人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我が神念

2022-01-22 09:56:33 | 
神を信じている人には何故、自分が信じている神以外は認めようとしない人が多いのか?
何故その神を説いている人ばかり信じている人が多いのか?

私には、昔からこのようなことが不思議に思えてならないのでした。
私も大学生の頃入っていた宗教の影響で、そのような思いに囚われていたこともありました。
半分くらい洗脳されていたのでしょう。
しかし、半分は、そのことがどっかオカシイと思っていたのです。葛藤があった...つまり心からそう思っていた訳じゃ無かった...だからそこを辞めることが出来たのです。
"神は決して独善的なものじゃない、そういうものは神じゃないi...本当に神を信じるということは、そういう狭い心では居られないはず、もっと広い心にならなければオカシイ...
本当に神のことを知りたければ、神を教える人だとか団体のことでなく、神そのものに向かわなければ...中途半端なところで留まっていてはならないi"
その宗教で説かれていたことに上部で迎合していただけで、本心ではそう思っていたのです。本心というものは、昔も今も変わる訳がありません。
私は私の神だけを信じてきた、そしてそれに導かれてきた、と言っていいでしょう。これは、独善的なことでしょうか?
私の神を信じ、それにゆだねる、ということは、実にあなたの神、宗教がなんであれ、あなたがあなたの神に信じ、つながることにゆだねられる、ということでもあるのです。
言い換えれば私が全き自由のうちに我が道を歩むということは、他の道もそう在ることを認め合うということに他ならないのです。
私やあなたの神とは、人がそう信じているからだの、お付き合いだの、長年信じてるから仕方がないだの、イイカゲンなものであっていい訳がないi...本当に神にぶつかってゆくことは、どこまでも自分を超え、自分自身にならざるを得なくならなきゃおかしいですよi
"神の道は険しい、修行の道だ"、なんて私の知らない、心に無いようなことは言うまい...しかし、神に思いを向けているのに、一向に心が休まってこない、幸福になる感じがしない、なんて言うのは全くおかしいi...何かが開かれてゆくはず...神そのものでなしに一体、何に向けているのだろう...自分の境遇は変わらないかもしれないが、それに左右されず、心の底にそういうものが感じられて来る...それがどんどんあなたを神の方に向けさせてゆく...そしてあなたは神と一つにされてゆくでしょう...
それが私とあなたの最善の道であるはずなのです。そこから普遍的な道が開かれるのではないでしょうか?

今日の私はいつになく、口はばったく断言口調になってしまいました。
我が信念みたいなものです。信念なんてのは、神の前ではこっぱみじんなんですけどね。
でも言わされちゃったんだからしょうがないi...これは神念みたいなものかもしれない...。
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反省と叡知の光

2022-01-20 10:00:16 | 哲学・思想
最近、このブログをずっと最初の方から遡って読んで下さっている、とても奇特な方がおられます。
有難いと同時にこっぱずかしいことこの上ないです。
まだブログのやり方も不馴れのまま始めたので、あちこち見苦しい点があるでしょうが、そのままにしてます(めんどくさいから...スミマセンi)。
記事の内容の方も随分と、メッセンジャー気取りというか、"私が真理を教えて進ぜやう"、みたいな上から目線の心的傾向も見えますねえ...
それと"人生の裏側の世界ってもんはこうなっているんだi"、とやたらと、予断、固定観念から言い表しているところもあります。そのホントの真相はどうなっているか分からないのに...こういうことは、それもそのままにしてるから分かることなのです。
今、とても反省してます...最初の頃よりは、ちっとは反省するようになったのは確かだと思いますよ(?)
金子大栄師の本でもやたらと反省という言葉が出てきますが、これは通常思われているような意味合いのものではないでしょう。
内省、省察とか言った方がいいのか...いずれにせよ、省みて色々思考を巡らすようなことを連想しますが、これはむしろ思考を超えた智慧、叡知の光に与るというようなことが根底にあり、そのことが含まれ、その上にたっての思索というものに他ならないでしょう。
そうでなければ、師が語られる自己に超越し、内在しているような消息のことは出てこないはずです。
こういうことは、どうも適切な言葉が見当たらず、一般にはよく考えることだと思われているのです。それだけ思いを超えるということの消息が知られていない、ということを物語っているのでしょう。
だけど、誰もが知っているはずです。考えているようで考えてない、考えの外から知りたいことが降りて来たとか...これは、そう在らしめるもの~現臨とつながっているのです。
これは、固定観念の打破につながることであり、予めそうであると決められたような教説に囚われたような、大勢や権威に容易く迎合する精神からは求むべくもありません。だから中途半端なところで思考停止していたらダメなのです。自分の頭で考えろi、もっと反省しろi
反省したら、思考停止して、天来の光が...ああ、もうややこしi...
何故、こういうことを言うのかというと...叡知の光に与るということは、愛、平安に与ることに他ならないからですi
中途半端に留まっていたら、中途半端なものしか与えられないだけの話です。
私は長年、真理の追求とか、理を明らかにすることばかりに囚われていました。そう駆り立てるものの根底にはそういうものが隠れていたのです。愛、平安と切り離された真理というものは無いのです...。
ああ、もうエラそうに、口はばったいこと言うの反省しなきゃ...
こういうことは、一人一人の実存的問題なのですからね。
ホントに言いたいことは...あなた自身の実存的神、佛に聞くべしi
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統派を超えたもの

2022-01-18 12:18:39 | 人生の裏側の図書室
先日、ある本を読んでいたらもう、驚いたのなんのi...何度も目がくぎ付けさせられてしまいましたi

「私たちの幸不幸を決定するものは、一面は境遇と見られ、一面は意識状態と見られるのであります。しかるに人は多くその境遇の方にのみ注意して、その性根(意識に根ざすもの)の方を忘れておるのであります」
「佛は我々の内にあるが中にはないのであります。佛は我の中にありという時には、我は佛より大きいものでなくてはなりません。...佛が我に内在するということは、我の内面にあるということであります。自覚の光に照らし出されて佛の中に現実の我を見出だす時、我々は佛の内在を感ずるのであります」
「超越するがゆえに内在し、内在するがゆえに超越する、それは常住真実の佛であります」
「人間の智には明らかに二種あって、一は知識といわれ、一は叡智といわれています。...真に己を知り、人間の理想を知り、自分のなすべきことに安んじて行ける叡智、それが智慧の光明であり、それはともすれば、何でも知っている学者にかくされ、何も知らない愚者に輝く光明であります」(金子大栄「帰依と行善」)

かくも、今の私の内面に響いているものを代弁されている方が居られたとはi...
実はこの本を読んだのはニ度目のことで、ちょうど六年前に読んだ時はさして印象に残ってなかったのです。
今の私だったら、これらの文章に触れて、絶対に看過などしてる訳がありません。この間に私の内面に著しい進境があったのでしょうか?...んなこた、多分無いと思いますよ。
金子大栄師は、清沢満之師の学統を継ぐ、真宗大谷派の宗教哲学者...と言われています。
私はかなり前、同じ門下の暁烏敏師の「更生の前後」という本を読んで感激したことがあったくらいで、同門の方のものは、ほとんど読んだことが無かったのです。
不明を恥じて言えば、あまり期待して読んで無かったのかもしれません。有り体に言えば真宗大谷派の御用学者というイメージで見ていたようなのです。
その後、いくつか同門の書物に触れ、そういうイメージはすっかり払拭され、どうしてどうして彼らは、我が国の宗教、哲学史の上に揺らぎない業績を残したということを感じ入るに至ったのです。ああいう人たちは、正にこの国においてしか生まれなかったと言っていいでしょう。
それはこの本からも感じられるように、その各々が、徹底的に自己に向き合い、よく追求、反省し、そこから導かれるものを表して行ったからでしょう。
少なくとも、私には上に紹介した言葉から真宗の何派、行としての称名念仏といったものさえ、超えたものを感じざるを得ません。
しかし、その一方で、真宗の伝統的教学や称名念仏に立ち返るという姿勢も見てとれるところもあるのです。
この辺りが、例えば禅における鈴木大拙師のような全く、その枠を超えたような生き方に比べて限界を感じてしまうところなのです。(これはその表向きの生き方、在り方のことであって、その内実的在り方のことを言っているのではありません)
どうしても彼らには、"真宗大谷派の..."という形容が付いてまわるようなのですが...やっぱり私には、"実存的光を追求し、それに照らし出されて生きる、一人の行学者"というものを感じ、共感してしまうことがどうしたってあるので(それが肝心i)、それでいいのでしょう。
先の理由でか、大拙師の本は何度も復刊され、大きな書店に行けば容易く手に入るのに、金子師のものは、過去のものになってしまったのか、ほとんどが絶版状態です。
しかし、私には忘れ難いものになったのは言うまでもありません。
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実存と回想

2022-01-16 10:00:49 | 回想
もう、無理ですi
これ以上、回想風の文章を綴って行くのは...
記憶を辿ろうにも思い出せないんです。いや思い出そうとさせない、あるものにぶち当たってしまうのです。
あたかもそのものは、私の過去のある事象を過去の思い出、記憶の1ページにしてしまうことを拒んでいるようです。
回想は、現在の私が過去の私を対象にして想起してゆくものですが、ここでぶち当たっていることは、自己の実存を対象にして、実存について考察することと同じように、そのことを困難にさせているのです。
それは、正に私が初めて実存なるものに目覚めたことに触れているのですi
昭和55年春、ベルジャーエフの「精神と現実」という書物を読んで、初めて私の内部に光が差し込んだ、というようなことは幾度か書いていることですが、その度にそのことが現在のこととして...そう、今ここで現臨するものと切り離しては語れられなくなるのです。
そうであっても、どれだけあの時の、生の嵐の真っ只中の現実に迫るものがあるのかは(先とは違うフツーの意味での記憶の限界というものもあって)、もはや分からないことですが...単なる思念的記憶でない、身に覚えられるものと共に息づいているのは確かなことです。
"私...この私自身なるものは、思われた私では無かったi...世界は、又思われた世界では無かったi...物心付いてからずっと私自身を覆い、取り巻いていた、動かざる現実という壁が音を立てて崩れてゆく...私自身が知っている、生きている真の現実はその向こうにあるのだi..."
私の中のずっと開かずにいた扉が開いて、正にその暗部に光が灯されたようでしたが、そのように数十年前の私をして語らせようとしているのは、現在の私でもあるのですi...いいや、現在の私たらしめている、あるものでしょうか?...
しかし、当時はそれは一過性の、当時しばしば与っていた、精神的な高揚のより深みに達したもののようにしか感じてませんでした。
そういうことは一時のもので、過ぎてしまえばフツーに日常の意識状態になっていたのです。
ただ、この体験を通して、更なる意識の深みが切り開かれるであろう、その日の到来が近いことを予感させられたのでしたが...その約半年後、その予感をもたらす、そのしばしば訪れる現臨感覚とも言うべきものは、自然に失われてしまったのでした。
し、しかし...何が失われた、というのでしょうか?
それがどっかから風のようにやって来ては、日常のクサグサの思いに囚われては去ってゆく...10数年失われてしまったように感じていた...
誰がそう感じていたのだろうか?
あの開かずの扉が開かれたことに意識を向ければ...何も過ぎ去ったものも、失ったものも無いではないかi
過去も現在も超えて、唯一無二の私自身がそこに生き続けているだけではないでしょうか?
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実存との出会い

2022-01-15 10:17:19 | 回想
何度も言っているように、精神的な道においては、意識の在り方というものがきわめて重要なことです。
あれこれと考え巡らしたりするので無しに意識的になる...私の場合それは、同時にそうさせられた、と言ってもいいのですが、これは実存的になると言い換えてもいいでしょう。
昭和54年初春辺りから私の内面に顕著に表れた変化は、このプロセスが進行していたということです。
けっして超能力や超常的現象に与った訳じゃありませんよ。真剣にそれらを追い求めたことは無いにせよ、一時期そういうものに興味を覚えたこともありますが、むしろそれらから距離を置くようになった、と言ってもいいのです。
それらは、私の内面、実存と直接関わるものでないから...そう、それは私の直接性の外にあるものだから...
意識的に在る、実存的に在ることは、直に在ることなのです。自ずとそちらに赴かざるを得ない...何故ならば、そこには思い描いた世界からは与り知れない、愛、平安、リアリティがあるから...それに尽きてしまう...。
そこに赴いてしまうものがあるi...これは自分で書いていて驚嘆させられてしまいますi...それは、探し求めなければ得られないものではないのか?
この直接性とは私が探し求め、しかる後に得る、という二元性が突破されている、ということに他なりません。このことは私自らからは絶対にもたらされるものでは無いi...私を超えたもの、もしくは思われた私以前から在るもの(内在するもの)から来るのですi
それを聖霊と言わんか、現臨と言わんか...このことは小池辰雄先生との出会い、もう少し後で(その小池先生が訳されたという奇縁i)ベルジャーエフとの出会いに負うところが大きかったのです。
その当時は自覚的になっておらず、単なる思想的な共感によるものだ、と思っていた部分もあったのですが、それを全く超えたものであることは今も息づいている、その現臨感覚とも言うべきもので分かるのです。
初めて読んだ小池先生の著書には、随所に"無的実存"とか"終末的実存"といったフレーズが見られます。ベルジャーエフのその本の題名は、「神と人間の実存的弁証法」というものでした。
それを読んだだけで、"実存とは何ぞや?"、ということは、特にそれに触れている訳でも無し、サッパリ分かりません。
しかし、こういうことは言葉を超えて伝わって来ました。彼らは、神に"ついて"、キリストについて、又人間実存について語っているのではないi、神的、霊的実存"から"語っている、ということが...。
だから...実存とは何か?、などのことは知的概念で分かるようなことじゃない、我が神的、霊的実存にあって示されることなのだ、と。
この実存とは、全く思いを超えたものであり、又思われた私以前からあるものである...思われた私からは、私の実存のことなど分かりようがありません。
しかし、このものにあっては、全く自明なことではないかi...思念の果てしない堂々巡りが突破され、"私は在る"実存そのものに落ちてしまうのだから...
そして、このことは翌年春頃、やはりベルジャーエフの「精神と現実」という本の読書体験を通して示されたのでした...。
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