人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

カルト思考を生み出すもの

2022-08-21 10:48:02 | スピリチュアル?
私はいつもカルト思考について批判的なことを書いています。
今、盛んに取り沙汰されているカルト宗教、安易な宗教、スピ依存のこととか、こういうことは、すべて私にも身に覚えがあるからこそ書けることなのですよ。自分の問題と切り離されない訳です。
そう、私にもカルト思考にハマりかけていた時期があったのです。
それも、いつも書いている昭和50年代の学生時代の頃じゃなくて、20数年前のことです。
この頃私は、大阪で主に営業の仕事をしていたのですが、不景気でかなり傾き出したので、副業でバイトをしていたのです。
それも不安定な職種である上に、職場の雰囲気にも馴染めず、物心ともに悩みを抱えてしまい、世の中の重圧というものを常に感じる日々が続いていたのです。
そうなると、この現実世界のことが何だか呪わしいものに感じ始めるようになります。
陰謀論の本を熱心に読んでいたのもこの頃です。コールマンだかの“300人委員会が世界陰謀の黒幕だ!“、とかナントカ?...“そうだったのか!“(笑)
ただ、真偽の確かめようのないことをもっともらしく書いてあるだけなのに...
実例がいっばい載っているではないか!...そう、これにコロリと引っかかってしまう!...意識が外向きになっているので、客観的事実っぽいことが即真実のように思えてしまうのです。
これに輪を掛けたのは、“まもなく呪わしき世界は終わりを告げて、新しい光り輝く新時代を迎える!“、という...そう、“アセンション“問題です。それは、どうも2012年のことではないらしい?...
浮世はつらいんだ、そんなに待てない!...げっ!、2001年7月!、後1月、2年!、早すぎない?
これは、ゲリー.ボーネルってチャネラーの説です。ただそういうこと言ってるだけなら、引っかかりませんよ!
しかし、これにゃあ、ぶったまげた!...世界中すべてに光の雨が注ぎ、それが我々の意識に一大変容をもたらす!...数万年ぶりに地球は、フォトン.ベルトなるその光の圏内に突入するのだ、と!
これより、数年前Tさんという知人にテキトーに話していたことが、にわかに現実味を帯びて来たではありませんか!...その渦中にある時、人類は仮死状態に置かれるであろうこともソックリ!...屋内に避難すればいいって?、バカを言っちゃいけない!、それはすべての物質、精神をも透す、光子、霊子なのですぞ!
ただ、環境破壊によって地球を取り巻く領域が生物圏からヌース圏へと移行するというテキトーな持論とは違いますが、理屈づけは何だっていい、世界的規模の聖霊のバプテスマを迎えるってことなのです!
“これは大変だ!、皆に知らさなきゃあ!“、実際にごく一部にでしたが“檄文“を送りつけたくらいです!...全く狂気の沙汰という他ありません!
しかし、それも当の2001年7月の某日には、すっかりトーン.ダウンしてしまい、その日はあまりの猛暑に仮死状態に陥りそうになっただけなのでした。
光を受けた実感はありませんが、私の意識状態も変わっていたのです。
陰謀の黒幕のことなどどうでもよくなり、目を覆う黒い幕が取れたようになりました。
これは、安定した副業、いい雰囲気の職場に恵まれたからです。
“ああ...肩の上にのし掛かってた重たい鎧も取れた!、この世に生きるってすばらしいことじゃないか!、浮世はつらいかもしれないが、何もこちらから見限るようなことは何も無いじゃないか?“
このように、人がカルト思考にハマりやすい時というのは、精神が負の状態になって、戦々恐々と余裕が無くなり、環境とか自己の外部世界にばかり意識が向けられがちになるようです。
自己実存に向けられることなく...自己という現実。それが現実逃避につながるのです。
あの頃は、それがどういうことかすら分からなかったようです。
自己の現実、実存?、そんなコ難しいことにゃ、意識が向かわない訳で!...
や!...その現実あらしむるものが、意識が向いたかどうかという間に臨んだぞ!
それが何かは分からないが...この現実をよそに、この現実世界も、来るべき?聖霊の新時代も無いだろう...
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光と闇

2022-08-20 08:40:47 | 詩的文章
闇がすべてを覆っている...
何も見えない
何も為し得ない
みんな、無くなってしまった!
この私も...
見えない、為し得ない、無くなった...
闇はやって来る...
どうしたってやって来る...
受け入れざるを得ない!
闇はやって来るのだ!
見えないことも、為し得ないことも、無くなることも...
見えた!
見えること、為すこと、現れること...
やって来る!
光がやって来る!
すべてを照らす光が!
見えないものが見えて来た!
闇だったものがちゃんとそこにある!
私はここにある!
照らされるまんまが受け入れること
見えないもの、ちゃんと見えているか?
感じているか?
そして、又闇がやって来る...
又闇に覆われるだろう...
闇を覆ってはならない!
本当の闇とは...
闇を見ようとしないこと!...
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地獄の福音

2022-08-19 09:58:44 | 宗教
神は愛ですか?
それとも...恐ろしいですか?
神の裁き、地獄送り...
永遠の生命に与る?...それとも永遠の呪い?

私は、神を信じるという人と何度も接してきました。
長年、熱心に信仰生活をしてきたという人に、いつもここで書いてるような、神的なものの直接体験のことを向けると、大抵顔が引きつって、恐怖に駆られた表情になってしまいますよ。
“神を現実に受け入れるってことは、そういうことじゃないのか?!“、って語気を強めると、まるで断罪を受けた犯罪者みたいになってしまうのです。私なんかより比較にならないほど、克己心、道徳心があるように見えるのに...
神を本当に求める、受け入れるとはどういうことなのでしょうか?...上のようなやりとりに接して根本的におかしいものが感じられるでしょうか?
神的なものに出会うということは、ある大きな真実、疑いようのない真実を示されるだろう、ということは、多くの人には感じられるでしょう。
これが裁き、最後の審判のような恐ろしい事態を想起させるようです。
ことに熱心な宗教信者、特に狂信者などは、“この教え以外に真実は無い!“、と頑なに信じ込んでいたことが覆されてしまうことに、言い知れぬ恐怖を覚えるようです。
言い換えれば、その頑なに信仰を固守することは、その神の裁きから逃れるための隠れ蓑にしているのではないのか?
このような信仰は、最初から恐怖に基づいているのです。それは、罪の意識が根底にあるのでしょう。
それは、取りも直さず、罪なる自分自身の本当の姿を直視出来ない、受け入れられないという思いに他ならないでしょう。
又は、信仰者でない多くの人には、“これが私なんだ!“と信じていた自分像が崩壊する、という恐れを持たれるでしょうか?...いや、単純に思考が無くなるという恐怖でしょうか?
そりゃ、コワイですよ!...それもただ思ってるだけじゃなく、現実にそうなるかも分からないという局面に立たされたりでもしたら!...そりゃ、地獄の恐怖に違いない!
これは、思いを超える、ということと隣り合わせのものですが、そこに言い知れぬ恐怖があっても、そこを超えないと、神に出会うことは叶わないのです。
それでも神を求め、受け入れたいですか?
と...ここまで書いてきて、もっとも肝心なことには触れていません!
そういうことと言うのは、もう言葉では言い表せません!...言ってるけど...
神は愛である、神を本当に受け入れるということは、愛、平安、リアリティに与ることなのです!
神を恐ろしい裁き主のようにしか感じていない人間は、観念でしか神を知らず、それに立て込もっているだけなのです。
神について語られるもっともらしい話には、もっとも肝心なことが抜け落ちているのです!
それでは、絶対に幸福に与ることなど出来ません。いや、不幸だ!...地獄を恐れているようだけど、既に観念地獄に落ちてるみたいじゃないですか?
それなら最初から神を認めようとしない無神論者の方がはるかにマシというものですよ!
神に恐れを抱くほど不幸なことはありません。(畏れるものではあっても)
すべての幸福は神から来るのですから!...
神は思いを超えている...神への恐怖の思いは、神を受け入れることで消えてしまう...否、それは、どうしても神を受け入れられない、こちらの思いを超えて、神の手に抱かれることなのです!
すべての思いが消える訳じゃないでしょうが、少なくとも私は、我が主の”裁きによって”罪の意識から解放されたのです。

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ありのままの自分と真我

2022-08-17 10:13:58 | 意識、照明
“神とつながるには、ありのままの自分を受け入れなければならない!“

なんてこと言われたりします。前回のことを踏まえると、やっぱり自分からは出来ないでしょう。第一、私なんかは、ありのままの自分が何かが分かりません。
それで、ありのままの自分というイメージというか、何かを想定してそれになろう、なんてことやり出したりしたら、そんなの全くありのままじゃないじゃないですか?
よく考えたら、これは真我についても言えると思うのです。今の自分よりずっと高い、進んだ世界に居るのが真我なんだ、とか...
しかし、本当は、ありのままの自分のことも、本当の自分のことも知らないというのは、おかしいことですね、自分自身のことなのに...
それは、こうして生きている自分というのは、“偽我“だからなのでしょうか?...ああ、もう書けば書くほどおかしくなってくる...こんな自分を何か、自分を超えた大きなものに投げ出したい!
すると...書いているだけで、そうしたものから何か光が照らされいるのが感じられる!
例えようの無い幸福感!...もう、そこではありのままの自分を受け入れ、投げ出さざるを得ない!
え?...そうです!、それがありのままの自分に他なりません!
それは、どうしようもなくバカでダメな自分かもしれません。でも受け入れざるを得ないのです。これは、“受け入れなければならない“こととは、丸っきり違うことですよ!
自分で想定して、なろうとする自分像など一瞬で消えてしまいますよ!
つまり、光に照らされるままがありのままの自分なのです!...その光からは逃れられないし、隠れようがないし、誤魔化しようがありません。
ありのままの自分を受け入れる...それは本当の自分を受け入れる、神を受け入れることと同じでしょう。それは思いを超えたものを受け入れるということ...私が受け入れるのでなく、そのものが臨むから受け入れられるのです。(言うまでもなく、この神的な光とは神的な現臨の側面に他ならないのです!)
そこに疑問の余地が無い!...ありのままとは、自分の思いで描いたり、実際以上に飾ったりすることが出来ないということです。
自分は、常に正しい、進んでいる、悟っている...そうして思いを膨らませていたものは、すべて幻となってしまうのです。
だから、そういう人間がありのままの自分を受け入れることは困難と言えるでしょう。光の照射を拒み続けているのだろうか?...かくも幸福なことなのに...(ここに、福音書でイエスがパリサイ人を激しく糾弾していた真意があるようです)
ありのままの自分を取り繕うことは出来ませんが、いくらダメな自分が映し出されようと、逆に露悪的になる必要も勿論ありません。ありのままに気付く契機はずっとあるので、“いつも正しい人間“よりはいいでしょうけど...
そして、ダメな自分がただちに本当の自分ということにはならないでしょうが、それも光に照らされ、映し出されるものなのです。
まず、自己の闇的な部分に光が当たり、そこから隠れていた、どこかに置いてきた、もっとも大切な自分が顕わにされるのです。ありのままの自分と真我とは、一続きのものと言えるでしょう。
どちらも思いに引っかかっている自分からは分からないものです。思いを超えた光にあって示されるもの...こりゃ、確かにおかしいことにゃ違いない!...だから世の中おかしいことだらけなんでしょう?!
示されれば分からないはずなど無い!...自分自身でありすぎることなのだから...
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神に意識を向けると...

2022-08-16 10:22:58 | 求道、探究
“神につながるには、思いを超えなければなりません!
欲望を無くさなければなりません!
心を静めなければなりません!“...

な~んてことは言うつもりも無いし、自分でそうしようとして、そうなったことなど一度もありません!
いつも言っていることは、それらのことは、神が臨むことでそうなる、ということなのです。
それで、それらが無くなるということも無いですが、少なくとも、神が臨む時はそうなっているのです。
では、その神が臨むには?...これは言わずもがなのことですが、その気が無ければ無理でしょう!
これは当たり前のことで、どんなことでもそうですよ!...働くことも、遊ぶことも、メシを食うことも...これは意識がそういうことに向くということなのです。
だから、神に意識が向く、とか向けられるとか言うのは、難しいも何も、全く自然に行われることなのです。その気さえあれば...
神とつながりたい?...ホント~に?、じゃあ、もうつながっているはずでしょ?
純粋に、キリストでも弥陀でもいいですが、神そのものに意識が向いているのであれば...
ところが、宗教の周辺には、神そのものに向けられないものでいっぱいなのです!
教団、教義、人間教祖...そして上記したような、自分をどうとかしようという思い...つまりは自分に意識が向けられているのです。(この言い方は、ちとややこしくて、“ありのままの“自分に意識が向けられることは、かなり重要なことで思いを超えられるということはあるのです)
このように、神でないものに囚われれば、囚われるほど神から遠のいてしまうことになるのです。
要するに、いつまでも思いを超えられない!...だから、思いを超えせしめるもの、神を求めるに如かず、ということなのです。
これでいいのだ!...いや、神を求めることならきっとそれでいいのでしょう?
ただ、私について言えば、あまりにも先の自分を何とかしようということに(それ自体は、社会生活を営む上では必要なことで、否定さるべきものではないでしょう)意識が行ってないようでもあります。
それは多分、思いに、欲望に囚われたまま、心が乱れたままであっても、一度神に向けられたなら、ぱっと、それから離れられることを何度も経験しているからでしょう。
しかし、これでいいのか?...フツーの意味で進歩も成長も無いではないか?...
“ま、いいんじゃないか?“
な~んて、自分で思っているんなら世話は無いですね?...いや、待てよ?...
“お前がどんなにダメで、役立たずでも、私を忘れなければいいんだ!“
って、どっかから声がするような...
自分がダメだとか、バカだとか考えているんなら、神に意識を向けたらいい!
いや、自然に向いてしまうだろう!...そうかあ!
ネガティブなもの、不調和なものはそのままで、神的なものに化されてゆく...
と、いう風に今日も書いているのですが...書いてみるものですね!...一際意識が向いてしまいますから...
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