人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来の自分に戻る

2020-08-21 12:32:40 | 意識、照明
私は身の程知らずにも、究極の悟りみたいな境地を目指していたこともあります。
よく考えてみたら、そういうのは大雑把に言って、日頃から熱心に瞑想修行に勤しんでいるような、行者タイプの人に見られるパッションなのであり、私本来の"在り方"とはちと違うということに気が付くのです。(良いとか悪いとかじゃないです)
もし、そっちが自分の在り方だったなら、今頃は生きたままミイラのようになっていたことでしょう。(学生の頃は栄養失調でそんな感じになってましたが...)
何で不相応なことを思うのかというと、"究極の"とか"完全な"というフレーズにエゴが擽られるからです。
実にエゴの欲求に振り回されることほど、自分本来の在り方を見えなくさせるものはないと言っていいでしょう。
これは、そこに何かそうなっていることで、滞らせるもの、心からそう思えないもの、迷いといったものを感じることで示されるのです。
このような精神世界に蔓延している罠は実に多いと言わねばなりません。
中には、悟りや覚醒といったことについて、知的にも理解が浅く、感性的にも深められていないにも関わらず、単なるムード的なものでより高い境地に進むことに囚われている御仁も見受けられます。
そうなると、"在ること"から切り離されて、糸が切れたタコのようにさ迷い続けるしかないでしょう。
迷っているのなら、昔から親しんでいる、自然に意識が向かわされる在り方に戻ればいい...否、そのことに気付くこと自体が、よりいっそう本来の在り方を深めてゆくことになるでしょう。
何も"自分本来の道はあれかな?、これかな?"、なーんて探さなくても、ちょいと意識的になってみるだけで、何やらぱっと光が差し込んでくる感じになり、"じんじん"、そして"ぐわーっ"と生命の歓喜が、安らぎがあなたを包むようになる...かもしれない。
自ずとそうなるもの...自然なことが本来の在り方なのです。
私の場合は、昔から信仰的というか、神的なものに自然と意識が向かわされることが多かったのです。というか、ずっとそういうことを書いてますし...
それでも、ラマナ.マハルシに触れて、真我の実現ということに関心をもったことはあります。しかし、ジュニアーナという、その真我探求の修行はほとんどしたことはありません。
だけど、自分本来の在り方に立ち返る上で、ラマナの教えから受けたことには大きいものがあると感じています。
これは、ラマナがあまり知られていないことで、帰依の道を伝えていたことで納得出来ます。
考えてみれば、自然に感じられない真我などあり得ようはずが無いのです。
といって、"これが真我だ、本来の自分の在り方なんだi"、と自分で決めつけたりする必要もありません。
私のように自意識過剰な人間は、"自分が"という思いから離れるために、神的なものが臨んできたのでしょう...。
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意識の在り方

2020-08-19 12:11:13 | 意識、照明
私がいつも言っている、"意識を向ける"とかいうことには、確立されたやり方、メソッドというのは無いのです。
私が知らないだけで、そういうメソッドというのもあるのかもしれませんが...どうも私にはそういうのは不自然なものに思えて仕方ありません。
そう、それはごく自然になんとなーく、そうなってしまうようなことなのです。といっても、その感じは実にハッキリと、アリアリとしたものなのですが...
分かっている人には自明なことですが、意識の在り方というのは、それくらい実に人生そのものの根本に関わることと言っても過言ではないのですi
然るに、人生においては、多く"考えること"か"行うこと"しか無いかのようにしか"思われてない"というのは何としたことかi..."在ること"を抜きにして、その人間も存在すらしないというのに...
このことに気付いたなら、もう意識的にならざるを得ないというもの...で、何を?...と、地球を一周してしまう訳なんですが...

考えててもしょうがないので、本でも読もうかと思い、ここに2冊の本があります。
どっちの本にしようか? どっちが役に立つのか、どっちが単純に面白いのか迷いますね。(如何に我々は表層的な、本質的でない思考に振り回されているかということに気付かなければなりません)
ここで、そういう諸々の想いを脇へ置いてみて(考えないで)、2冊の本を目次をめくるなりしつつ、単純に意識してみる(これは重要なことで、それは念じたり、イメージしたりすることとは違います)。すると考えようとしなくとも、自ずと思考が離れてゆく感じになってゆく...そうさせるものが立ち上ってくる...
そして、自ずとどちらかの本に何か光が当たっているような感じになり、それと共に意識がそっちに動くというか、何か深まってゆくように感じられます。
すると、その感じは、役に立つとかナントカといった諸々の思いに隠れながらも、心の奥で感じていたものと一つのもののように感じてきます。
そこには、より自分が自分で居られるような、愛、幸福感、リアリティが感じられる。
そうなると、どっちの本を選ぶかは、もう選択の余地が無い...
こうして私の本心は、本を通じて自分が自分らしくなることを望んでいた、という"私の在り方"が分かったのでした...。

と、まあ、これが意識を向けると、パッとなるという消息の一端を描いた(夏休み特別企画か何かで秘伝を公開している?)ものなのですが、ここではその意識が自ずと向いちゃう、何かがあるということが感じられるでしょう。
これを意識してみると自ずと感じられて来ると思いますよ。それは自分の中に元々ある(私は在る)とも言えるし、それが見つけにくいのであれば、思いの彼方から現れるもの(現臨)のように感じたりします。この例では本の中にその媒体が隠れているかもしれないのです。
"意識を向ける"という、あるいは"考えない"という、最初の取っ掛かりとして、人為的な意志を働かせたりするのですが、後は自動的に思いを超えたものの方が無為的に運んでくれるのです。こういうものは自動的な"意識の動き"として感じられるのですが、人為的なものに依らずとも、自ずと意識が向けられ、思考が離れてゆくということです。
そして、愛、平安、リアリティといったものは獲得するものでなく、生来的に与えられているものということが分かるのです。(心の奥で感じていたもの)
読書というものを例にしてみたのですが、私の経験でも、こういうことは結構あるものです。本を読むことは、考えることだとばかり思われ勝ちですが、それは思いを超えたものとの出会いの場でもあると私は思います。そういう時は考えているというより、意識的になっていると言っていいでしょう。
その他、出会いの場所は様々...それは他ならぬ自分自身との出会いでもあるでしょう。
そうして、本当の自分らしい、自分自身の在り方が示されるのです。
どうしてこういうことに確立されたメソッドのようなものの必要を感じないか...人為的なものになって、不自然になってしまうのと、画一されたあなたも私も存在しないからでしょう。
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考え方、在り方

2020-08-18 11:53:41 | 求道、探究
精神的な道について、いつも感じ、言っていることは、ただ観念的に思ったり、考えたり、信じたりしてても何にもならないということです。
あなたという個人が居るとか居ないとか、神は存在するとか、しないとか、この教えを信じたら救われると信じて、"救われたと信じた"とか...大体は人の言葉を信じているのですが、まるで、観念の世界で地球を一回りして戻って来るようなような話ではありませんか。
宗教やスピには短絡的に信じ込んでしまう人が付き物ですが、そういう思いのクセの強い人はどんどん悟るどころか、本心から離れて行ってしまうものです。
このことが分からない人は、例えば"思いというものは無くさなければならない"、"肉体も想念も消さなければ悟ることが出来ない"、ということさえ決められた命題のようなものにして信じ、そういうドグマにずっと思いが囚われたままでしょう。
何故、こういうことが起こるのでしょうか? 一つには世間の生き方として、"考え方"というのがあって、それに則らなければならない、という風に刷り込まれているからでしょう。
だから考え方を変えなきゃならないんですi...つったって、そんなん、ある考え方や信仰から別のそれに変わるだけで堂々巡りだっつーのi
考え方というのも勿論必要ですよ。そっからおおよその見取りとか一定の理解とかが出てきます。
だけど、そっから先、一歩踏み込みたい向きには全く質の違う在り方が求められます。
これは、世間ではほとんど呼び慣らわされていないことで、宗教、スピでは、当たり前すぎるほど欠くことの出来ないものです。それは何か?...(もう、言っちゃってるほど当たり前のこと)"在り方"ですi
変えなきゃならないのは在り方なのですi
どうして同じように道を歩んでいながらも、ある人は思ってるだけでなく、"そうなっちゃった"り、ある人はずっと思い、迷い続けて堂々巡りしてたりという違いが生まれてくるのでしょうか?
これは在り方の問題、違いと言えるでしょう。しかし、精神的道では何と、この根本的なものが蔑ろにされて、あの教えがどうとか、こうとか観念的なことばかりが取り沙汰されてきたことでしょうi
ただ、それは言葉で表すにはとても難しいのは確かなことです。しかし、実際の有り様は、難しいも何もありゃしませんi..."ここに生きている"という在り様があるだけなのですから...
そこで、自分自身の在り方というものを知りたいのでしたら、徹底的に自分に問うてみたらいいでしょう。(他人事じゃないですよi 自分自身のこと...ここが大きいことなのですi)
"自分はどう在りたいのか?"...そこで"考え方"におもねっていてはダメi...ってことは別に無いですが、もし、そうなってしまうとしたら、それがあなたの"考える在り方"ということなのでしょう。
在り方そのものには、本来良いも悪いもありません。ただ、ここで言っていることは、あなたが観念的なことに留まらずに、もっと確信に触れたいという在り方に照らせば、いつまでも観念の沙汰にしている在り方は間違っているということなのです。
結局、在り方というのは本来的に向かわせられるということ、ある意味で"好きか、どうか"ということに関わっているのでしょう。
そして、"私はこう在りたいi"ということがハッキリしたら...自ずと意識は思いから離れてそっちに向くでしょう。
意識が向くとか、向いちゃうというのは、考え方でなしに在り方の問題なのです。
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今居る場所で...

2020-08-16 09:20:17 | 独語
今?
暑いよi
暑くて暑くてやりきれない...
何だって?..."暑いあなたは居ない、暑い全体があるのです"だと...知るかってんだi
前世ではどうなってようと、未来がどうなろうと、異次元が、あの世が、パラレルワールドがどうだろうが、なんだろうが...
今はただ..."あっついのーっi"
昨日の持ち越しの問題も、明日の取り越しの問題もなく、今暑いのが問題i
電気代の節約ってことも、ビンボー渡世にゃ切実な問題だけど...こりゃ朝からたまらんi
狭い部屋にゃ不相応にでかいクーラーをつける...
暑かったら、涼しめばいい...
クーラーが無かったり、イカレたら、扇風機...それもダメなら水風呂...家に居られなけりゃ近くの図書館(ロハだi...頼むからもう休館しないでくれi)
そうして、今一息ついて、どうにか心地よさを取り戻す...
今は幸せか?
そう...それはつかの間のことなのかもしれない...暑さも忘れるとそれも忘れて、再び重いものを背負いこむのかも分からない...
分からない...
ただ今は幸せなんだi
幸せであってならない理由などない...次の瞬間、幸せでなくなると決まった訳でもない...
こうすれば幸せになり、ああすれば不幸になるのだろうか?
今はこうも、ああもする気がないi
今居る場所は涼しく、心地いい...しあわせi
暑くなかったら、こうはならなかっただろう...
外はきっと暑いだろう...
たった壁一つの違いなのに...
外では、セミや鳥が鳴いている...
彼らはきっと幸せなんだろう...
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お盆と終戦記念に思う

2020-08-15 09:46:38 | 意識、照明
改めて思うのですが、お盆と終戦記念日というのは重なっているのですね。
これは偶然なのか、どうか分かりませんが、75年前の日本は、"お盆にはふるさとでゆったりと..."、何てどころじゃなかったでしょう。
ギリギリまで追い詰められ、この日に決断せざるを得なかったのだろうと拝察されます。
ともあれ、毎年巡ってくるこの時期、日本人なら誰しも自ずと、平和についてか、自分の平安についてなどに思わされるものがあるのではないでしょうか? 色々考えるのでしょうか?
私は...あまり考えられません。ことに今年は暑いし...
けど、いつもこの時期が近づくと、自ずと(これがミソなんだi)...じーじーとセミの鳴き声か、耳鳴りか、じんじんと意識がパッとなることが多いのです。
これを私はよく"意識的になっている"とか言うんですが、世間ではこういう状態のことを言い表す言葉は無いのです。
通常"考える"という、能動的に思考を働かせるという訳じゃなく、もっと思考を超えたものに頭をゆだねているという感じです。
こういう感じ、自ずと思わされ、考えさせられている人でしたら分かるのではないでしょうか?(私だけヘンなのかなあ...)
どう言っていいか分からないので、"思わされ、考えさせられる"、といった言葉で、私はこういう有り様のことも含めて言ったりするのです。
実際は、アレコレ考え巡らしたりする訳じゃありません。"内省"とか"沈思黙考"と言った方がいいのでしょうか?
とにかく、自分の頭を超えたものに意識が向けられることなのです。それについて考えたって分からないですよ。
それは思考の源というか、根源的知性というか...意識がこのものにある時、我々の通常の思考回路は休まっており、そこから英気、叡知みたいなものが与えられるのです。
あたかも、故郷にあってしばし安息に憩っていたり、日常の終わりなき戦いにピリオドが打たれるように...
こういうことを意識せずにさせられているのが、この時節なのではないでしょうか?
毎年という訳じゃないですが、この8月中旬を境にして、何かそれまでの見たまま、思われたままの感じが変わったように感じられることが何度かありました。
そして、私の人生で忘れることの出来ない、ある"変容"に二度出会わされたのはいずれも8月下旬のことで、それのみならずどうもこの時節というのは、あの世というか、思いを超えた世界とこの現世が接近してくるように感じられるのです。(幽霊ばかりじゃない、聖霊が降りて来るかもしれない)
ご存じのように、今年はいつもと同じ様態でこの時節を送ることが出来ません。それだけにより内省的なものになり易いのではないでしょうか?
何せ、暑い...
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