このブログでは、ある意味常識を疑うような事に結構触れることはあっても、普通の人には分からない、見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたり、前世とか輪廻転生だとかいった、所謂超能力、霊能関係の事には直接触れないことにしています。。
理由は何度か書いているように、それらは多くの人にとり想像、空想の域を出るものでなく、それに思いが捉われる事により、あの本当に疑い得ないリアリティの世界から離れてしまうからです。
その世界を望むでもなく、興味も無いという人には、全く関係の無い話であるのは言うまでもないことですが…
私は以前、自分の本心を開くには、まずこうした霊能的な事に目覚めなければならない、と思い込んでいたことが有ったのですが、初めは霊能的な人の話を興味本位で聞いていたのですが、段々そういう話の醸し出す雰囲気になじめなくなり、これは自分が進むべきものじゃないな、と直観的に思えてきました。
それから自分自身経験したことを踏まえても、霊能的な道と本心に目覚める事とは関係が無いと言えます。
この事は、現在あちこちで覚醒の連鎖反応とも言うべきことが起こっているようですが、その多くの体験者はほとんどそうしたことには触れない、というところからも伺い知ることが出来ます。
ただ世の中には自分が望んだ訳でも無いのに、何かの縁でそうした例えば霊視だとか、霊聴だとかの力が発現してしまうケースも有りますね。
私の知人にもそんな人が居りますが、自分の意志に関係無く霊的な干渉を受けて日常生活にも支障をきたすとのことで、私など経験無いのでそんな苦労は預かり知れません。
その方とのやりとりで、とても興味深かったのは、彼が私がよく言う、”見えざる導師”のことがよく分かると言っていたことです。
「それは見えないと言っても霊眼に映じたり、霊聴として声を聞いたりするものじゃなくて、意識に直接伝わるものですよ。」
と説明したら、よく分かる、と言っていました。
機会が有ったらもっと詳しく色々聞いてみたいと思っています。
この肉体的、霊感的(これは私にはあまり理解出来ない事なの推測ですが)問わず視覚や音声を通さずに、意識に直接伝わるという事は、思考を超えているという事です。
こういう事言うと、又霊感と言わなくともやはり普通の人が理解出来ない、特殊な領域の事のように捉えられてしまうかも知れません。
でも私自身この事は、30数年前のあの時まざまざと知ったのですが、はるか前からジワジワと微妙な形で知らされてきたものです。
例えば、前述の「霊能的な道は自分の道とは違う!」とどうして思えたりするのか?
もっと言えば、神に思いを向ければ、何故喜びが立ちあがってくるのか?
それらは勿論覚醒といった突出した次元の事でなく、諸々の思いが去来している、ありふれた日常の中でのことであるのは言うまでも有りません。
でも…それは移ろいゆく思考の波と共に消え去ってしまうものでは無いのです!
いわば思考の根底、心の底にずっと生き続けているものなのです。
こういう事は誰でも経験しているのでは?
まだ?…でしたらものは試しに、自分が信愛している神仏でも、人物でもイエス、ブッダ、五井先生、ジバニャン…何でもいいですから思い浮かべてみて下さい…。
何となく有難い気持ちになって来やしませんか?
実は言うと…そういう事しなくても信愛している何かを思い浮かべられる人は分かっているハズです。
何で信愛しているのですか?
そういう気持ちはどこから来るのですか?
心の底に生きているものとはこういうものです。
いつもいつもありふれた日常の中でも、有難い気持ちでいたら、ある時思いの壁を超えて直接その信愛の当体と出会う事も有り得るのです!
理由は何度か書いているように、それらは多くの人にとり想像、空想の域を出るものでなく、それに思いが捉われる事により、あの本当に疑い得ないリアリティの世界から離れてしまうからです。
その世界を望むでもなく、興味も無いという人には、全く関係の無い話であるのは言うまでもないことですが…
私は以前、自分の本心を開くには、まずこうした霊能的な事に目覚めなければならない、と思い込んでいたことが有ったのですが、初めは霊能的な人の話を興味本位で聞いていたのですが、段々そういう話の醸し出す雰囲気になじめなくなり、これは自分が進むべきものじゃないな、と直観的に思えてきました。
それから自分自身経験したことを踏まえても、霊能的な道と本心に目覚める事とは関係が無いと言えます。
この事は、現在あちこちで覚醒の連鎖反応とも言うべきことが起こっているようですが、その多くの体験者はほとんどそうしたことには触れない、というところからも伺い知ることが出来ます。
ただ世の中には自分が望んだ訳でも無いのに、何かの縁でそうした例えば霊視だとか、霊聴だとかの力が発現してしまうケースも有りますね。
私の知人にもそんな人が居りますが、自分の意志に関係無く霊的な干渉を受けて日常生活にも支障をきたすとのことで、私など経験無いのでそんな苦労は預かり知れません。
その方とのやりとりで、とても興味深かったのは、彼が私がよく言う、”見えざる導師”のことがよく分かると言っていたことです。
「それは見えないと言っても霊眼に映じたり、霊聴として声を聞いたりするものじゃなくて、意識に直接伝わるものですよ。」
と説明したら、よく分かる、と言っていました。
機会が有ったらもっと詳しく色々聞いてみたいと思っています。
この肉体的、霊感的(これは私にはあまり理解出来ない事なの推測ですが)問わず視覚や音声を通さずに、意識に直接伝わるという事は、思考を超えているという事です。
こういう事言うと、又霊感と言わなくともやはり普通の人が理解出来ない、特殊な領域の事のように捉えられてしまうかも知れません。
でも私自身この事は、30数年前のあの時まざまざと知ったのですが、はるか前からジワジワと微妙な形で知らされてきたものです。
例えば、前述の「霊能的な道は自分の道とは違う!」とどうして思えたりするのか?
もっと言えば、神に思いを向ければ、何故喜びが立ちあがってくるのか?
それらは勿論覚醒といった突出した次元の事でなく、諸々の思いが去来している、ありふれた日常の中でのことであるのは言うまでも有りません。
でも…それは移ろいゆく思考の波と共に消え去ってしまうものでは無いのです!
いわば思考の根底、心の底にずっと生き続けているものなのです。
こういう事は誰でも経験しているのでは?
まだ?…でしたらものは試しに、自分が信愛している神仏でも、人物でもイエス、ブッダ、五井先生、ジバニャン…何でもいいですから思い浮かべてみて下さい…。
何となく有難い気持ちになって来やしませんか?
実は言うと…そういう事しなくても信愛している何かを思い浮かべられる人は分かっているハズです。
何で信愛しているのですか?
そういう気持ちはどこから来るのですか?
心の底に生きているものとはこういうものです。
いつもいつもありふれた日常の中でも、有難い気持ちでいたら、ある時思いの壁を超えて直接その信愛の当体と出会う事も有り得るのです!