人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

世界平和のことなどどっちでもいいが...

2020-03-13 02:25:39 | 人生の教師
五井先生が言うには、"「世界平和の祈り」というのは一宗一派の祈りではない"、とのことです。
しかし、この祈りが生まれた当初はいざ知らず、今となってはそう受け取るのは無理というものでしょう。
"五井先生、白光、世界平和の祈り"というのは、もう垢がつくほどワンセットのものというイメージが定着しているのです。
私はこれまで、特定の宗教、グループにしか通用しないものを推奨するようなことは、ほとんど書いてこなかったつもりです。
もっとも、私にしか通用しないものは書いているかも知れませんが...簡単にマネなど出来ない(?)ごく個人的なことを、自己満足で書いているに過ぎないのです。
ところで改まってですが、世界平和って何でしょう? この世から戦争や自然災害や数多の社会問題が無くなることでしょうか?
今だったらさしずめコロナ.ウイルス問題が終息することでしょうか?
おそらく、こういうすべての現象として現れる問題が無くなったとしても、我々から不幸災難は無くならないと思いますよ。
何故ならば、目に見えるような不幸が解消されたとしても、我々の意識は本来からの幸福に根差していないからです。
本来なら生きている、生かされていること自体が幸福なはずが、生きることは絶えざる不安とそれへの戦いの連続のように感じられるのではないでしょうか? 逆に考えればこの世から目に見える不幸を解消することは不可能と言えるのです。
だから、アタシャ、世界平和のことなどどっちだっていいと思っているのです。
その上、"世界平和の実現にはこの方法しかないi"、"そのための祈りの文句はこれしかないi"、などと血迷ったこと言おうものなら、それ以外の道の人たちが黙ってないか、自らの独善的世界に閉じこもってしまうのがオチです。
だからねえ...アタシャ人からは如何に不幸な人間に写ろうが、自分の幸福のことを考え、追求し、満足してりゃいいのi
あのねえ...もう、こうして書いていることからしてそうなんですよi
だけどねえ...どうしても、こうしても見えない何かが働いて、私個人のままにはさせてくれないんですよi
そうなることは、私は直接そういうものを見た訳じゃないけど、"普遍性"としか言いようのないものに意識が広がってゆくからです。
普遍性とは分かりやすく言うと、"こうでなければならない"ものが無いということでしょうか?
で、世界平和のことなどどっちでもいいけど、この普遍なるものと私は切り離されない感じになってきちゃうのです。
つまり、"ああ、この愛と平安がこのすべてのものに及びますように..."という祈りが私の個人的な祈りだったものになってしまうのですi
どういう形にせよ、どういう思いにせよ、すべてのものがこの平和の源泉そのものとつながれば...こういう願いは自ずと出てくるものです。
五井先生の本を丹念に読めば、型として示された、表向きの「世界平和の祈り」というものの内実には、"普遍的な、全一的祈り"の精神が込められているのをヒシヒシと感じずにおれません。
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消えてゆく姿とは?

2020-03-12 03:12:36 | 人生の教師
私は求道の初期の頃、五井先生と縁があったのですが、必ずしも先生が残した教えや行法に則った道を歩んできた訳ではありません。
だけど、何故か私は先生が"表向き"あまり言ってなさそうで、反面どうも言いたそうに感じることを書いている、あるいは書かされているようなのです。
例えば私は「消えてゆく姿」という教えなどは、理解したことも無ければ、理解しようという気にもならなかったものです。
"業かなんかが消えてゆくらしい...しかし、そういう姿があるのか?...それを見てればいいの?..いや見たり、追っかけてたら消えないの?"、とか考え出したら訳が分からなくなりそうでした。
他では「消えてゆく姿の教えは難しい、それから離れてみてラクになった、ああいう教えは失敗だったと思う...」、と自身のブログに書いている古い白光の会員だった人も居るのです。
又、長年その「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の行法をしていたある信者が、どうでもいいような陰謀論やオカルト的教説にハマり、トラワレ続けているという、"消えてゆかない姿"を見るにつけ、それが如何に観念ごと、形式ごとに堕しているかを思い知らされることで、やはり難しいものだと感じたりするのです。
改めて感じることは、それは取っ掛かりとしては、頭で理解したり、行法という形もあるだろうけれど、そういうもの自体、本来消えてゆくものではないか、ということです。
つまり、それはこちらがどう分かるとか、どう行じるかではなくて、"神に思いを向けていれば、自ずと思いは消えてゆく"、"神にあって"そうなる、ということではないでしょうか?
こりゃあ、分かるも分からぬもない、そうなるんだからしょうがないi
これは、現臨なるものが臨めば、自ずと分かることなのであり、自分で分かろうと、やろうとする向きには絶対に分かりません。
丹念にその著書を読んでいれば分かりますが、五井先生は随所でそういうことも言っているのです。
先生は「消えてゆく姿ということをハッキリと言明したのは私が初めてなんですよi」と言ってましたが、そうかもしれません。
しかし、その言葉に置き換える教え、形として行じられるものとしては、あくまで方便だったと言ってもいいでしょう。
それにトラワレたら消えてゆかない姿になりますよi
しかし、逆に考えてみると、その指し示しているものは、実に大きく、深いものがある、そういうものがそこから開かれてくる、ということをヒシヒシと感じずにおれませんi
特に関わり方次第によっては、罪意識から自分を責め続けたり、思いががんじがらめになって苦しんで来た人間には、大変な福音ともなるものだったでしょう。
私は表層では、分かった気がしなかったですが、どっかでそういう下地が出来ていて、知らずに道が開かれたようにも思うのです。
五井先生が主として居り場としていた大衆宗教の道には、宗教的業とも言うべき、幾多もの取違い、迷蒙、トラワレなどが付きまとうものです。それはある型を示す上では宿命だったと思います。
しかし、型というものには、それを超えたものも示されてあるものでしょう。
今は、その隠されていた奥義が開示される時節を迎えているように感じております。
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独り現臨にあって

2020-03-10 12:11:42 | 現臨、ハタラキ
いつも実感されることなんですが、自分でないもの...現臨と言っても、神的なもの、霊なるもの、思いを超えたもの...と、どう言ってもいいのですが、意識がそちらに向けられると、どういう訳か自分が思われたものでない、"本当の自分"みたいな感じになってくるのです。
これが例えば、"あなたは本来神と一つのもので、それが本当の自分なのですよ..."、という教えを信じ、そう思おうとしても中々そう実感出来ないのです。
こういうことに気が付いたのは、ブログを始めた時から"チラホラ"という感じだったのですが、理由がよく分からなかったのです。
今の今も意識が向いていて"じんじん"と...何でやろ?と...
そんなん、何でもヘチマもありゃしませんi...私がちゃんとここに書いているではありませんかi...
私はずっと"意識が向いたら、思いが離れる云々"...なんてことを書いていたのですi
(こういうことをチャチャっと書けるってのは、ひょっとすると天才かもしれない...しかし、自分で書いてて分からないというのは、よほどのバカでしょう)
だけど、注意しなければならないことは、そういう風に感じたからと言って、自分で"真我を実現した"などとは思わないことです。
まあ、そんな気で居ると思わぬ失態を見せて、化けの皮が剥がれるような試みに会うものなんですけどね...ちと鼻の高そうな人ならご存知でしょうけど...
そういうことは、どこまでも現臨、思いを超えたもの"にあって"、感じられるものなのです。
これにない時は思いが超えられず、どっかで思念的になってくるものです。熱心に信仰、修行しているようでも、そのものにない熱心さはかえって主我心を強めてしまい勝ちになります。
又、こういう風に外に向けて発信していると、読者の目を意識してつい自分を大きく、高いものに見せかけようとしてしまうものです。
ということは、それだけ思念を強めて行ってしまうということです。
人間って強そうで弱いものですが、こういうことが自覚出来るか、どうかというのが大きいことなのです。それ自体思いを超えたところからもたらされるのでしょうから。
せめて独り現臨にあって、内省してる時ぐらいは、自分に正直になれるものでしょう。
いいや、本当に自分に正直になれて、内省らしきことをやるんじゃなくて、"行われる"のは、そういう時をおいて無いと言ってもいいでしょう。
神的なものに向き合うということは、自分が偉くなるのでも、ダメ、バカでも、真も偽りもない、ありのままの自分に向き合うということでもあります。
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とらさんがやって来るi

2020-03-08 10:11:29 | 創作
舞台はご存知、下町の名物の団子屋「とらや」。

社長「大変だi、大変だi」
おいちゃん(多分初代?)「どうしたってんだい、そんなに慌てて...火事か、会社が火の車か?」
社長「何言ってやんだい、とらさんが来るんだよi」
おばちゃん「ホントなのかい、それ...」
社長「ホントだってばi、さっき駅前で見知らぬ、それはスッゴい美人にね、"とらやって団子屋さんはどこですか?"って訊かれてさ、何でも3時にここで、とらさんと待ち合わせするって言うんだ、だからこうしてすっ飛んで来たって訳さi」
おいちゃん「てーことはだ...とらのヤツ、又例の熱病にかかったってことか?...あー、やだ、やだ、おらあ、いやだよ...」
義弟.博二「3時と言えばもうすぐじゃないですか?」
おいちゃん「こうしちゃあ、いられない...色々準備しなきゃあ...」
博二「じゅ、準備って、何を?」
社長「オレはとりあえず手を洗ってくる...」
おばちゃん「アタシャ、なんだか喉とか胸がつまりそうだから、うがいでもしてくる...」
おいちゃん「あっ、そうそう...とらのヤツ、このゴマ団子に目が無いだろ、つまみ食いばかりされたんじゃ、商売になりゃしないよi...今のうちにどっかへ隠しとかないと...」
異母妹.桜子「みんな、何よi...黙って聞いてたけど、みんなしてお兄ちゃんを疫病神みたいにして...ひどいじゃないi、久しぶりに顔を見せに帰ってくるんじゃないの、もっと暖かい気持ちで向かえようって気にならないの?」
博二「そうですよ、桜子さんの言う通りですよ、みんな余計な神経使い過ぎなんですよ...」
おばちゃん「どうしてこう...とらちゃんのことになると、みんな何かに感染したみたいになっちゃうのかねえ...」
おいちゃん「何でかなあ...アイツ、見かけも言うこともハッタリばかりだけど、フツーなとこもあるんだけどなあ...回りがかってに変な嵐みたいなことになっちまうんだなあ...」
博二「こういう時は自然体で、静観してるのが一番なんですよ」
ーと、そこへ謎の美人が登場...
謎の美人「今日は...失礼します」
社長「いやア、さっきはどうも...とらさんはまだですよ」
おいちゃん「とらのヤツ、気まぐれだから何時になるか分からないですよ」
謎の美人「いえ、あの人は山手線のダイヤか、シタテル何とかさんみたいに時間に正確な人ですわ...」
ーそこへ近くの駐車場に見かけない車が停まった...
おいちゃん「おや、そこの駐車場に珍しい車が停まったぞi」
博二「ああ、あれは最近爆発的に売れてて、日本中に広まっているという、"新型コロナ.マークスリー"ですよ」
おいちゃん「おや、降りてこっちに向かってくるぞi、きっかり3時だ」
謎の男「すみませーん...やあ、K子さん、久しぶりだなあ」
K子「会いたかったわあ...ね、時間通りでしょう?」
ー全員、ポカーン
おばちゃん「で、とらちゃんはどうしたんだろうねえ?...」
博二「お二人ともとらさんの知り合いですか?」
K子「とらさん?、知り合い?...いやだあ、この人が"虎田"さんですよお...」
ー全員「ええーっi」
おいちゃん「じゃあ、とらってーのは...」
虎田「僕が虎田です。いえね、昔子供の頃、よくここへお団子を食べに来てたんで、ここは僕の名字と一緒だし、待ち合わせにいいかと思ってお邪魔したんです。何十年ぶりかなあ、懐かしいなあ...」
おばちゃん「ああ、あの虎田のぼっちゃんi」
おいちゃん「なんだ、なんだ、スッカリ立派になって...さあ、さあお二人さん、"とっておき"のゴマ団子今持ってくるからゆっくりしてきなさいよ」
おばちゃん「それにしても、社長さんi、いやだよi、そそっかしいんだから...」
おいちゃん「そうだぞi  お前の"大変だi"からいつも話がおかしくなるんだi」
社長「おら、知らねーよi...なんでい、人が良かれと思って言ってきてやったのに...もう、知らないよi...おおっと、こっちはそれどころじゃないんだった...ああ、忙しい、忙しい...」
おいちゃん「ああ、何だかすっかり気が抜けちまった」
おばちゃん「とらちゃんのことになると、どうしてこういつも、ズレたことになっちゃうのかねえ...」
博二「まあ、悪いことが起こるのがズレるのなら、いいんですけどねえ...僕も工場に戻らなきゃ」
桜子「あたし、なんだか寂しいわ」
おばちゃん「そうだねえ、居たら居たで大変だけど、来なきゃ来ないで...何かねえ...」
おいちゃん「ひーっくしょいi」
おばちゃん「なんだい、お前さん、大きなくしゃみなんかしてさi」
おいちゃん「とらのヤツ、どっか近くに居て、隠れてやがんのじゃないかなあ...」
ー店内、笑い声に包まれる...

おわり
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啓示か心の声か

2020-03-06 10:02:00 | 独語
夜中に目覚めて、例によって"きんきん"耳鳴りが激しく鳴っている...
しばらくすると、何かが電撃のように閃くことがある
この多くがブログのネタにもなる
これはもしかして何かの啓示なのだろうか?
そして、又しばらくして眠気がやって来て二度寝をして、朝本格的に目覚めると...
あれはホントに啓示なのか?
一寸突発的、直感的だけど、考えている私の心の声なんじゃないか?、と思えてくる...
どっちなんだろう、と考えている...
すると、別の心の声みたいなもの、いやどうもこれは?...というようなものがささやく...

"啓示だろうと、心の声だろうとそんなものどっちだっていいi
お前がそう考えているのなら...
お前が啓示であって欲しいと拘っているのなら、なおさらのこと
しかし、それが考える間もなく、あれこれ疑念を巡らす隙間もなく、ただ切り込んでくるもの、ただ受け入れざるを得ないものならば...
それも啓示だろうと、心の声だろうとどっちでもいいことだが...
考えているお前が知らなくてもいいことだi"

こうしてものを書いている時は、考えないと"ものにはならない"
どんな"お筆先"のお告げだろうと、その口述筆記だろうと...
しかし、そのホントの元ネタのことは誰が考えたのか分からない...
彼方のことは彼方の御方にしか分からない...
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