人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自分の感性を大切に

2018-01-21 12:44:51 | 雑感
30年以上前のことですが、大阪にあった、中南米音楽のレコードを持ち寄って鑑賞しあうという趣向の集まりによく通っていたことがありました。
集まる人たちは年配の方から若い人まで結構幅があり、その思いを寄せているジャンルも世代によってハッキリ別れていました。
それは、大まかにいって古くからラテン音楽として認知されていた、マンボやボレロ、タンゴなどに親しんでいた世代と、私もそっちになりそうですが、ロックの洗礼を受けていて、何かの弾みで(音楽雑誌ミュージックマガジンの読みすぎとか?)そっちに脱線した世代(私は"サルサ"世代と呼ぶ)の違いと言ってもいいでしょう。
私の場合は、この点全く世の通例などとはかけ離れていて、この時までヤング世代の定番?サルサ(60年代後半N.Yを中心に起こった新感覚のラテン音楽。この名が定着したのは70年代始め)などロクに聴いたこともありませんでした。さほど興味が無かったという分かりきった理由です。
この時、私が最もハマっていたのは、アルゼンチンタンゴで、まだ20代でしたが、オジサンたちに混じって彼らの熱いウンチクに耳を傾けていたのです。
すると、ある方から「君は若いんだからあっちのサルサ組?の方がいいんじゃないの?」と言われたことがありました。
全く、大きなお世話な話ですi 何に自分が惹かれ、思いを向けるかということは、自分の感性で決めることであって、世の中の流行りとか他人の言説や権威などにおもねってはいけませんi そういうものに迎合していたら、自分の感性が分からなくなってしまいます。
ただ、この愛好会のお陰で、徐々に私の愛好する音楽の範囲が広がっていったのも事実で、古いキューバやプエルトリコなどのラテン音楽に触手を伸ばしていったのです。しっかし...ただ、そう...古い..."old、viejo!"
(私はこのブログで如何にも昔からそういう音楽を聴いてきたように語っていますが、新参にすぎないのです。サルサも嫌いではありません。ようやく10年くらい前からボチボチ聴いていますが、私にはあくまで"傍流"です。ただ...サルサも今じゃ古くてピンと来なくなってしまったか...)

こういう、時代に取り残されたような話をかつてまでは"語り部"のように語るしかなかったのですが、今ではネットを通じて、自分の感性に見合うものかどうか、じかに接することが出来るようになりました。
あなたの世界は意識さえすればすぐに広がるのですi
しかし、その事とは裏腹にそうした外からの情報に過度に依存してしまうことで、かえって自分の感性に覆いをかけてしまうことにもなりかねません。
損得とか、ハクとかでない、純粋に自分の感性に意識を向ける、感性が意識付いていることで感性が生き生きとしてきます。逆にそうなっている時は勝手に意識が向いちゃってます。
又、"自分がどういうものに惹かれ、そういうものに巡り会えれば喜びに浸ることが出来る"ということは、実際に求めているものと出会う以前から知っていたという経験は無いでしょうか?
それは過去に何らかの形で接触があり、表層では自覚されていなくても、どっかで身に覚えていることでそうなることもありますが、そういうものは元々自分自身に息づいているものでもあります。
私などが生まれるずっと以前の、タンゴ音楽に無性にノスタルジアを感じてしまう(これは考えてみてもオカシイです)というのもそれによるのでしょう。円盤をターンテーブルに乗せる以前から私にはそれが現前していたのですi
そうしたことは、精神的な道においてアリアリと現前しました。
それは全く新しい出会いであると同時に、忘れられていた我が黄金時代の想起であり、永遠の真我との邂逅なのです。
他におもねることなく、自分の感性を大切にすることが、魂にウソをつかない生き方に通じるでしょう。
その事に意味があるのかどうかは知らないが、意味もなくそっちに赴いてしまうんだからしょうがないのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボレロとラテン.トリオ

2018-01-20 12:38:25 | 映画・音楽など
私の生活の中で音楽鑑賞というものは、欠かせないものですが、取り分けタンゴとならんで好きなのはボレロです。
これを聴かないという日は無いくらいです。
ラヴェルの「ボレロ」を毎日聴いているのかって?
まあ、目覚め時には、それもいいかもしれませんが...ボレロというと、どうしてもそっちになってしまうようです。
ここで言ってるのは、キューバに発祥して、ラテンアメリカで広く浸透している歌謡調の音楽のことです。
この名称を知らなくても大抵の人は、その旋律に接しているはずです。
私の物心つく頃にはテレビ、ラジオ、映画...巷にフツーに受容されていたという覚えがあります。
当時のラテン音楽は大雑把に言って、ダンサブルなのが"ハーッ、ウウッ"の「マンボ」、シットリとした歌謡ものがボレロだったと言ってもいいでしょう。
Wikiで調べると、その代表的な歌手はホセ.フェリシアーノ、イーディ.ゴーメとありましたが、これはあまりにもテキトー過ぎますi
彼らはボレロばっかし、いやラテンばかしを歌っていた訳でもないのです。
フェリシアーノの代表曲「雨のささやき」もボレロじゃないですよ。ただ彼はフォークソングみたいな、創生時代の感覚でボレロをいくつか歌っていましたが...
又、幅広くポピュラー音楽を歌っていた女性歌手のゴーメは、あるメキシコのトリオと共演していた時こそ紛れもなくボレロ歌手でした。そのトリオの名はご存じ(でないかも?)トリオ.ロス.パンチョスです。
"ポロ、ポロん"とレキントと言われる共鳴板を施した小型ギターを鳴らし、ボレロを中心に歌う所謂ラテン.トリオのスタイルを築き、定着させたのが彼らです。(「東京ロマンチカ」とか「ロス.プリモス」とかの我が国に生まれたムードコーラスは、それが歌謡曲へアダプトされたものです)
このようにして、ボレロは発祥国キューバよりもメキシコで盛んになりましたが、パンチョスは、後輩格ロス.トレス.ディアマンテスとかロス.トレス.アセスなど数多登場した同国のラテン.トリオを代表する存在と見るのも間違いではないですが、実はその売り出し、受容の在り方は、他のトリオとは大きく違っていました。
それは彼らが1940年代後半、旗揚げした発信地がメキシコ本国でもメキシコ移民の多いロサンゼルスでもテキサスでもなく、ニューヨークだったところがミソなのです。
これがN.Yに多かった、プエルトリコ移民のハートに火を付けることになりましたが、これには同国人の哀愁を帯びたリリしい声の歌手エルナンド.アビレスを起用したことが大きかったと言えるでしょう。
又、この時の楽曲ときたら、もう...Nuestro Amor(永遠の愛)、Contigo、Sin Ti(あなたなしでは)、Sin Un Amor(愛もなく)...不朽の名曲揃いですi(かつて故中村とうよう氏は、これらメキシコのモダン.ボレロに関する文章で、パンチョスを「ヘタクソ」などと決めつけていましたが、一体どこをどう聴いたらそんな感想が生まれるのかと言いたくなります!)
そして、同本島でもN.Yのスパニッシュ.エリアでもメキシコと同様に数多のラテン.トリオを輩出することになったのです。例えば...
ジョニー.アルビーノ(後にパンチョスに引き抜かれる)とトリオ.サンフアン、戦前から活躍していたトリオ.ベガバヘーニョ、フェリーぺ.ロドリゲスとトリオ.ロス.アンターレス...
これらの存在は、ほとんど我が国には紹介されたことが無く、話題になることも無かったのですが、ラテン歌謡史では絶対に避けて通ることは出来ません。
こういうことをいくら書いても、長いこと他の人には伝わらなかったのですが、今は隠れていたものが表に顕になる御時世となり、容易くyoutubeで接することが出来ます。(夢のようだ)

※Johnny Albino y Trio Sanjuan/Mi suplica
パンチョスのメンバーとして何度か来日してお馴染みのアルビーノですが、彼が本当に輝いていたのはこの時代(50年代)だと信じて疑いませんi

※Trio Vegabajeno/En Mi Viejo Sanjuan
ここで取り上げたモダンなボレロ以前の貴重な録音も残していますが、戦後においてもそのフォークソング的な牧歌的味わいを残していました。

※Felipe"La Voz"Rodriguez y Trio Los Antares/La Ultima Copa
F.ロドリゲスはアルビーノなどと比べてそんなに傑出した歌手とも思えませんが、このトリオは、ラファエル.シャロン、ミゲール.アイカルデという二人のスゴテクのレキント奏者(パンチョスのアルフレード.ヒル以上i)を擁していたことで記憶されるべきです。
この曲はF.カナロ作の有名なタンゴ曲のボレロ.アレンジで、パンチョス(メインの歌手はプエルトリコ出身のフリート.ロドリゲス)と競作となりました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸の一つ灯

2018-01-18 17:10:35 | 雑記
私は生まれも育ちも東京なのですが、第二の故郷のように思っているのが神戸なのです。
昭和56年からの二十数年間の関西生活でも、神戸で受けたものが一際印象に残っています。
そして23年前の震災の折でも、連日のテレビの報道に接して、そっちに意識が向かない日など無かったのです。
数週間後、阪急電車が部分的に開通したので、乗り換えバス(不謹慎な言い方ですが、遠足みたいで楽しかったです)などを交えながら三ノ宮駅に行きました。
テレビの画面を通してでなく、じかにその鉄骨が剥き出しになり、コンクリ壁が崩れ落ちたビルの倒壊した様を目の当たりにし、息を飲むしかありませんでした。
今でもビルの解体現場を見るたびにその光景を思い出します。
そこから「きっと、もっとスゴいことになっているんだろう...何だか見たくないな...」という気持ちを押さえながら、さらに西の元町を目指しました。
おそらくは私が知りうる中で、もっとも好きな商店街と言ってもいい元町商店街...して、そこで目にしたのはi
「あれえ? 高架がちゃんと残っているゾi もう再開してる店も沢山あるi ...夢を見ているんだろうか...」
それは奇跡を見ているようでした。あの三ノ宮のすぐ隣なのに...これがテレビでは惨状ばかりしか映さない、神戸の一つの裏側だったのです。
無論所々震災の爪痕も散見しますが、あの店もこの店もそのまま"ここに現存していた"ではありませんかi
(こっから先は十年以上ご無沙汰の現在の憶測に満ちた視点も混じります)
東側の商店街入り口近くの名前を忘れたが、良書ばかり揃えている古書店(今は無くなったようです)。
北側の路地の二階にあったレコード屋さん「リズムキングス」(数年前に閉店したらしい)。私の主流の音楽ラテン、タンゴなどを豊富に揃えている得難い店で、私も大部世話になりました。
一般的なイメージでは"ウマイ店が豊富なのは食い道楽の大阪"となるようですが、私の実体験ではホントに当たり外れが少ないのは、なんと言っても神戸ですi 私には「こりゃ、外れたあ」という記憶が無いくらいです。ことにコーヒー好きの私にはウマく、アンティークな店構えの「はた」「にしむら」といった喫茶店は堪りませんi 「モーツァルトに会える店」とかいうクラシック喫茶はどうなっているのだろ?
商店街の南側の路地には南京街があります。横浜中華街よりずっとこじんまりしているが、ウジャウジャ人でごった返すこともないので、ウンとくつろげます。
とにかくこの空間は、その混み具合といい、垢抜け具合、庶民性具合、異国情緒(もろ中国的一角はあるが、全体はアジア的でもあり、ヨーロッパ、メリケン風でもあり、そのどれでもないような感じ?)具合等が程よいのです。
この界隈で忘れてなら無いのは、北側に世界の様々な宗教関連の建物が隣接していることです。
生田神社に、本願寺、カソリック寺院、プロテスタント、東方ハリストス教会、モスク、シナゴーク(ユダヤ教会)、ジャイナ教、シーク教寺院(共にインド発祥)、関帝廟(道教)...私はそのすべてを巡った訳では無いのですが、まるで世界宗教の縮図のような空間で、こんなところは他所では見られません。
こんなにイロんな宗教がひしめいているようで、宗教間のトラブル等聞いたことありません。ああ...パレスチナがこんな有り様だったら...

上記した日からも少し後で阪急六甲周辺に行きました。この北方に「保久良神社」があり、そこに「灘の一つ灯」の伝承が残っています。
昔、日本武尊が航海中進路を迷った際、この灯りを便りに大阪湾にたどり着くことが出来たとか...
参道に石灯篭等が所々崩れ落ちているのを目にしながら、参拝を済まして商店街に行くと、街全体から復興へ向けてのエネルギーみたいなものが伝わってきました。
そこには人間の力を越えたものが後押ししているのが感じられましたが、あの脅威的な復興の速さ(向こう一年くらいは、神戸までの鉄道の道は絶たれたと思ったものです)は、私にはそれを抜きにして考えられませんでした。
そして、それは協同的、助け合いの精神によって表されているようでした。
そこには表層的なものとして片付けることの出来ない、我々の内にある共同的つながりというものを呼び覚まさずにおれないものがありました。
7年前の東日本の震災の時にも、"きずな"、"つながり"といった言葉が交わされていましたが、それはこの神戸から受け継がれたものと言えるでしょう。
それは又、"神の戸"を開くべく、古来より受け継がれて来た"一つ灯"に違いないでしょう。


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢と現実の狭間に

2018-01-17 12:27:18 | 回想
23年前のこの日、夜中の何時頃かは定かでないですが、朝の5時46分より前、確かに私は地震に遭遇していました。
夢の中で ...。
割りと強い揺れだったので、飛び起きてしまいました。
そして「なーんだ夢かあ...良かった...」と安堵して再び眠りに就いたのです。
(後日調べてみて、ホントに明石方面で予震があったらしいですが、兵庫のずっと東の尼崎では分からないくらい弱い規模のものでした)
そして運命のあの時間が巡ってきて...
最初は一寸した揺れを感じる...「どうせ、これは夢なんだから、ほっといたら消えて行くんだ...」と、微睡みの中で、夢の幻想と決め込んでる私..と、すぐさま...
多くの人が証言していたような"ドーン"と突き上げるような衝撃...そしてかつて経験したことの無いような激しい揺れが襲ってきたのですi
一瞬にして部屋中の家具、動産がひっくり返ってしまいました。
電気をつけっぱなしにしていたのですが、すぐに消えてしまいました。家の中も外も真っ暗です。
すると、窓越しに外で稲妻のように、ピカピカと光ったのが目に飛び込んできました。異様な光景...
「これは地震だけでなく、何かとてつもないことが起きているのだろうか? ひょっとしてこれは、世の終わりなのか?」というものが過りました。確か先に見た夢では近くで火山(自宅近くにそんなのはありませんでしたが)が爆発していたから、そんな思いが沸いたのかも分かりません。
寝ていた私は本棚とか、一メートルくらい飛んできたテレビ器などで下敷きになっていましたが、イロイロなもので山になっている中を掻き分けるように、すぐさま外に出ました。(着の身着のままというけど、前の晩帰宅が遅くなったので、そのまま電気も消さずに外出着の格好で寝たのです)
外には私以外誰一人居ません。何事も無かったように静まり返っている...時折、そこ、かしこから"ひゅーひゅー"という音が聞こえてくる...
「なんという薄気味悪さだろうi」(後でこれは家々の家具等が動く時の音だと分かりました)
すると、私の足下を掠めるように、何か白い物体が道路を物凄い速さで横切っていく...白猫です。
私はまだ起こっている事態が飲み込めていないようでした。「これは夢なのか?」
やがて、懐中電灯片手に何かを探し歩いている人が通りがかる...
「もしかして、白い猫をお探しになっているのですか? でしたらさっき道路の向こう側にすっ飛んで行きましたよi」と、私が指差した方の家のブロックが無くなっていて、歩道に落ちているではありませんかi
「有り難う。さっきのはどうも淡路島の方が震源だったようですね...」そう言って、その人はそっちに向かって行きました。
「そうか、私は巨大地震に遭遇したのだi」
私はその言葉で大部現実に引き戻され、受け入れることが出来たようです。(猫ちゃんは見つかったのかな?)
よもやこの地でそんなことに遭遇することになるとはi
辺りが明るくなってくるにつれ、その現実はまざまざと浮き彫りにしていました。アチコチで煙が上がっている、家が倒壊している...
しかし、その恐ろしい揺れにも関わらず、私の近辺は隣駅の西宮北口や、神戸三宮辺りの惨状の比では無かったのです。
翌日には、私のところの最寄り駅から梅田までの区間は復旧し(これが奇跡のように思えました)、会社に出勤しました。行き交う人たちの話は地震のことで持ちきりでしたが、見た目何も変わっておらず、普段の日常そのままです。それを思うと前日の出来事はやはり夢のように感じられました。
直接その恐ろしい揺れを経験している人と、それほどでもない人との話ぶりの違いはハッキリ分かりました。
まるで見た来たようなことを平然と語る人を見ていて、「何を夢みたいなことを言ってるのだろう」と思いました。
私はしかし、この震災での本当の惨状というものに直面していないのです。
現に勤務が出来ており、電気はその日のうちに復旧したし、何日も食にありつけないことになったことも無いのです。
普段のままの日常と、日常を絶たれた生活を余儀なくされる現状の狭間に居たのかもしれません。
それは夢と現実の狭間のように感じられました。
ただあの恐ろしい揺れというものは、「何がどうなってもおかしくないほどのものだったi」とはハッキリ言えることです。
画面を通して伝わるものでなく、目の当たりにしたもの...本当に驚くべきニュースとはそういうものでしょう...。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありふれた言葉の中に

2018-01-14 10:53:43 | 雑感
神を信じる
自分を信じる
愛を受け入れる
心を平安に...

精神的な道には、このようにもう聞き飽きたような、ありふれた言葉で溢れかえっていますね。
いい加減「もう、分かった、分かった」てなりますよね。
で、何か実用性、速効性がありそうな、ありふれたものでない、特別な教えとか修行法だとかに頼ろうとするのです。
そういうものに依存しながら「神を信じなければ、自分を信じなければならない」とか、"そう言われているから"という理由で、考えをそっちにアダプトしようとするのです。
"自分を信じ、自立しよう"という教えに依存するのです(笑)
そうしてずっと、観念によるヴァーチャルな世界が構築されていくのです。
神であれ、悟りの境地であれ目指しているものと、自分自身との間にどこか乖離が感じられてなりません。
どこまでも思い描いていたり、眺めているような感じで、自分と教えなりメソッドとが二つになっているのです。
言い換えるとちっとも現実に神を、自分を信じるということが出来ないのです。
神というのは、誰かが説いている概念、イメージにすぎません。
"本当の自分"、"悟りの世界"ということも同じです。
これは現実に則していないということで、要するに自分自身に則していないのです。
(自分の意識の有り様次第によっては、ある教えもメソッドも助けになることもありますので、それ自体を否定している訳ではありません)
巷にありふれた言葉を本当に、ホントーに自分自身の言葉として向き直ってみると...(それは私がそう言っているからでなく、本当に自分がそう感じなければ始まって来ないことですが)全く思われたものでない、リアルなスピリチュアリティが開かれるかもしれません。
神とは自分にとってどういうものなのか? 人がそう言っている"神という概念でない神"...それは全くもってあなた自身の神に他ならないでしょう。
"現実にこの私に生きて働くことの無い神が一体何になろうかi"
"それ以外の別の何かには頼らない、信じないi"
現実にこういったことを思い浮かべ、意識的になることが出来ますか? (これは先の思い描いたような、ヴァーチャルな信仰を逆手に取ったような表現なのですが ...)
アリアリとそうなれる人は、既に自分の中に神が生きているのかもしれません。
そしてその自分自身が生き生きと感じられるに違いありません。
又幸福、愛、平安...すべてが相則していることが分かるでしょう。
神も自分もそうしたものも切り離されていないのです。
"神を信じる"という、曰く言い難いことなので、シンプルにこのようにありふれた言葉で語られる事態が、現実に即したものになれば、"分かったつもり"になどなっておれないでしょう。
神を信じるということは、信じざるを得ないものに直面することなのですi
イロイロと趣向を凝らした、教えやメソッドなんかで頭を悩ますよりも、ありふれたような言葉、現実に幸福や平安が見つかるのではないでしょうか?




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする