、否超えせしめるものを受け入れることが出来るのです。
私はかつて、いつも異なる団体を渡り歩くのを”なりわい“にしてる人に、「あなたのその遍歴の中であなたの魂が揺さぶられるようなものに出くわすことは無かったのですか?」、と尋ねたことがありました。
すると彼は「いや、そういうもので心に“砦”を造ってはダメなんだ!」と先の私の無教会人の”教義”そのままのことを言うのでした。
彼はまだ、“心に砦を造ってはならないという、その心がこぼたれるものには出会っていない“ようです。その言葉からはそういう出会いを予想されるものも感じましたが...
自己はどこまでも、それを超えたものに出会わなければ、平安の内に落ち着くことがありません。
自分の心、思念で築かれた砦、教会堂に居座り続ける訳には行かないのです。
思いを超えたものに捉えられ、自分の内奥にそれが鎮まるまでは!
その場、その時の思いに流されることなく、あの愛、安らぎを感じたならば、少しく意識的になることで、真の神の宮、内なる教会が見えてくるでしょう...。
いくつか、そういう団体と関わったことはありましたが、最初に入信した宗教教団は別として、その枠に縛られて、自由を失うということは無かったのです。
特定のそうした枠の中では、けっして私の精神が生かされることはないのです。
これは、その教団との関わりで苦しみを抱き、そこを辞めて初めて自由の尊さを知った私の宿命と言えるでしょう。
それは、言わば無教会人の宿命でしょうか?...これを読まれる方の多くもおそらくそういう人たちではないかと拝察されます。
無教会というのは、ご存知のように明治時代、内村鑑三先生によって提唱されたものでしたが、私がここで言ってるような、”生粋(?)の無教会人”とは意味合いが異なっています。
内村先生に始まる“無教会主義”というのは、諸々の理由で教会に行けない信者や、先生のように教会制度に反感を持っていて、“行かない“信者たちの、ある精神的な”群れ“のことですが、そこでは言うまでもなくキリスト教、それも福音的な教えを信奉するということが大前提となっているのです。
彼らは教会は持たないのでしょうが、心の中にはその精神的牙城ともなる教会は、固く築かれていりのです。
“私はキリスト教からも聖書からも自由だ!”などと言おうものなら、即破門となるでしょう。教会が無いというのに!
又例えば、五井先生を信奉していて、先のように現在の会の在り方に反感を持っていて、会から離れている人でも、先生の教えが強固にその精神に根づいて離れないような人は、私はここでは無教会人と見なさないのです。
要するに特定の教えの信者か否かということが大きいのです。
勿論五井先生に縁のある人でも、そうした信仰から自由な人も相当数居ると思われます。どのくらい縛られ、自由かということは程度の問題と言えるでしょう。
そういう自由な無教会人にも欠点があります。
心根に根づくものが無いというか、一歩踏み込みが足りないというか、如何にも表層を漂ってばかりで、浅薄な印象が拭えないのです。
それでも私は狂信的信者のような在り様よりは、はるかにマシだと思います。
”強いられる“ということが無いから!
言い方を変えれば、自由であること、精神的に開かれていることは、何よりも尊いことなのです。
自由で、開かれているから、今の状態を超えることが、否超えせしめるものを受け入れることが出来るのです。
私はかつて、いつも異なる団体を渡り歩くのを”なりわい“にしてる人に、「あなたのその遍歴の中であなたの魂が揺さぶられるようなものに出くわすことは無かったのですか?」、と尋ねたことがありました。
すると彼は「いや、そういうもので心に“砦”を造ってはダメなんだ!」と先の私の無教会人の”教義”そのままのことを言うのでした。
彼はまだ、“心に砦を造ってはならないという、その心がこぼたれるものには出会っていない“ようです。その言葉からはそういう出会いを予想されるものも感じましたが...
自己はどこまでも、それを超えたものに出会わなければ、平安の内に落ち着くことがありません。
自分の心、思念で築かれた砦、教会堂に居座り続ける訳には行かないのです。
思いを超えたものに捉えられ、自分の内奥にそれが鎮まるまでは!
その場、その時の思いに流されることなく、あの愛、安らぎを感じたならば、少しく意識的になることで、真の神の宮、内なる教会が見えてくるでしょう...。
永遠に。神の仕組みなんて、クソ喰らえ。
他人が信じる神とは、神では無いかもしれない。
当たり前だのクラッカー🎉。
私は、私と出逢ってくだされた、神を神と認めるのみ。
それは、エゴ、妄想、それがどうした、私は吾、神を大切にするのみ。
真宗ほど著しく、本来性からズレた在り方は無いと思います。