人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

いのり

2016-03-20 19:55:54 | 独語
人の人生にはあらかじめ運命が定められているかどうかなど分からない
僕は神じゃない
ただ…ある時から気付き始めた…
人生にはどうしてもそこに赴かなければならない運命というものが有るのを
それは、ある言いようのない恐怖から逃れようと、
むちゃくちゃな祈りをして、路上に倒れてしまったのに端を発していた…
僕はそれからしばらく自分を失いかけた
神はいるのか、いないのか…いや、そんなこと…
分かってからでは、すべて無くなりそうなんだ!
僕は祈るしかない…そしてこちらが知っても知らなくても神は答えてくれるだろう…
”ああ、僕の知らない神様!でも、どこかにおわす神じゃない…僕に直に関わって、答えてくれる神様!”
そうだ…あれは何かのシグナルだったんだ!…僕を路上に這いつくばらせたのは!
バチだろうと呪いだろうと何でもいい…神が関わってくれるのなら…
”神はいない…”それこそが永遠の呪いなんだ!
神を恐れる人は、一体神の何を信じているのだろう…
僕はどうやら恐怖と混乱の中で、知らない世界に足を踏み入れたらしい…
やがて…あの微かにして、確信に満ちた音信とともに、自分を取り戻した…
それから…気付き始めた…

どうしてもこうしても、それを為さしめようとするある促しが有る
これは魂の要求なのか?
このチッポケな自分のみからは決して起きてこないあるもの
これに促されるままに歩むことにどんな意味が有るのかは分からない
ただ…無性に感じられることは…
喜ばしいことが待っているということ…いや、違う…
そう感じられること、そのものが喜ばしいことなんだ!
この促しにどう対応したらいいのかも分からなかった
ただ…手を合わせるしか…
決まった祈り言葉も無く、やり方というのも無い
促されるまま…
しかし…一体それは何処に連れて行くのだろう
ある予感がよぎる
この世の終わり…
新天新地の開示…
これは我が身に起こることなのだろうか…それとも…
いずれにせよ、その瞬間…神を目の当たりにするのだろう…
何があっても、この目の当たりは最善のことなのだろう…
その時、僕に出来る事は何もない…
ゆだねることのほかには…
祈りが有るだけ…








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もっとバカになろう

2016-03-19 20:05:25 | 詩的文章
僕は知っている

どんなに賢そうになっていても、

どんなに意気高々になっていても、

バカのように、子供のように、

あなたに取りすがっている時

それが最も素の自分そのまま、という事が…

もう誤魔化せない…

あなたのみ前では…

あなたは全て御存知です

僕は何も知らない…何も出来ない…

一切のことは、生きる事も、死ぬことも、

あなたから来る…あなたが握っている…

僕が知らずに遠くに行きかけていても、

迷いの道に踏み外そうになっていても、

あなたが連れ戻してください…

素の僕の世界、あなたと一枚の世界に…

賢そうな僕も、意気高々な僕も、

バカのような僕には道を譲るしかない…

ああ…もっとバカになろう…























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言い切れますか?

2016-03-16 13:20:57 | スピリチュアル?
”私はいない、ということは、真我というものも無いのか?” という質問に対し、Aさんは”無いです!”と言ってました。
完全に悟った人はそう言うらしいですよ…何でそう言い切れちゃうワケ?…
何かの論証でそう導き出されるのですか? 何が論証されようと実際に何が有るとか無いとか…本当のところは誰にも分かりません。
こういう事というのは概念の中にしか存在しないのです!
私はいる、とかいない、とかって話なんて本当に不毛な話だとは思いませんか?
悟り系?のネットには頭のいい人ばかりなのか、この種の論及や議論で溢れかえっているようです。
私のようなバカにはとても着いて行けそうにありません。
で…何でも論破出来る人という人というのは悟っているんだろうか? 
何が究極の覚醒者だか知りませんけど、誰にも確かめられないような領域のことを論理の世界に持ち込んで、そこで真理が明らかにされると思ってる人がいたとしたら、これこそ究極のバカじゃないですか!
私にはこの界隈がどうも知的戯論に偏りがちで、肝心のことが抜け落ちてしまっているように感じてならないのですが…
ちなみにブッダは、そういう真我、アートマンのようなものについては…有るとも無いとも言いませんでした…
おそらくこれが、逆説的正解なのでしょう…
ブッダはおそらく、そういう概念が独り歩きして不毛な議論が起こるのを避けたかったのだろう、と思います。
真我、見えざる導師、現臨、神(私的には皆同じ意味合いのもの)…私も有るとも無いとも言えないようなもののことを、さも有るかのように言ったりしてます。
それはしかし、改めてのことですが、実際に実在しているもののように言い表すことは出来ないのです。
真我というものの実体は私にはわかりません。肉体を超えた、”OO体”といったもので説明している向きもありますが、私にはわからない…(そういう理解で説明できるものというのは、おそらく物質的、固定的なもの、相対的なものの延長でしょう…)
だから”真我とはこういうものだ”という説明は出来ません。でもこういう事はハッキリ言えます。
”この私だと思っているこのものが、本当の私の全てでは無い!”
私の場合の真我とは、この私を超えたあるものを想定した時に、導き出されるあるもののことなのです。本当でない(偽我ではない)自分というものに応対して出てくる表現なのです。つまりは仮称に過ぎないのです。(以下のものも)
ここ最近私は”普遍性”という言葉をよく使います。普遍世界なんて如何にも見てきたかのように言ってますが、実際にはアッチの世界でも見てません!
勿論この世にも無いです! 有ったらこの世は地上天国です。
でも度々言いますが、実体が無い、分からない、からといって”無いです!”で済む訳ありません!
論理の世界で何が論証されようと、現代科学で何が実証されようと、ここでは何の関係もありません!
アリアリとした実感というものが、その否定論を打ち消してしまうのです!
これは多分、主観的な事を言っているだけなのかも知れません。
ですから、そういうものは”有ります!”と主張するつもりは有りません。
論証も実証も出来ないですしね…
でも…無条件の愛というものは、論理の世界とも客観的科学の世界とも無縁です。
論理も科学も愛を知らないのです。
ネットでは、分離思考だとか何だとかってことが盛んに取り沙汰されています。
そういうものに接している度に私は感じてきます。”分離感”が…
”有る”とか”無い”とか決めつけた物言い…これぞ分離というものの何たるかが伺えてきます。
そう言い放つことで、人が自分自身で答えを見つけようとする道を塞いでしまうのではないでしょうか?ちっとも愛など感じてきません。
もっとも自分で見つけようとする人は、どんな他人の意見にも動じないでしょうけど…
おそらく、これがブッダが真我について明言しなかったもう一つの理由でしょう。
愛はああでもない、こうでもない、理屈を超えて無条件に人を誘うものです。愛が抜け落ちた時分離が始まるのです…。

”僕は黙って君を見つめていたい…”









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無条件の愛

2016-03-15 12:32:39 | スピリチュアル
”私はいない”なんて簡単に言う人がいるけど、何にも依るものが無く、意識も失いそうになり、ただ自分が無くなって、奈落の底に消えて行くような感じの恐ろしさがあるのを知っているんでしょうか…
想像してみてください…私は無くなるというのはすべて無くなるんです。
成程、この世のどんな事もそこでは問題では無くなります。
どんな悩みも無いです。ただ言い知れぬこの恐怖が有るのです。それはおそらく死と隣り合わせのものでしょう…
消そうとしたって消えません! 気づきだ、何だ、で簡単に物事が消えると考えてる人は多分心臓の鼓動も自由に消せるだろう…
幼児は放ったらかしにされたら、無性に泣きますね。
縋るものを求めているんじゃないですか?
人間はどうしたって、何かに依ろう、縋ろうとするんです。依るものが無かったら多分、発狂するでしょう…
しかし、この何かに依ろうとすることを、より確かなものにしようという知恵から諸々の条件が付されていきます。
自立したとされる大人~多くはそう自認しているのですが…の世界には、主義、信仰、政党、いやいや社会人としての生き方がどうした、こうした…と依り縋るものだらけで雁字搦めという有様じゃありませんか?
そこには何か重大な忘れ物があります…言葉で言い表せないもの…
それは愛…
私が冒頭に書いたようなことに陥った時(それは意識が変わろうとしかけていた時です)、私の祈りならぬ祈り?が通じたのか、いや愛のほうがハタラきかけたというべきか、その言い知れぬ愛に包まれることにより、安んじることが出来たのです。
この内側から促しているものは何なのかは分からない、それに従っていいかどうかも分からない…
でも、私は何かに吸い寄せられるように従うしかなかったのです!
何故ならば、愛が有るから…

ああ…真理だ、悟りだと、愛、恩寵のハタラキというものの抜け落ちた、”空論”の虚しさよ!
”私はいない”…そう、虚無しかないだろう…

子供は物心ついて多くの場合親を通して言葉を覚え、言葉を通じて理解しようとします。
そして元々それは言葉を超えたものであったはずなのに、いつしか愛というものすらも言葉の理解に変換させてしまうのです。
無条件なものであったものが、”こうでなければならない”と条件で一杯の強圧的なものに感じられていくのです。
愛の喪失感と共に…
そして愛はどこからか取ってこなければ得られない、どこかに行かなければ、教えてくれる誰かに聞かなければ得られない…と思い込み始めます。
でも…愛はあなたが求める以前から与えられているではありませんか?
それは、あなたが諸々の条件を手放した時に回復されます。
もし、人生でのっぴきならない事態に陥った時、死というものがチラついたような時
ビルの屋上から飛び込むように、無条件の愛に飛び込んでみては…
人が教える神のようなもの、愛のようなものに飛び込む前に、あなたの神に、愛に飛び込んでみては…
あなた自身が本当に実感できるものを、…のようなものに置き換えられるのですか!
ここは私とあなたの世界です!















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貧しいものは幸いなり

2016-03-13 18:53:39 | 身辺雑記
最近、職場で久しぶりに宗教の勧誘を受けました。
私はこのブログでもかなり宗教(教団)にまつわるものには批判的なことを書いてますが、頭からはねつけることなどしません。とりあえず、聞いてみる事にしています。相手はどことなくとっつきやすい感じの人だったし…
して…O波のH教団ですか? ウーン…名前は聞いた事が有るけど…M教団と似たようなものか?エッ、違う?でも話を詳しく聞いてみると、これは典型的な新興宗教だわい…
「あなたは信者になって長いの?」と訊いたら、実にややこしい話になってました。
お金が無くて会費を納めてないんだとか…”ヒ、ヒサンやな~”
となると…この人は信者なの?某教団だったら会費を納めないと、(掟に背いても)霊線?が切れて光が受けられなくなるそうですが…!
人を導いたら会費は免除されるとか?
で、そもそもこの人の入信の動機が生活苦などで、”藁にも縋る思い”からだったらしいです。これもよく聞く話ですね。
何時もの私の口調とはまるっきり違うかも知れませんが、”宗教、神に関わることは自立心を欠いた依存な精神の表れだし、妄信は学の無いこと…”と言い切るのは簡単ですが、そのような切実な局面に立たされていたなら、その打開の突破口になるものだったら何だっていいだろう…と思います。どんな神サマでもとりあえずの避け所になり得るものです。
大体私自身だって昔は依存もしてたし、学の無いこともしてた訳ですし…経験してたからこそ、ついエラそうな言葉も出ちゃったりする訳で…
でも…その教団のことはよく分かりませんが、洗脳組織だったら辞めた方が身のタメです。
典型的なそれなので、”他の教えを聞いちゃあダメ!”ということなので我が一人教祖、一人信者の”唯我独尊教”の話など聞いちゃあくれそうにありません。「僕にもね、時々神が舞い降りるんだよ!」なんて半分冗談で言ってみたのですが、その時だけは真剣な顔して「それは一体、どこのドエライ悪魔なんだ!」といった表情でした。(笑)
この人は見た感じ、そんなに洗脳されている様には見受けられませんでした。ガチガチのあの特有の目つき、固着した口調は感じませんので…言い換えるとイイカゲンに見える…何か達観しているような…
何でも”数十年前に自分の人生を諦めた、世捨て人になった”んだとか…そんなに人生にくたびれたようには見えないが…どっか悟ってしまった人の様にも見えます。
ただ、”どうせ自分の人生はこんなもの”という惰性的諦めの思いに支配されている様でした…。
そんな中、私はどうしても彼にこんな事聞いてみたくなりました。「全てを失ったようになって分かった事ってないですか?」「ンー…別に…」
…私は本当にこの人のように路頭を迷うような局面に立たされたことこそ無いですが、全てを失ったような心的状態になったことは何度かあります。それは境遇によるものでは無く、全託に赴かせる力によってです。
そして、ハッキリ分かります! のっぴきならない事態に陥ってしまう事というのは、恩寵の力が臨む契機になるという事が…
宗教の信者という誰かが信じている神サマに縋ることなどのことや、又本当の意味で自らの人生を無にしてしまうこと、そして、ドエライ悪魔だか現臨だかに捉われてしまう事、というのは実に隣り合わせのことです。
これらの局面はいずれものっぴきならないものであるのは変わりません…(”自分は何でも知ってるし、何でも出来る”と自認して、自分を超えたものに預かろうとしない、ブルジョアの皆さんとは縁も所縁も無いことです。)
この内、最後の方は自分の意志を超えたところからもたらされるものです。
全てを失ったようになっても、生きている…という事は生かされているという実感を示されるという事です。
生かされているだけで伝わる幸福感!(ああ…気の毒なブルジョアの皆さん!)
それは人生を諦め、世捨て人のようになった人にこそ、開かれるかもしれないのです。
聖書にある”貧しいものは幸いなり”というイエスの言葉の意味が伝わってくるようです。

今度会った時は私の方から”唯我独尊教”の勧誘をしようかな…何て…ムリです!
私以外の誰も信者になれません。信者になるにはあなた自身の神サマを通じてしかなれません!(言い換えると自己信頼です)
会費も要りませんし、入ったら、辞められません! 脅されるから? いや辞める人は生まれてくることが間違ってます!









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