人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生間違っちゃったかも?

2020-03-04 11:36:18 | 雑感
私がカラオケなどで英語の洋楽などを歌っていると、どうも歌唱力だけでなく、その発音もそこそこイケてるらしく、よく「あなたは英語を学んできたか、教えているのですか?」などと訊かれたりします。
いや、これはずっと昔から耳で聞いているし、10年くらいまえから自分でも歌うようになり、ある発音のコツが身についてるだけです。
でなきゃ、歌のミューズかなんかが乗り移ったりするのでしょう?! 英語とも英文学(翻訳されたものは読んでますよ)とも無縁なのです。
(こういうお褒めの言葉を頂くと、歌手になれば良かったと思わないでもありません。←ただのウヌボレ)
そうでなくとも、そういう場合に限ったことでなく、色んなところで「あなたはものを教えているような、学問に関わっているような人なんでしょう?」と訊かれました。
"ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ...オモシロイーっ...こんなブルーカラーのような学者が居てたまるかってんだi" ...どうも話っぷりでそう感じるようなんであります。
確かに私は今でも学的なことも好きだし、昔は周囲からは物笑いにされてたけど、学者になりたいと思ったこともあります。
私の家系にはこういう血筋のある部分が流れているのも確かなことですが、現実は大違いだった...
こうなる大きな理由はもう分かりきったことですi オツムの出来が悪かっただけですi
小学校へ上がる前は神童みたいだったらしいけど、入ったら特に算数がもう悲惨なくらい出来ないことで、バカのレッテル張られて躓いて、ずっと落ちこぼれの渡世を歩んできたのです。
こんなんで、ずっとマトモに人生歩んで行ける訳がない、と思って生きてきました。
そうあってか、10年くらい前、社会の底辺に関わるようなある職業に就いた時にも、その関係の人からズバッとこう言われました。
「あなたはどうも知識階級の人間のように見えるんだが、どっかで人生を間違ってしまったんだろうねえ...」
そうなんです。生まれ落ちたのが間違いだった、というべきか?
私の人生で最大の間違いと言ったら...
"人生の裏側"へと足を踏み入れてしまったことに尽きるようであります。
だって、それは"人生は思われたものでない"、ということを示されることなんですからね。
多分、何度生まれ変わっても、どういう境遇に生まれ育ったとしても、同じ"アヤマチ"を繰り返すでしょう。
一度入り込んだら二度とそこから抜け出すことが出来ない...これは永遠の呪いか?
しかし、そこから抜け出そうという人間の気がしれない...それこそ、生まれ出てくるのが間違えているのではないか?
いや、しっかし...マトモな人生歩めない訳です。
それは確かに私が望んだことなんであります。それで何かを棒に振ったからって何であろう...
何を本当に望むかで人生は決まるようだし、その人生も又思われたものでないのでしょう。
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歌を忘れた日本人

2020-03-03 11:57:00 | 映画・音楽など
先月、会社の研修の二次会で、余興でカラオケをやったりしたのですが...私は音楽、歌を愛する人間として、歌心の分からない人たちの前で歌うことがバカらしく、無駄なことに思えてなりませんでした。
仕事の話を二次会の席でいつまでもぐだぐだと、とりとめなく語り合うのもいいでしょう。
私はそんなんは何のための余興、慰労なのか理解出来ず、全くナンセンスにしか思えません。せめてどっちかにしてもらいたい、ぐだぐだやるんならそんなんに付き合う必要は無い、アタシャ帰るi これからはそのようにしてもらいたいとつくづく思った次第です。
その時、ぐだぐだとした日本人どもに対して、歌心があるのをハッキリ示していたのは、日系ペルー人や、コロンビア人などラテン系の人たちでした。
これは同じ日本人として本当に恥ずかしいことですi
私がラテン.ボレロの名曲「アモール(Amor)」を歌ったところ、機せずしてラテン.ピープルの合唱が起きたのには一寸感動しました。(おい、聞いたかi ぐだぐだ、おツカレの日本人どもi  我々は仕事ではテンデバラバラだけど、歌の世界で一つになれるんだぞi)
しかし、この曲は日本でならいざ知らずそんなに有名だったのか?
これで気を良くした私は続いて「シボネイ(Siboney)」を歌ってみたところ、こっちはポカーンと冷ややかなものでした。
日本じゃこっちの方が知られてる気がするんだけどなあ...そうか、分かったぞi この人たちはシボネイ族(スペイン人によって滅ぼされたキューバの先住民族)の末裔でもなんでもないので、思い入れが無いのだろう...
やっぱりみんなの心に訴えるのは...そう、アモール、愛i 愛なんですよi
そして、この人たちの英語による選曲を見てみると...「ライチャス.ブラザース」の「アンチェインド.メロディ」や「プラターズ」の「オンリー.ユー」(勿論私のレパートリーでもある)とか...彼らの好みというのが何となく分かってきました。
ラテン歌謡でも勿論、カンツオーネなどでも聴かれる、"泣き"の入った歌が好みなんだi...これらの曲が我が国の巷に流れていた時分は、ちょうど広くラテン音楽が浸透していた頃と重なります。
(私は昔からどうも演歌が好きになれず、それがあまり邦楽に親しみが持てない、一寸偏見混じりの主たる理由なんですが、私はずっと日本人の心に響くのは、こぶし入り演歌より、泣き入りの歌の方だという根拠の無い持論を持っているのです)
この頃の日本人は皆歌心を持っていたんじゃないですか? ねえ、じいさん、ばあさんi
今こそ、日本人は歌心を取り戻し、愛に目覚めなければならないんですi..."アモール、アモール、ナシオデティ、ナシオデミー..."
私が喜々として歌っている時、ラテンの皆さんもいつも笑いながらスペイン語で何か話し合っていました。(私は歌うことは出来ても全く話せません)
それはきっと、"この人は、あのダメな日本人たちと違ってじっつに歌心を知っているi"、と言っていたのでしょう。
いや、もしかして、"この人、日本人のくせに日本の歌を忘れていてバカじゃなかろうかi"、と言っていたのかも...
コメント (13)
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愛が通れば...

2020-03-02 11:10:07 | 
コロナの猛威はとどまるところを知らないようで、ついに大相撲春場所は、観客無しで行われるという前例のない事態に...
オープン戦はともかく、プロ野球の本チャンは果たして開幕されるのか?
肺炎とかインフルとかは普通、春の本格的な訪れとともにピークは去ってゆくものですが、どうなんでしょう?
早くこの世界的規模のコロナの日食が抜けることを祈るばかりです。

(これから、書くことは私の単なる思い込み、妄想だと思って読まれても構わないのですけど...)
私はもしかして昨年の11月、このコロナ肺炎の流行に先駆けて、苦しみの体験をさせられたようにも感じています。
勿論私の場合かかったのは、肺炎の疑いが強い重い風邪だったというだけで、直接それとの関連性は低いのですが...ただその症状はとても似たものがあるのです。
ごく身体面のことを言えば、ただ長きに渡る発熱、呼吸器系統のつまりなどに伴う苦しみを背負っただけのことです。
私が先のように感じたのは、そのことに伴って、いつもここで書いているような、"パッと意識が向いたら、じんじんと言葉を超えた現臨に包まれる..."、"何か全てを見透かすような光の照射を受けている"、といったような感覚を失ってしまったからです。
それは、そういう時の"き~ん"というジェット気流みたいな耳鳴りが聞こえなくなり、低周波を思わす"ぶ~ん"という重く、鈍い感じのものに変わったことで端的に示されたのでした。
私は毎日毎日、寝床でうめき、そして祈らされていました。"ああ、通らない、つまっている、開かれない...ああ、早く通らせて下さい、開いて下さい..."と。
これは喉、胸の閉塞のことでもあるのですが、もっともっとそれ以上に身体面を超えたある閉塞感についてのものだったのです。
それが何かということは名言出来ないのですが、とにかく、それが通り、開かれることで、"パッ"となる性質のあるもののことです。
というのもそれに与ることで、心身両面に癒しがもたらされることを過去に何度も経験されていることだったからです。
いいや、私が本当にそのことを実感したのは、その病苦を背負ったからだ、と言ってもいいでしょう。これを思うと、もう有り難く、勿体なく随喜の涙が...
私はこの時のことを頭がフラフラになりながらもブログに綴っていました。色々訳の分からんことを...
どうしても書かなきゃならない、と妙な使命感を持って...
この苦しい風穴が開けられ、愛の息吹が通る瞬間を書き表わさねばならないと...
そうです。これは"通るようになる、開かれるようになる"ことを前提にしていたのです。そんなん、あったり前でしょうがi
あれが失ったように感じているのは私の表層部分で、もっと自覚されない奥の部分では"つながっている"のは自明のことなのです。ただ開通は長かったi
私が何でこういう過程のことを書きとめる必要を感じていたのか? "愛が通ること"は、ここの物好きな(?)読者のみならず、みんなにとって必要なことだと感じていたからですi
どうしてそう感じるのかというと、愛の息吹が通ると普遍的なものに意識が開かれるからです。
一寸前に、"コロナへの特効薬は愛"、だなんて抽象的なことを書いちゃいましたが、私は具体的にこういうことも感じていたのです。
それはそのことだけの問題ではありませんが、この世界的規模の日食は、今人類がもっとも大切なものに目覚める切っ掛けとなるのではないでしょうか?
で、そのめでたく開通した時の克明な模様のことは私は書いてないのですが...
ある朝、起きたら耳がき~んとしてて、寝てる間に開通工事が終了したのか、覚えてません i (抜けたあi)
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こんな時だからこそ

2020-03-01 10:04:09 | 雑感
あなたの周りでよくこんな人を見かけませんか?
落ち着きが無く、目が虚ろで焦点が定まっておらず...その話も同様にとりとめがなく、アチコチ飛び回っていて、だらだらと何が言いたいのか分からない..."よし、じゃあ失礼するよ"と言っておきながら、どっかへ長電話していたり、"あっ、そうそう、ところで..."なんて、話を思い出して結局いつまでたっても失礼が終わらないような人(私はもう、イラーッとして"さっさと行けーっ!"と言いたいのですi  私だったら"帰る"と言ったら五分以内に帰るぞi  可愛いネエちゃんに呼び止められたら別だが...)...じっつに疲れますよねえ。
これは、私がちょいちょい言っている意識的になっていない状態の典型的な例です。
何でこういうある種の精神分裂のようなことになるかと言うと、自分にとって何が大切なのか、何が好きで、愛していて、何がしたいか、どうありたいか、ということが分からないからでしょう。
好きでしているようなことで混同され勝ちなことは、例えば"タバコや酒がやめられない"というのがありますが、これは先の状態などから引き起こされる、ストレスから逃れるための習慣、嗜好のことで、本当に心から好きなものというものじゃないでしょう。
心から好き、愛しているのなら、もっともそういうものであるほど、そもそも意識をどっかに向けるとか、ましてどっかに集中しようなんてことは必要ありません。
自ずと向けられ、集中してくるのです。
こういう人と話しているとこっちが生き生きとして来ます。先のツカレる人とは真逆です。
これはエネルギーをもらうか、奪われるかの違いを如実に物語っていると言えます。
そしてそれは、幸福であるか不幸であるかの違いでもあります。
だけどねえ...いくら幸福なことだからと言って、ちっとも役には立たず、利益にもならないかもしれませんよi...
って、ここが肝心なんですi(ドンと机を叩くi)...ここで世の中という神~それはサタンの別名かもしれない~の声になびくか、自分のハートの声に従うかで本当に愛、平安に導かれるか、どうかに別れてしまうのですi
こう言って私は、浮わついた単純な"幸福追求主義"のことを言っているつもりもありません。
だって、今の世の中にわかにヤバくなってるみたいで、役には立たないが、何かの"疫"がもたげてきてるみたいだし...
いや、こんな時だからこそ、こう言いたい気持ちに駆られるのでしょう。
人生には色々つらいこと、苦しいことは望まずともやってくるものです。
だけど、苦行者みたいに自ら進んで苦しみを背負うというのは、どこかMっぽく、へんたいじみたところがあります。
しかし、そういう人の中には、そういうことを通して、一時のへんたい的快感でなく、心から幸福に与っている人も居るかもしれません。
幸福に与ることには、おかれた境遇とは直接関係が無く、人にはネガティブに写るようなことの中にもあるものです。
ラマナ.マハルシが言うように、幸福であることは我々の自然な状態なのでしょう。そしてそこに知らず知らずにあるエネルギーがもたらされる...
浮わついた思いでなく、今だからこそ、そのことに向き合えるのではないでしょうか?
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