人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えない導きと祈り

2023-01-23 10:06:15 | ガイダンス
何度も書いていることですが、とても重要なことなので何度も触れずにおれません。
昭和54年初頭、私に現臨感覚が芽生える直前、突然思考が機能しなくなり、意識も飛んでしまいそうになる事態に見舞われたのです。
本山博さんも書かれているように、それはもう、ブラックホールか奈落の底みたいな世界に自分が吸い込まれ、消え去ってしまうような、気も狂わんばかりの恐怖なのです。
心身共に何か抵抗し得ない力によって圧迫され、立っていられなくなり、路上にへたり込んでしまいました。
別に我流でおかしな修行をやっていた訳じゃないですよ!
以前の記事では、それは無茶苦茶、必死になって祈っていた結果みたいなことを書いたかとも思いますが、これは全くの思い違いです!(何せ、思いが飛んでいる間のことなので、すべてカオスに包まれているようで正確に書き表せないのです)
事実は、そういうことになったからそうするしかなかった、必死になって祈るしかなかったのです!
その甲斐あってか、その場は窮地を脱することが出来たのです。しかし、日常意識に戻るにはしばし時間がかかりました。
現臨感覚というものを自覚したのは、それから数日後のことでしたが、このように、私が初めて思いを超えた世界に接したのは、危険と隣り合わせのものだったのです。
それから数年後の昭和58年夏、これ又突然初めて”神の手に捉えられて”、”人生の裏側”に踏み入れることになったのです。
いや、それは前記した時のことではないのか?、と思われるかもしれませんが、私は重要な意味でそういう自覚は持っていません!
なるほど、思考機能は失い、意識も遠のくというより、日常意識が退き、別の意識が顕わになった(これが裏側の扉が開くということ?)という感じになりましたが、やはり私のすべての力を奪う上よりの力も感じられるなど、前記したことと重なる部分も多いです。
しかし、決定的に違う、天と地ほどの開きがあるように感じられることがあります!
あの奈落の底に消えるような恐怖の念が無い!...いや、真逆とも言える、愛、安心が感じられる!
ゆだねられる!...いや思ったり、為そうとすることが絶たれている以上、ゆだねるしかない!
そう、そこには神的なものが臨んでいたのです!...すべてはそのものの主導で行われていたのです。
これを私は”見えない導き”と呼んでいるのですが、それは愛、安らぎ、リアリティそのものと言ってもいい...それにおのずと意識が向かう、ということなのです。
しかし、このことは、その前では私は一切無力であり、その奴隷のように操られるしかないのでしょうか?、これはこれで恐怖ではないか?
そんなこたあ、無い!...その神的な現臨、見えない導きは、思われたままの私を超えた、もっと大きな、もっと本来的な私自身を感じさせてやまないから!...だからおのずと意識が向いてしまうのです。
それは、どこまでも私の力を超えたものの為せる業なのです。
それを抜きにした、思われた自分からのみからの、如何なる自己を超える試みというものを考えることも、意識が向かうということもありません!
自分の限界を弁え、それを超えたものに与ること...それが祈りに他なりません。
あの奈落の底の恐怖を通して、祈りの重要性ということを学ばされたのでした...。
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私に即したこと

2023-01-21 09:21:02 | 独語
キリスト教徒は、聖書に書いてあることを信じているという...
神がすべてを創造したという...
人間が神の意志に背き、罪を犯したので、キリストがそれを贖うべく十字架にかかったという...
キリストが救い主なのだから、彼を信じたら救われるという...これこれを信じているのがキリスト教なのだとか、って!...

そんなもの、私の知ったこっちゃない!
すべてそう言われているだけのことじゃないのか?
誰がキリスト教徒なんだって?...人がそう言い、自分でそう言っているだけじゃないのか?
人がそう信じているだけ...
何だって?...自分はどうしても信じ、受け入れることが出来ないのだけれど、信じないと救われない、と人から言われているので、何とかその教えに合わそうとしているのだとか?...全くご苦労さんな話ではないか?!
そういう自分を受け入れたら、無駄な苦労は終わる...かもしれない!...
キリスト教ではこう言い、仏教ではああ言う...西洋では?、東洋では?、古代は?、現代は?
聖書的、福音的でなくてはならないとか、何が元のブッダの教えで、何が後世の創作だとか...
すべて知ったこっちゃない!
どの場であれ、いつの時代であれ、一人一人の内的世界はどのようなものであったかは、知る由もない!
あなたのそれも知らないし、誰も私のことなど知らないだろう...
私は私なんだから!...
それ以上にも、以下にもなりようがない!
なろうとしても、なれないことがある...
やろうとしても、出来ないことがある...
信じたくても、信じられないことがある...
受け入れたくても、受け入れられないことがある...
受け入れられることもある!
受け入れられることが降りて来ることもある!
開かずの扉が開いて、壁の向こう側に入ってしまうこともある!
すべて、私自身に即した世界で行われること!
私に即したこと!
私はどうなのか?
私の中はどう動くのか?
私の中に何かが通ったか?

感じられるだろうか?!
これが感じられない、すべての異教や異邦人のことなど...
知ったこっちゃない!


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神の意志、人間の意志

2023-01-20 10:00:37 | 
先日、書店である神話学の本を立ち読みしていたのですが、”神は顕わになるものである“、という意味のことが書かれていました。
私も常々そう感じていて多いに共感したので、”よし、これ買おう!“と思ったのですが、少し読み進むうちにその気が薄れてしまいました。
まあ、立ち読み程度なので詳しくは読んでないですが、神が顕わになるとして、著者はそれに没入(対象が消えて、自他の区別が無くなるようなことをこう表現している由)はしないで、神と相対して、観察するような状態に踏みとどまるようなことを書いていたのです。
私の感じでは、もし本当に神が顕わになるとしたら、そういう問題にはならないだろうと思うのです。
一体、何のことを言っているのか分からん!、という方も多いでしょうが、これは勿論、どっかで“聖母マリアが出現した!“、とか目に見えるように神が現れる、ということを言っている訳ではありませんよ!
我々の思いを超えて、意識の次元に示現するということなのです。明治時代の思想家、綱島梁川(りょうせん)が言ったような“神を見る(見神体験)“ことに通ずることであり、そう、神的な現臨に与ることを言っているに他なりません!
神が意識に顕わになれば、没入するかもしれないし、しないかもしれません。こちらの意志で決められるものじゃないはずなのです。
ただ、”現臨に在る”というだけで没入という状態になるとは限らないですが、それがもっと深まり、神の手に捉えられる事態ともなれば、もうこちらの意志でどうともならなくなり、没入されるに任せるしかありません。
そういう契機はいつ起こるかは人智では分からないのです。(思いを超えているのだ!)
もし、最初から任意でそこまで行かずに踏みとどまることを自分で決めているのであれば、私の感じでは、神が顕わになったとは言えないと思うのです。
考えている自分がそこに居る、その事態を自らの意志でコントロール出来るということは....神が顕わになっているか、考えている自分が居るか、どっちかしかないはずなのです!
勿論、”神の手がかかる”手前では、思考は後退はするものの、なお機能している居る訳ですが、その現臨に在る状態の成り行きは、神的な意志にゆだねられているのです。
こちらの意志がゆだねられなければ、神は顕わにはならないでしょう。
神は我々に顕わになることにより、ご自身を示されるのです。
そうでなければ、神は我々が想像し、任意に思い描き、否定したり、信念に取り込んだり出来る対象に過ぎないでしょう。
神の示現により、神と一つになるか、どうかは分かりません。
しかし、現実に”神が現れたもうた!”、ということは、我々の運命はもう決まったと言っていいでしょう。後は(我々の)時間の問題でしょう。
それは、神にゆだねられているのだから!...

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人間とスピリチュアル

2023-01-18 10:02:52 | スピリチュアル?
伝統的宗教にあっては、スピリチュアル、霊なるものと関わりを持たないものなど皆無と言っていいでしょう。それ無しにどこに存在理由があるでしょう?
仏教は、お釈迦様は、神や霊について語らなかったではないか?、という向きもあろう...冗談じゃない!...それは言葉のロジックに囚われているのです。そうしたもの抜きにどうして思念が滅せられたり、解脱などということなどあり得るでしょうか?...自分自身のことに即して考えれば分かりそうなことではありませんか?
神、霊...それはただの言葉に過ぎません。ここでは言うまでもなく、我々の思いを超えたもののことを言っているのです。
仏教的には”ダンマ、妙なるもの”、というものがまさにそれでしょう。そしてブッダの慧眼は、それらを実在論、実体論的に説かなかったところにあったと言えるでしょう。
然るに、現今の所謂”スピリチュアルもどき”は、神の、霊の実体に囚われ、思念世界に閉じ込められて、思考停止に陥っている有り様ではありませんか!
一方、やはり精神的な世界と関わる哲学の世界はというと...近現代の哲学は絶えず、論理的思考を巡らし、その帰結に導くことが主流とされているようです。そんなもの、頭の中の抽象的な観念だけで帰結されたって、我々の実存はどこにもオチるところなどありませんよ!...論理のための論理、哲学のための哲学など、ヒマ人の知的遊戯にしかならないでしょう!
思考を超えたものを指向せず、結び付かない哲学などやはり存在理由がありません。少なくとも私には!
かように、我々の精神の道は、思考停止に陥るか、観念の堂々巡りにハマるしかないのでしょうか?
自分自身、自己実存に即してみられよ!...来た、キタ~ッ!
ああ、もう!...どちらの無駄ごとも...そんなヒマは無い!...神、霊なるものの現臨の前では!
考える私が居て、スピリチュアルな世界があるのではありません!
我々一人一人がスピリチュアルな生きものそのものなのです!
万物の霊長、霊の止まるもの、霊止(ひと)なのです!
そもそも我々の精神というものは?...(英和辞典を引くべし!...)
人間性の復興ということが盛んに言われておりますが、それが見失われたのは、本来のスピリチュアリティが見失われたから、と言っても過言ではないでしょう。
私はその復権を願わずにおれません!
それは、神の顕現への願いと一つのものなのです。


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スピ界は無駄だらけ!

2023-01-16 10:06:57 | スピリチュアル?
度々書いているように、私は常々スピリチュアルなことは、極めて現実的なことであると思っています。
否、多くの人が現実と思っているものは、まんま思われた現実に過ぎないのではないでしょうか?
その諸々の思考マインドで覆われた世界を切り開くものこそは、スピリチュアル、霊なるものではないのか!
然るに、何とスピリチュアルと呼ばれている世界には、空想、妄想、幻想で溢れかえっていることか!
この世界には、その思考の支配する世界に対して、開かれたものと、閉じられたものとがあることを知っておく必要があります。
現状では大多数は後者のイメージで語られているのでしょうが、そのいずれに我々の精神が導かれるかを巡り、そこには天と地ほどの開きがあると言わねばならないでしょう。
だから、同じスピリチュアルという呼称を用いるのは、憚るものを感じてなりません。
後者で取り沙汰されることは、霊界、幽界、アストラル界、エーテル界、過去世、輪廻転生...ほとんどは誰かが言っている通説の受け売り、追従に過ぎません。
追従者、即ち信者の実存的現実からはかけ離れた空想観念ばかりが、大手を振って語られているのです。
何ら実証されてもおらず、自分で確証など持ち得ないことであるにも関わらず、その多くが断定口調で語られる...空想、妄想が事実であるかのように、脳に植え付けられる...自分が妄信するのは勝手でしょうが、始末に負えないことには、対外的に拡散せずにおれない衝動に駆られ、空想世界の住人が後を絶たなくなる...
種々の異界を通らないと、悟りに至らないと通説に追従し、あるいは体中のすべてのチャクラ(霊的なチャクラもあるらしい)を開かなければそうならないと、ヨガ行者(チャクラ云々は、彼らの間に伝わる通説)でもないのに囚われる...(もしかしたら、そういう事実もあるかもしれないが、そういう事例を私は寡聞にしてほとんど聞きません)確証も無いのに、いつたどり着けるかもしれない修行をし続けなければならないとは!...全くご苦労さんなことではないか?!
このような空想、妄想に囚われることは、実に無駄なことばかりではないでしょうか?
現存しないことを思い描き、膨らませ続ける...多いなる無駄と言う他ありません。
回り道、迷い道、”よこさ”の道を歩むために諸々のことが考え出されているようではないか?
それは神ではなく、誰かが言ってる、書いてるだけのことなのです!...神ならぬ思凝りなのです!
精神的覚醒、悟りなどについても空想ごとで語られる始末です。
それはまったく持って、かかる睡眠状態から目を覚ますこと以外の何ものでもないではないのか!
それは、ありのままの自分を受け入れることからしか始まってこないでしょう。
その時こそ、スピリチュアルなことは、実に現実にあることに目覚める...かもしれない?
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