人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

出口聖師

2015-03-21 15:44:47 | 人生の教師
ハワイで活躍していたマスター、フーマンによれば、今まで日本の歴史上出現した中で最も偉大なマスターは、出口王仁三郎だと言います。
私はこれを知って、直接その話を聞いていたキヨタカさんと同じく「へえ…そんなものですかねえ?」と思わざるを得ませんでした。
もとより誰がどんなだったかなどということは、どっちでもよく「君がどうかい」ということの方が重要なのですが…それにしても話としては面白いです。
ただ言える事は出口聖師個人の法力というものが、果たしてどんなものなのかは知る由も無いですが、直接どこまで関わっていたかはともかく、こと聖師在世時のその周囲に巻き起こった数々の影響たるや、もうケタ違いだったと言う他ありません。
出口聖師の歩くところ、発現するところタダでは収まらない、という感じです。
例えば大正14年、大本が標榜していた万教同根を地で行くような、世界宗教連合会なるものが掛け声だけに終わらず実現してしまいました。
昭和に入ると、”世の大立て替え、立て直し”を触れ回るだけでは済まない、実行団体と思しきものが出現します。昭和神聖会です。
これに右翼の黒幕だとか、国家を動かすような有力者たちが流れ込んできます。
”アレはハッタリどころじゃ済まない!化け物に国家が乗っ取られる!”と躍起になった当時の官憲は徹底的に大本、その関連団体を潰しにかかりました。第二次大本事件です。
これは20年前のオウム真理教事件とは、全く裏返したような構造になっていることが知られます。
国家の転覆、クーデターだと確信して乗り込んでみたら、その実態は…農村自給計画のようなものだった…
オカシナことやってる新宗教を野放しにしていたら、これがまさかまさかのテロ集団だった…
警察当局がうかつにオウムに踏み込めなかった大きな理由、それはかつて大本に適用した悪名高き治安維持法の行使~国家権力による宗教弾圧~など、罷り通す訳には行かない現代の事情が有ったためです…。
では大本とは時の権力の犠牲者だったのでしょうか?
いや、この事件の裏は出口聖師自ら仕掛けたものだったことにより、複雑なものにしています。
何も知らない一般信徒こそは、そうだったかもわかりません。
では一体何のために?
日本を救うためだった…これはもう真偽のほどは分かりませんが、広島、長崎の原爆投下により、日本の降伏、軍部の国家支配の撤廃の型を大本を潰すことにより表さなければならなかった、というものです。
これが事実だとすれば…もしその型が表されていなかったなら…私はこの世に居なかったかも知れません…
何故ならば、聖師の霊眼には、二つの原爆で大戦が終結にしなかったならば、原爆はやがては東京にまで及ぶものが映じられていたというからです。
当時東京在住だった私の両親のことを考えると…
やはり聖師は救世主だったのでしょうか?
このように世間では、その超人的、カリスマ性が取り沙汰される聖師ですが、実際の人となりというのは一体どうだったのでしょうか?
私はかつて”聖師と直接会った事が有る”という人から訊いたのですが、応対に現れた大先生は何と!素っ裸、フルチンだったというではありませんか!
こんな教祖さんなんてかつて居たでしょうか?いくら超人的、アヴァターなのかは知りませんが、超然としたところなど全く無いようです。
”出口聖師を囲んでの青年との座談会”が書物になってますが、そこに見える聖師のイメージもきわめて取っ付きやすい好爺という感じです。
私はこういう側面を見ると、一個人の聖師は、きわめて人間臭い人間だったが、その周りには個人の力を超えた霊的磁場が醸し出されていたという事を感ずるのです。
思うに聖師そのものは、その見えざる霊威に全く惟神に委ねていただけであろうと思います。
これは人がそれぞれ自己の大本に任せ切れば、そのご自体がタダならぬことを現出するということではないでしょうか?
梅香る春ともなり”神が表に顕れる”その型は今実地に映って来ているのを感じています。
出口聖師に影響を受けたダンテス・ダイジさんが紹介していた聖師の歌があります。

我もなく うつしよもなく ただ独り 神のみ前に ひれ伏しおろがむ







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サムシングに恋して

2015-03-20 15:56:49 | 雑感
宇宙とか神とかを気にするな
君は無限にそれ以上だ

君にとって一番すてきなもの
それが君なんだよ   
       (ダンテス・ダイジ)

20年前、地下鉄サリン事件を起こしたA真理教が標榜した覚醒(洗脳)プログラムには、ある瞑想指導者の影響が有ったと言います。
ダンテス・ダイジ。クンダリーニ・ヨガを指南したことで知られ、30年近く前、若くして帰幽した(死因は事故死とも自殺ともいわれる)にもかかわらず、現在でも根強いカルト人気を持っているようです。
私はその名は以前から知っていましたが、そのような曰くがとりまいているなど、どうも危険な匂いがするので遠ざけていたのですが、最近その講話集を読んでみたら…面白い!素晴らしい!ホレボレとしてきます…
危険なマスターなんて匂いは全く無くて、若き求道者や芸術家のたまご?の兄貴分といった感じです。
何よりこの人はあの崇高にして、甘美な世界に足を踏み入れてもうどうしようもなく、言い表せないものに恋焦がれて止まなくなってしまった、という印象です。
我々は何故、何のために道を求めるのか…当面の悩みを解決したいから…悟りを開きたいから…世界平和を実現したいから…
もっと自分を磨きたい…神に近づきたい…
ご苦労さんなことです!
サムシングにタッチされ、甘い誘惑を受けたらもう恋に落ちてしまう他ありません。
これはもう理屈ではありません!信じるとか信じないとか、従うとか背くとか…
「この集会は楽しいねえ、君たち楽しくないかね…」(小池辰雄)
理由も無く楽しいことをやらされていただけです。
紙に書いたような信仰マニュアルも、瞑想のテクニックも全て要らない!何一つ身に付いちゃいません!
何かの縁に触れてジワーッと伝わってくる喜ばしい内流に身を任せていただけです。
私が巡り合った、人生の教師たちから受けてきたものとはこういうものだったのです。
そして私の導きからは「ああしなさい、こうしなさい」というものは受けていません。
大概は「君はどうだい」(ダンテス・ダイジ)というものだったのです。
そして又こうです。「君は君になれよ」( 同 )
人は自分自身の宝の山~至聖所を捨て置いて、一体何をめざし、何になろうというのでしょうか?
ここから外れた時、自分に本来無い他流の侵入を許してしまう事になるのです。
そして禁断のプロメテウスの火は、ケモノによって盗用されてしまった…
いつしか夢に見た理想郷は、ケモノに蹂躙されたバビロンにとって代わった…
でも…20年前審判が下されました。
もう、自分の外に聖所を求めるのはオシマイです。
これからはもう…自分を誤魔化し、偽る人間には本当のサムシングからのラブレターは届かなくなるから…。









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主体性

2015-03-19 18:32:23 | 哲学・思想
ある日、私が我を忘れたようになって何かを話していた時、ある人はそれを見てこう言いました。
「まるでヒトラーみたいですね!」
こういう時はデモーニッシュというか、何かが乗り移ったように見えるらしいですね。
だからと言って、私は勿論その時神がかりとか霊おろしとか、近年でいうチャネリングとかをやっていた訳ではありませんよ。
大体私の場合、話している時、身振り手振りジェスチャーが入り出したり、瞬きをしないでジーッと一点を見つめているようになったら、そういう兆候があるようなのですが…。
そうした世界にも、それこそピンからキリまで、受ける人に応じて色々な様相が有りますね。
時に妙な憑霊現象のようなことも起こり、私もある集まりで実際に目撃した事が有ります。
この時の私の印象として周りの人間がやたらと「サタンの試みだ!」とか言い出して、余計に騒ぎが大きくなってしまった感が有りました。
私はこういう場合、霊視者ならいざ知らず、さも見たように「サタン!、邪霊だ!」と決めつけたようなことは言わないようにしています。
そういう事を強調することにより、周りに何か魅入られたように、怪しい雰囲気が立ち込め始めてくるからです。
ただ、そこでは理由は分からないがその人の精神、感情のバランスが崩れている、というだけです…。
こういう怪しげな空気というものは、大体において人を現実遊離というか”心ここに在らず”の状態にさせてしまうものです。
何か得たいのしれないものが乗り移るような状態と”我を忘れて、自分が自分でなくなる”ような自己の本体がお目見えになってるような状態とは、どちらもデモーニッシュですが、何が違うのでしょう。
それは主体性の有る無しです。”自分がここに在る感じ”が有るかどうか…
そして自己の大本に意識が離れて、ある宗教の教祖とかグルーなどに依存してる人にはこれが持てません。
その教師にもし、スキャンダラスな事件でも立ち上がったら、さっさとその下を離れて別の教師に鞍替えするかもしれません。
また別のグルーの方がレベルが高い、実力があると感じるや、やはりそうするでしょう。
私もそのように見られていたのかもわかりませんが、遍歴の繰り返しです。
これが恋愛だったら、貞操観念も何もあったもんじゃないくらいです。
でも間違えちゃいけません。
自己の本体とつながること…それが本当の婚姻、霊的婚姻です。
本物のグルー、教師ならそれを祝福してくれる筈です。
宗教や教師の権威だとか、精神世界にとり巻いている様々なガラクタに心を奪われていては、何時まで経っても伴侶を見出せません。
”自己を明け渡す”と言いますが、チッポケな自己を自己の大本に明け渡すということの他には無いのです。
うっかり、特定のグルーに自分を明け渡して、それが”あの教祖”のような人間だったらどうするのでしょう。
自分が自分でなくなる…といってもここでは主体性の放棄です…。

何かが乗り移るようなことには、全く異なる紙一重の事がありますね…
明け渡すということにも…
私は今日程”自分を信じること”の大切さを感じずにおれません。













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自己の大本

2015-03-17 19:44:18 | スピリチュアル
「貴方が一番幸福感とか充実感を持てるのはどういう時ですか?」
以前こう聞かれて、漠然としてるようですがこのように答えました。
「自分が自分でない、自分が誰だか分からなくなってしまうような時です!」と。
(そうなんです!私は通常思われているよりもかなりアブナイ人間なのです!もっともこのブログに親しんでいる方にとっては、今更の感がおありでしょうけど…)
これはとても逆説的なのですが、こういう時というのがもっとも自分らしい感じが持てるのです。
我を忘れてものを書いてたり、何かに取り付かれたように語っていたり…
まるでこの世に怖いものなど無い!ように感じるものです。

”人生の極地…それはエクスタシーである!
エクスタシー無き人生…何百年積み重ねようとも、そこに生の燃えるようなその瞬間が無ければ何になるだろうか!”

エクスタシーはしばしばエロいことに結び付けられたりしますが、元々は魂が自分から超え出るというような意味です。
芸術家や預言者に限らず、人生のどんな局面でもこういう事は起こり得るものです。
(ウーン!しかし…何にしても…人間の理性なんてものは儚いもんですな?)
では、これに反して、幸福感も充実感も持てない時というのは?
それは多くの場合、自分のことに捉われている時ですね。
自分は間違っているんだろうか? 変人ではないだろうか?異端ではないだろうか?
こんなケッタイなブログなんて書いてていいんだろうか…
皆さんも心当たりはありませんか?
これまた逆説的ながら、頭の中が「自分、自分」でいっぱいの時というのは、自分に迷っていて、自分を見失っている状態なのではないでしょうか?
そしてビクビクと戦々恐々、他人の目が気になってしまう…
こう考えると…そも自分、自己とは一体何なのか?不思議でしょうがないと思いませんか?
ま、大体チッポケな自分に捉われ始めると、自分を袋小路に追いやってしまうという事は、誰しも自覚出来るんじゃないかと思います。
問題はその”どうってことない器”のフタがなんかの拍子に開けられた時、中からお出ましになる巨人の正体です。
私はこの我ならぬ我がお目見えになっている時、自分らしさを感じていると言いましたが、それは主体的に感じているという事でもあると思います。
これはどうしても通常考えられている、自己のより深いところに自己の大本、本体がお在す、ということに行き着くと思われます。
つまりその人生の本当の主体者というのは、普段は隠れているこの自己の大本であったのです。
この巨人がアリアリと現前した時、チッポケな自分はそのものに明け渡さざるを得なくなるのですが、この事は本当の意味で自分を生きるという実にシンプルなことなのですね…。
何が自我で、何がエゴで、何が真我で、ハイアーセルフで…なんて頭ン中でアレコレ廻らしているより…今日の東京は気温が急上昇ですよ!
ときめきの春ですよ!エクスタシーではありませんか? どうも今日は脱魂…いや脱水症状になったようです。やたら喉が渇いて…







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ガイダンスとオーヴァーソウル

2015-03-15 14:35:11 | ガイダンス
ガイダンス。私は常々見えざる導師と呼んでいます。
わが国では、五井先生などによりそうした存在を守護霊、守護神と呼ばれて定着しているようですが、神的存在というものを漠然として捉えどころのないものではなく、我々に親しく働きかけてくるものとして認知させたという意義な大きいと思いますが、ある面そこに固有の心霊学的イメージが付きまとってしまっているのも否めないようです。
そこでは自分と、その守り手であるものが別々のものとして捉えられやすいという面が有ります。
ただ五井先生は時折「本当の人間というものは神の分霊としての自分と守護霊、守護神とがセットになっているのです」と所謂真我と一体のものであることを仄めかしています。
また、インドの聖者ラマナ・マハルシはズバリ「神、導師、真我は同意義である」「本当の導師は貴方の内に居る」と言います。
そして又、現代の瞑想マスター、アジス・クリストフによれば「ガイダンスは高次の知性であり、オーヴァーソウルから来る」のだそうです。
(先祖の悟った霊だとされる守護霊から段々昇格されてきている感じがします)
ここに唐突にオーヴァーソウルなる言葉が出て来ましたが、私が知る限りこの言葉を初めて使ったのは19世紀のアメリカの哲学、文学者ラルフ・W・エマーソンではないかと思います。
日本訳では”大霊”と訳されることが多かったようですが、彼自身の超越体験に基づく「そこにおいてあらゆる個々は全てとつながっている」という普遍調和世界のことです。
こうした表現は、それを垣間見た人の数だけ有るのでしょうが、私は今、その世界自体があたかも生きた人格的なものを彷彿させるものとして、出口王仁三郎師が神界のヴィジョンを示された”大神人”という表現に注目してみたいです。
というのも、私自身がその世界を垣間見た時、最初全く私個人に関わって導いていたその個的な見えざる存在が、何かがフタ開けされた瞬間、爆発的にとてつもなく巨大なものに化けてしまったように感じられたからです。私の脳裏にその時浮かんだのは”大巨人”でした。
(アンドレ・ザ・ジャイアントではないですよ!)
普遍調和世界というのは、生きたこのものの実相と言うべきでしょうか?
そしてこれはまた、本当の私自身ことなのかも分かりません…。
何とも言葉に言い表し得ない次第で…(うかつに信じちゃいけません!貴方自身で確認すべきものです!)
要するに私の理解では「神、導師、真我、そしてオーヴァーソウルは一つ!」です。
では、そのどの面からアプローチしてしたらよいのか?
私は、別段そうしようと企てたつもりも無かったですけど、知らず知らず見えざる導師に導かれただけです。
前述のアジス、そして特にそのパートナーだったフーマン・エマミはガイダンスとつながることを強調しています。
勿論見える?肉体を持った導師とつながるのもいいでしょう。
惜しいことにアジスは何でも最近隠遁してしまい、フーマンは数年前に他界してしまいました。
でも我々はいずれガイダンスの存在をアリアリと知る時が来るでしょう。
今は何かがフタを開き、得体の知れない地味魍魎が巷に浮遊しているかのように見えますが、いっぽう我々の本当の故郷であるオーヴァーソウルからの使者の示現も多くなって来ていると感じています。
特定の導師に帰依することなしに向こうへ行ってしまった人というのは、その導きを受けているということなのでしょう。
そしてそれと共に神、自己、世界の真相も明かされてくるでしょう…それらは一つのことだからです…

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