人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

不思議なZENTAXI(その7)

2015-04-18 20:43:01 | 創作
私の時空を超越した冒険も、どうやら終わりが近づいたようです。
私しかその不思議なタクシーの搭乗が許されていないにも関わらず、彼をも巻き込んでしまったからです。
私のリップサービスが高じて、この不思議なタクシー、不可知なる世界の住人、未分さんの秘密の一端を漏らしてしまったのが災いしたようです。
しかし…そのもっとも大きな理由は、我々を一つにさせてくれていた、あの甘美なバイブレーションをともなった臨在感が消えつつあるからです。
35年前、あれほど時空を超えてアリアリと現実に浮かび上がらせていたものが、何だか急に霞がかかったようにぼやけだしてきたのです。
そして彼がこの不思議なタクシーの存在をハッキリ知った時、私は消え去らないとならなくなるのです!
これは何とかせねば…幸い今、彼は35年前から現在へ突然テレポートしてしまった事実を飲み込めず、混乱している最中です。
「オ、オジサン…一体こりゃあ、どうなっているんだ! ここはここであってここじゃあない。だとすると…どこだ!さっき売店でテレビを見たが、全く見たことの無いCMばかりだよ! ビールのヤツで歌っているのは、間違いなくノーザン・オールスターズの桑田K助だ! 去年”いとしのマリー”の一発ヒットで終わったと思って久しぶりに見たけど、尋常でないフケぶりなんで驚いたよ!」
―一発ヒットだと! じょ、冗談言っちゃあイカンよ! 勲章もらってんだぞ!…あ、いや…そのう、なんだ、彼は元々ああいう老け顔じゃあないか…
君の気のせいじゃあないかな…それと、この際だから言っておくが、もうテレビとか新聞とかは見ない方がいい…国際秘密結社に牛耳られてんだ!人の頭を混乱させるような事ばかり流しているんだからな…」
「僕は毎年春になると体も心も変調に見舞われるんだ…一寸休みたいんだけど、何故僕のアパートが突然消えちゃったのかなあ?」
―じゃあ、とりあえず近くの公園に行くとしよう。そう言えば…君は確か去年の初めころから変調が有ったと言ってたね…。これは…おそらくクンダリーニが上昇したという事じゃあないかなあ…そこへこのところの気温の上昇に伴って、いよいよアブナイ状態になっているんだと思う
「そ、そのナンダとかいう蛇みたいのが頭から抜けたら悟れるとかいう…」
―そうそう、そうなったらこの苦難多き浮世のことはみな永遠の春の夢だ。
「でも、そうなるってことは、アブナイ目に合う事と引き換えなんでしょ?」
―そうだ…何もかもを委ねる覚悟無しに至高に預かることは出来ないよ!
「何だか僕に今決断の時が巡って来たようです!僕の全人生の焦点が今ここに来ているのです!」
〈私はここで彼に全託してもらい、何とか35年前に戻ってもらおうと、唆していたつもりがこんなにもハマってしまうとは思わなかったのです。そして益々私は調子に乗ってしまいました。)
―そうだ!その調子だ!君に全てを委ねる決心がついたのなら、とっておきのマントラを授けるとしよう…勿論タダで…
「おお、オジサン!いや、いまの僕には貴方はずっと探し求めていた、運命の導師に思えますよ!お、お願いします。その至高の世界へといざなうというマントラを…」
―よ、よし、では耳をかっぽじって聞くがよい!では…いこう、こう称えるんだ…
OOO
す、すると大変な事になってしまいました。ウソから出たマコトと言うか…彼は何か電撃を受けたようになってそのまま気を失ってしまったのです。
彼の身に不測の事態が起こったら…私が消え去らないようにしたことで、君が消えちまったらどうもこうもないじゃないか! 未分さん!何とかしてくださーい!…こうなったら、もう一か八か、あのデタラメのマントラを称えるまでだ!よーし…
OOO
ウーム…
ぴよ、ぴよ、小鳥のさえずりか…
お目覚めのようだ…ラジオでもつけてみようか…懐かしい曲をやってるな…

もんた&ブラザーズ、ダンシング・オールナイト

言葉にすればア…ウソに染まるウ…エッ、こりゃあ、ヤバイ!踊ってる場合じゃない!ここは何時の、どこなんだあ…
「お目覚めかね…」
―あ、貴方は誰ですか?
「私かい?、忘れたのか…私は35…万年前の君だ!」
―じゃあ、今は…
「今、今はオールタイムだ!過去も現在も未来も…全て未だ分離していない。そのラジオのように35年前のリクエスト、何時の時代のリクエストにも応じられるよ。」
―ハア、これはリクエストだったんですか…と、ところであいつはどうなりましたか?
「35年前の君のことだね、彼なら今頃戻って”ここはどこ?今はいつ?”とか周囲に聞きまくって、困らしているところだろう。…では事のあらましを話そう…そもそもこの時空を超えた旅というのは彼からのリクエストから始まったのだ。彼は35年前の今頃、夜中に突然君もよく知ってる思いがけない喜びの訪れを受けたのだ。そして目に随喜の涙を浮かべながらこう健気にも祈っていた。
”どうか神様、ご先祖様天来の恩寵が降り注がれますように”…とね…」
―わ、分かったーッ!思い出しましたよ!あの小雨模様の真夜中、ジッとしていられなくなって街中を徘徊してたんですよ!」
「そうだ。彼はとっくにその恩寵に預かっていながら、全く自覚などしてなかった。そして就職して世の中にもまれたら、きっとその有難い感覚は消えてしまうと思い込んでいた。違うかね。」
―あれは確か、その後色っぽい姉ちゃんと会って、エモーションが込み上げてくるうちに消えてしまったと思ったのですが…いや就活で面接を受けている時、”この世は幻想だらけです!”とか浮世離れしたこと言って、担当から苦笑を買ってるうちにそうなったのかなあ…
「どっちにしろ、君は彼に本当の彼の進路を見定めさせるために35年前に赴いたのだ。それが彼のリクエストによるものなのだ」
―じゃあ、D会との出会い、関西行きも…
「そう、君が唆した…彼は迷いながらも自分と何ものかによって、方向づけられた運命をどうしたってたどらざるを得ない…私が君にそうしたようにね…」
―あ、貴方はもしや…
「私はじきに消え去らねばならない!君に知られた以上は…ウン、このとっておきのマントラと共に…ではあらゆる時代の、あらゆる世界の永遠の君よ…さらば又会おう…」
OOO
ウーム…
お目覚めです…謎のオジサンの夢を見たような…謎のマントラ何だったっけ…”ラッスンゴレライ”みたいな…
ハッキリしてるのは夢でも現実でも…これは同じです。”ジンジン”


            終わり













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私の歴史開かる

2015-04-17 19:12:34 | 映画・音楽など
皆さんは何歳ごろからの記憶が鮮明に蘇ってきますか?
私の場合、何と言っても昭和39年からです。東京オリンピックのあった年ですね。
それも今頃の季節からだったと思います。私が6,7歳のころです。
それ以前は何か混沌としていて、私における天地がまだ部判していない感じです。
私の歴史はこの年から始まったといってもいいでしょう。
とにかくその年、私の人生にエポックの数々が刻まれたのです。
生まれて初めてハマッた音楽、曲…これは間違いなく「ラ・ノビア」という曲です。
当時「ザ・ヒットパレード」というザ・ピーナッツや弘田三枝子ら(ナベプロ・オールスターズ)日本人歌手によって、洋楽トップテンヒットを歌うという趣向の番組でやっていた曲です。
この時の洋楽は日本でもビートルズ旋風の真っただ中で、”アゲハ―”という曲(抱きしめたい)、”ハーディナイ”という曲(ア・ハード・デイズ・ナイト)といったビートルズ・ナンバーがベストテンをにぎわしていた(もっともこの事を知ったのは大分後年になってからでしたが)のですが、この年の洋楽で特徴的だったのは、その中に常に何曲かカンツオーネ(イタリアの歌謡曲)が入っていたことです。
これはそのうちの一つで原曲は南米アルゼンチン産で、イタリアの歌手トニー・ダララが歌って大ヒット、日本ではペギー葉山さんがカバーヒットさせました。私はこの自分からエモーションをあまり表に出さず、徐々に高めて行くような曲が好きだったのです。
そしてこの頃、私は危うく死にかけた事が有ります。
小学校でクラスの悪ガキのいたずらで、高さ1m半くらいの台から頭からまっさかさまにコンクリートめがけて落とされてしまったのです。
今思い出してもゾッとしますが、頭がい骨折や首の骨が折れてもおかしくないのに、一日中偏頭痛がしたのと、頭のコブだけでよく済んだものだと思います。
これは私の人生で”見えざる守護”というものをもっとも強く感じさせる出来事でした。
その日は午後から母に映画を観に連れて行ってもらいました。「モスラ対ゴジラ」です。
ゴジラの雄たけびが映画館内に響きわたるたびに、頭がズキズキしたものです。
伊福部昭さんのサントラではこれが一番好きです。エモーションが徐々に高まってくるようで…
それにしても、ゴジラの放射能光線で羽を焼かれながら、卵(あんなニワトリの卵のような蛾の卵があってたまるか!と思いましたが)のもとに落ちて行くモスラの悲壮感漂う姿が忘れられません…。
しかし私が生まれて初めて、ハラハラドキドキ感動しながら観た映画はその年の夏テレビの深夜映画で観た「猿人ジョー・ヤング」でした。
これは怪獣映画クラシック「キングコング」路線の巨大類人猿ものですが、凶暴なコングから「コングの息子」を経て、小型化するにつれて段々人懐っこくなっていくというある種の進化が見て取れるようで面白いです。
(前二作は前の年に観ているのですが、いかんせん混沌としていて印象に残っていません。ストーリーなど頭に入ってませんし)
ずっと大人になってからビデオで観ましたが、最後の場面燃え盛る炎の中で孤児たちを救出した後、ドッとくずれおちるジョー…”アッ!死んじゃった!”と思いきやケロッと出てきた時の安堵感など、アリアリと記憶が蘇ってきたのには驚きました。
さして評判になりませんでしたが、私にとっては忘れがたい作品です。
その頃確かハイヤーで開通した翌日の東名高速を通って行った、羽田空港で観た夕日の怪しいまでの紫紅に染め上がった空の美しさ!その頃から私の
一日のバイオリズムが高まるのは黄昏時であると意識されるようになりました。
この年は国内でも東京オリンピック開催、新幹線ひかり、その東名高速開通など…重要な年でありましたが、私の人生でもここで書ききれない程レコードに喜怒哀楽がくっきり刻まれるようになったのです。
そのように鮮明に記憶が蘇ってくるのは、概ね楽しい気分で過ごしていたからなのでしょう。実際はそんなに手放しで喜んでいられるような家庭事情では無かったのですが…。その頃からはしゃぎ回るような直情性、エモーションは抑えられて、ジワーッと高まってくるような喜びに浸っていたようです。


ノスタルジーと哀愁とちょっぴりエモーショナルなアザーサイド名曲館…今日は人生最古版です。

oTony Dallara ”La Novia”
o伊福部昭 ”モスラ対ゴジラ”
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消えた”ジンジン”

2015-04-14 18:23:49 | 回想+音楽館
今日は一つ、あのジンジンして来る”あれ”について書いてみよう…と思ったら、もう始まりましたよ…ジンジン…と。(このところ寒暖の差が激しいので風邪かも知れませんが…)
最初にこの感覚を身に覚えたのは、何度も触れているように昭和54年初春の頃でした。
ところが…これがいつの間にかある時消えてしまったのです。
「消えちまった!」と言う自覚意識も無いうちに、本当にいつの間にか…という感じでした。
気が付いたのは翌年の夏頃でした。
その夏は、実は夏という感じが全くしないで、あのギラギラした太陽に照り付けられた、なんていう記憶はまるで無く、ずっと曇り空が続いていたと思います。
しかも気温がやたら低くて、肌寒さを覚えた日も何度もあったと記憶しています。
一体何で又そうなってしまったのか? 思い当たるフシはあります。
おそらくそれは”煩悩”だろう…まるでその太陽の照らない夏の様に、私の気分はずっとブルーになっていたのでした。
こうなったキッカケと思えるのは、どうもその少し前初夏の頃、バイト先で知り合った、私と同じ大学の女子大生との出会いだったようです。
どこか元祖中年殺し?五月みどり(知ってる?)に似た色っぽい感じの子でした。
私はその子に恋愛感情を抱いていたのか…これが微妙なもので、ただその色気にフラッときただけなのかもしれません。
そうしてこのエモーショナル(この言葉はこういう時に使うんでしょ?)なものが立ち上がって来て、自分の理性との葛藤とかが有り…ロマンチックになったり、妄想?したりしてるうちに、メランコリーに陥り、気が付いたらあの感覚は蒸発してしまった…という次第です。
ちなみにその女子大生とは、何にもないまま私は夏の終わり頃バイトを辞めたのです。
でもブルーな気分はその後も続き、新たなバイトを始めた晩秋の頃、これまた自然消滅しました。
して…あの感覚は復活したかと言うと、その後十数年もフタを閉められたような状態になりました。
顕著に蘇ったのは平成8年になってからです。
しかし、そんなに長いこと憂鬱さって持続するものなのですかねえ?…昔から躁鬱傾向が有るものですから…今思い返してみれば私はブルーな気分に浸りたかったのだと思います。
それにしてもあの感覚は何故消えてしまったのでしょう?別のものが立ち上がり、意識がそれで覆われてしまったから?
しかし、今でも年がら年中煩悩に覆われてしまいますけど…ただ長く続くことはありません。
これはそもそも、表面意識で”消えた”と思い込んでいるだけで、意識の底にはずっとあり続けていたのかも分かりません。
ところで、この自然消滅、フタ閉めの期間を挟んで以前と以後では微妙に感じ方が違います。
以前は下から頭の方に上ってくる、昂揚してくる感じだったものが、薄らいできて大地に根を下ろしたような、落ち着いた感じになりました。
多分今までもそうだったように、これからも頭の事情に関わらずそうであり続けているのでしょう…。
それにしても憂鬱な雨模様が続きますね。そういう夜には…


ノスタルジーと哀愁に満ちたアザーサイド名曲館

oJimmie Noone&Apex Club Orchestra
"Blues My Naughty Sweetie Gives To me”(1928)

oJulio DeCaro Sexteto ”Flores Negras”(1927)





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語るも聞くも同じこと

2015-04-12 13:31:38 | 人生の教師
私はこれまで直接、間接問わず幾多もの方々との出会いにより、多大な啓発を受けてきました。
勿論この場で語ってきた方たち以外からも…ただ近年ではかつての出会いのような特別な思い入れを受けるような存在とは巡り合っていません。
いや巡り合ってはいるのですが、そのように感じられなくなった、と言うべきでしょう。
このことは特に新たな気付きを受けた平成8年以降、顕著になったという印象があります。
以前と同じように、啓発を受けているのは間違いないのですが「この人こそわが人生の教師だ!」なんていう感慨は起きて来なくなってしまったのです。
だからと言って、それは別に私が偉くなった訳でも、悟ったという訳でもありません!教えを必要としなくなったという訳でも…
一つには私に求道心とか探究心というものが薄れてきたから…という事も言えます。
”イッパシになったものだなあ…”なんてとんでもない! ただ齢を食ったというだけのことじゃないですか? 毎日くたびれるのなんの…
もう一つ重要なことは、あのジンジンしてくる波動?といったものが顕著に感じられるようになった…言い換えると見えざる導きというものが、自己により浸透してきた、ということなのでしょうか?
これはいつの間にか、自分自身は相も変わらず無為徒食に明け暮れているだけなのに、周りの世界、土壌が勝手に変わってきている…という印象です。
小池先生はよく「語るも聞くも同じこと」と言っておりましたが、私はこの間その事を実感させられたことが何度かありました。
例えば、ファミレスである人の質問に答えていると、一体誰に答えているのか分からなくなってくる…まるで自問自答のようになったり…いつの間にか立場が入れ替わって私が相手からの答えに”ウン、ウン”と頷いて聞き入ったり…
そして、そうなってる場はもう無条件に楽しいことなのです。
そこにはもう教える人も教わる人も居ない…自ずからそこに気付きが生まれる、あるいは又元々一人一人の内に有ったものが顕わになる、といった感じです。
もう、人にものを教えることを生業にしている宗教も、教師も転職を余儀なくされるでしょう!
この教えも、あの修行法も一人一人に還元されていくでしょう…これがホントのあなたと私の唯一無二なる非二元の道です。
そうです!これが今我々が目にしている現実世界の様態なのです!
我々の内に秘められていたものが顕わになって来ているのです!

「取りて、後得るという世界は終わりを告げて、自ずから成るという世界が開かれる」(M師)

今はその真っ最中ではありませんか?
毎日毎日、新たな気付きがどっかで生まれてる…そして複雑な手順など無しで、容易にそれにアクセス出来るのです。
こう考えると”昔の教師たちより、現代の教師たちの方がより進化している、優れているんだ”と捉えがちになるものですが、私はそうは思いません。
どっちが苦労が多かったか、と言ったらもう分かり切った話です。困難な時代、制限の多かった時代にあって道を切り開いてきた人たちのほうです。
この意味ではこう言った方々のほうがずっと偉かったと言わずにおれません。
今日のこの恵まれた(反面は恵まれていません!私は近年”これで私の人生は一変するであろう!”という出会いに巡り合っていませんから…)状況には古来からの幾多もの有名、無名の賢者たちの苦闘の歴史が有ったという事は忘れてはならないと思います。
さらには…このプロセスの真の動かし手、主体者は”見えざる救世主”である、という事も…
彼が”目にものを見せてやろう!”と告げた、その約束の日は近い!
誰に告げたかって?あなたと私と言う人類に…です!




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M師

2015-04-11 18:26:06 | 人生の教師
以前、私が出会った忘れられない人物としてD会のM女史のことを書きましたが、会主M師について書かないと片手落ちになってしまいます。
というのもD会の成り立ちにおいても、あり方においても二人の存在は切っても切れない両輪という関係だったからです。
といっても私が師と出会ったのは、師の人生の最晩年のころで既に心身共に衰えて、会の第一線からは既に退いておられました。
往時の写真や録音テープからうかがい知れるのは、正に威風堂々、圧倒的な声量の持ち主であったということです。
そして師の筆になるほとんどの会の刊行物の著述に触れてみると、最初は読みづらくて戸惑いを感じたものでしたが、ある時から完全に魅了されるようになりました。
特に(これは口述筆記ですが)会では通称「三千冊」と呼ばれている門外不出の聖典(と誰かが言ってました。)などは、来たるべき…(というより
過去完了で書かれることが多いのですが…)普遍調和世界のブループリントとも言うべきもので、
私のボルテージは上がりっぱなしになることしばしばでした。
「人類の復活」の著者西村忠義さんなど来会した折この書物を手にして、頁をめくるなり「これは私の本だ!」と言ってさっさと持って行ってしまったそうです。門外へと…

今 此処に,私達という‥あなた方が、言葉し、私という、あなたが、言語して おるのでございます。
時 人類の意志…は、今この 新天新地を、呼吸し…
機 人類の本願…は、今その 真実世界を、生活…せんとしているのでございます。

私がD会の縁で関西にまで移住する事にまでなってしまったのは、ひとえに師のその何とも揺さぶられずにおれない表現と、M女史との出会いによるのは言うまでもありません…。
師は幼いころから度重なる肉親縁者との死に別れに合い、人生苦から求道生活に目覚め、修養団体「一灯園」の西田天香のような捨身生活などを経て、ついに悟りを得るに至りました。
ところが、その自然法爾…天地との一体感といった、超越境にありながら新たな苦しみを覚えるようになるのです。
それは自己の内面は充足、解放されることはあっても、身、存在は未だ解決されていなかった…ということです。
これは推測ですが、この苦悩は自分はいくら悟境に達しても周りの世界は以前として迷いの中にいる…この生の、血の通った現実世界はどうなのか!というところから来るものと思われます。
所謂悟りという事については、語らねばならないことが沢山ありますが、最近の言葉で言えば”純粋意識の目覚め”ということでしょうか…私はそれが単なる一個人の主観という事で片付けられるもので無く、又個人的レベルの目覚め、救いに留まるものでは無い、と感じているのですが、その目覚めた世界からこの現実世界に戻ってきた際には、誰しもがそのギャップを痛感するのではないかと思います。
この問題は”純粋意識の領域では全ては調和に満ちていて、皆救われているんだ”という事で、達観出来る人には多分起きてこないでしょう。
これはもとよりこのガタイが…この性懲りも無く、迷妄に明け暮れているシャバがどうなのか!という問題だからです。
この相対的現実、時間と空間に制限された世界に、普遍調和が開かれるのかどうか…
M師に起こってきたこの問題は、玉城康四郎さんに開示された”業熟体”とも密接なつながりが有るようにも感じられます。
この業性の世界に生まれてきたという、その宿命に目覚めたと言うべきか…あるいは又意識の領域から存在の領域への転回とも言えるかと思います。
そして師の前にその事を証しする存在が顕れました。それが存在の発現者M女史です…。
D会において普通なら一人の開祖、創始者としてM師が位置づけられてもおかしくないのに、何故M女史(厳密にはさらに夭折した二人の存在が居ます)が位置づけられているのか、というと存在は関係によって開かれる、ということを強調しているのです。
じゃ、私とD会の関係は…これが微妙だったと言わざるを得ません。
誰もがそれぞれ因縁やら思惑やらを背負って生きている訳で…そこには共感もあれば反感もある…これがガタイを背負ってるって証拠です。
ただM女史はいつも言っていました「M師がお元気なころに貴方と会っていたらどんなに喜んだろうかねえ…」と…。



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