人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

この感じ

2023-10-23 09:18:01 | 現臨、ハタラキ
この夏の猛暑は本当に堪えました。
それで体力が弱くなった上にコロナにも感染して!...
その後遺症なのか、倦怠感、脱力感が予想以上に長く続き、一月ほどかかりましたが、これが一番堪えたかもしれません。
精神的にも、いつもあの幸福に導かれる感じになれる訳にもゆかず、気が滅入ったりすることもしばしばありました。
そうです。修行が足りないのか(元々してない?)、その感じが定着している訳ではないのです。
しかしねえ...祈っていれば、神に意識を向ければ、いつの間にか現臨感というか、あの感じが開かれる、といつも言っていますが、これはもう本当に、テキメンにそうなる!、っていうようなことに昨日改めて実感させられた次第なのです。
どうも、この感じに与るのを当たり前のように感じていると、祈りが抜けちゃうようです。
いや、自分のことばかりじゃないですよ!..自他を一つに祈るということを前回書いたばかりなのでした。
神的なものが臨む...この感じ!...これは神が居るとか、居ないとかということなど問題にならず、そういう形而上的な実体を想定する必要も無いことなのです。
ということは、神の実在を信じたとしても、この感じに与れないかもしれないのです。
感じないものは本当には認識出来ません。これは抽象的概念を観念的に認識することとは全く違うことを言っています。
頭だけの認識は感じることが出来ない!、それは客観的には勿論、主観的にも本当に有るのかどうか分かりません。この感じに基づいてある概念が生まれることはあったとしても!...
私は今ここで感覚という言葉を使っていません。この言葉自体はひじょうに的を射たものを”感じ”させますが、熱いとか冷たいなどの肉体感覚と多く結びつけられていますね。
だけど、私なんかが”感じる”には、日常生活の根本にあって、我々の生活に影響を与えているのは、曰く言い難いこの感じだと思いますよ!(今日書いているこの文章にもどれだけこの”感じ”が多発していることか?)
しかし、この肉体感覚と区別さるべき、この根本的感覚を言い表す、特に通用される言葉が無いというのは、全くどうかしてると言わざるを得ません!
この感じは、精神的な道を歩んでいる人なら皆分かるでしょう?
精神的なこと、ことに霊的なことというのは、この感じを通さなければ分からないのだから!
然るに、その界隈には精神的な観念、霊的な観念、神の観念などで何と溢れかえっていることだろうか?!
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悟りの道、神の道

2023-10-21 09:36:44 | 
私は、悟りとか覚醒というものをあまり意識しないようになりました。
もっばら、神との一体化、神の道という方に向けられています。
その大きな理由は、悟りというものは、得てして一個なる自分のみに意識が向けられ勝ちになるからです。
自分だけがそのような超越的な境地に達すればいいのだ、と!
この場合の超越という言い方は、”他のものを超えた、上をゆく、進む”というニュアンスのものですが、実に自我心をくすぐられるものですね。
だけど、本来悟り、覚醒というのは、そういう自我、エゴマインドを”超えた”境地のことを指しているのですよ!
この場合の超越は言うまでもなく、、思いを超える、そういう自分を超えるということです。
つまり、思い、為そうとする自分を超えることなく、その上で他を超えた、より高次元に進化した自分を追い求めるような心の在り方は、本来の悟りとはほど遠い、自我が肥大化した心根の表れということを知らねばならないのです。
しかしながら宗教、スピ界隈には、こうした勘違いした思念が付き纏っているのを感じずにおれません。
だからですよ!...私の生来からの自我心を超えせしめるもの、それは思いを超えたもの、神しかない!...これはキリストと言っても、阿弥陀如来でも、素戔嗚尊でもいい、要するに神的なもののことです。
神に意識がある時、一個の私は超えられる...ということは、それは自他を超えているということであり、私だけ幸福に与ってればいい、という思いからも自由で居られるということです。
世界平和とか世界人類というと、一寸抽象的で捉えにくいですが、神に思いを向けていると、自分のみならず、皆(すべての私と言ったらピッタリ来るだろうか?)が平安であることを願うという心持ちに自然とさせられてしまうのです。(これが私の”世界平和の祈り”?)
平安であるとは、神的なものと共にある意識状態のことです。
悟りの道というものは、本来性から離れて一個に結びつけられやすいものです。
神の道は、一個を超えた普遍に通じているのです。私には神という一語の中に自他を一つにした普遍的なものが内包されているのです。(私には宗教思想によって異なる神というものは存在しません!)
本当は、そういう二つの道がある訳じゃなく、神の道が一つあるだけなんでしょうけど...
神無くして、我々は悟りようが無いのだから!...
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三位一体の円相

2023-10-19 09:48:22 | スピリチュアル
いつも言うように、悟りとか覚醒というものは思い、為そうとする自分からは中々道がつくものではありません。
思いを超えた世界には、思いを超えたもの~神的なものに導かれる必要があります。
だから、悟りの道とかいうよりも、神の道と言った方が私にはピンと来ます。
だからだから、神に意識を向けたらいいのです。
え?、神といっても捉え所が無い?...どの宗教の、どの神にか分からない?
んなもん、あなた自身に直接感じられる神に決まってるでしょ!
神が分からなかったら、自分自身に意識を向けたらいいんです。余計捉え所が無い?
考えている自分が考えている自分を多分、意識することは出来ないでしょう。自分を考えているだけだ(笑)
だから、これは端緒として思いからでもいいから、(何らかの信仰を持っていたら、信奉している神でいいから)それと向き合うつもりで神に思いを向けたらいいのです。(これは、ほとんど意識的になることと言ってもいいでしょう)
そうすると、いつの間にか思いから離れるようになります。私はかく思っている私ではない、それを超えたものだということに気付く...これが自分自身に意識が向けられても同じことになるでしょう。
つまり私と神は相即している...一如のものだ、ということが分かるのです。
この意識を向けるということなのですが、神にでも自分自身にでも、そうしようとしなくても、自ずと向いてしまうということがあるのです。惹きつけられると言ってもいい。
そう働きかけるもの、ハタラキがある!
ハタラキそのものは、いきなりは意識出来ません。神に、私に意識が向けられた、そのことに意識が向く、向けられるのです。
つまり、神、私、ハタラキは切り離すことが出来ない!...三位一体。これは如何なる宗教的な、精神的な道にも通底しているものではないでしょうか?
ただ、これまではあまり直接神の道とつながるものでなかった(意識されてこなかった)ようです。抽象的に(三つの位格は何であれ)三位一体の教理を信じてたってしょうがありません。
自己実存を欠いたら具体的なもの、生きたものにならないですよ!
そこに、信じ仰ぐのでない、実存的な神が顕わになる!
そういうハタラキがある...これが生きたものたらしめているのです。
三位一体...それは図説すれば三角になるのかも分からないですが、そのように静的に眺められるようなものでは言い表すことは出来ないでしょう。
それは、時にはその三相が円相となって動的に渦巻き状の如く転じ、展開しているのが感じられます。三は一つの円に...
私が意識的になると、それが内奥に息づいているのを、あるいは私のすべてがそれに包み込まれているのを感じずにおれません。
私のすべて...それはあらゆる精神的な道に普遍的に働いているのでしょう!...

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手段と目的を超えて

2023-10-17 10:07:01 | 求道、探究
精神的な道には、人それぞれの目的というものがあります。
大体その先に見据えられていることは、悟りを得るとか、真理の究明とか...その手段として信仰を深めるとか、相応の修行に携わったりする訳ですね。
しかし、長いことし続けている内に、マンネリ化して、その道が深まっているのかどうか分からなくなって来たりするものです。
要するに、信仰のための信仰、修行のための修行に明け暮れるようになってしまうのです。
これは、意識的になっていないということを端的に表していると言えるでしょう。
意識が散漫になっている、集中されていない...いや集中するのが難しいからそうなってしまうのか?
私には自分の意念によって意識を集中することなど出来ません。最初からサジを投げざるを得ない...だってそういうことには意識が向きませんもの!(は?!)
意識を自分で集中するのでなく、意識が自ずと集まるものに意識が向けられるのです。意識の中心に自然に集まってくる...これでマンネリ化などする訳ありません。
これは神的なものを意識しているということです。意識がある中心に向けられるとは、そのように惹かれてやまないものがある、と言い換えることも出来ます。
つまり“神と共にある“とはそういうことなのです。
いや、精神的な道の目的として、神と一つになることを掲げている向きもあるでしょう?
私はねえ、もう達しちゃったのです!...いや、これはそういうことを言ってるんではなくて!...私がそうなったかどうかなど知らん!...神との一体化ということに意識が向けられているのは確かなことではあります。では、その神に思いを向けるとかいうのは、そのための手段なのか?
いやあ、それはどうかな?...少なくとも、その手段としての信仰だとか修行というものはあまり意識されてません。
自ずと催してくるものに任せるということは、こちら側の目的とか手段とかを意識する必要が無いということなのです。
このことは、安心立命、悟り、真理の究明...そういうものとも関わることなのかもしれません。
だけどそれらのことは、この“神と共にあること”から外れたら、そもそもの目的意識を失うことになるでしょう!
何故ならば、それから離れてそういうものはあり得ないだろうから!...
例えば、悟るとは思考を無くして空になることを考えたりします。それだけだったら、そんなのただの腑抜けになるってだけのことでしょう。
真理の究明?...観念世界に遊離した真理など何になるか?
このものを抜きにしたら、すべて意識の中心から浮いてしまうのです!...浮いてしまうかマンネリ化してしまう!
悟りや真理を求めている者は、誰しもが安心、幸福というものを求めているのでしょう。これは、どっかで意識付けられているはずです。
ところが、それをもたらすもの、根源となるものについては案外意識付けられてないようなのです。
いや、その目的を目指すことを思い立った時には、意識が向けられていたのではないか?
そこに安らぎがあるということが心の内奥に過っていたはずです。
そして、そこから手段に携わる段階で、その原初的意識から為そうとする思いに取り込まれ、変質してしまう際が生まれるのではないでしょうか?
いつもシツコク言っている“意識的になる”とは、だから神的なものに意識を向けるということなのです。
これは、具体的手段としては、祈ること、形を超えた瞑想に携わることを挙げてもいいでしょう。
しかしながら、形を超えているってことは、手段や目的を超えているってことでもあります。
何しろ、あちらの主導に任せるということなのだから!...
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そんなことは知らない!

2023-10-15 09:31:31 | 雑感
”私はねえ、こうしてブログ書いている時、思考から離れているんですよ!、何も思わなくても自然とインスピレーションが湧いてきて、スラスラと書けちゃうんですよ!、出来ちゃうんですよ!、そう私は出来るんです!”...

な~んてこと、書いた途端に多分、出来なくなりますよ!...元より出来ないのです!
”出来る!”って自分の能力を誇示したりする人ってのは、鼻摘まみたくなるよなクサイ人でしょ!
一寸前、職場で激しく口論してしまったのですが、相手は「お前、仕事出来るんか?、何年やってるんだ!」と詰め寄ってきました。イヤですねえ!、職人気質の野郎ども特有の心根!
能力、キャリア、とどのつまり力の誇示!...この先にあるのは暴力の行使しかないですよ!
私は10年ばかり今の仕事してますが、そこで、「(仕事出来るかどうかは)知らないね!」と答えました。
失敗しないように、他の人の迷惑にならないように心掛けていますが、(職場ではあるように見せかけることはあっても)ホントに自分に能力があるかどうかは知らない、知らなくていいのです!
これは、精神的な道にあっては特に言えることでしょう。
4年ばかし前には、あるキリスト教系の集会でやはり口論(そんなにしょっちゅうはしませんよ!)になって、信仰熱心で、信者歴の長そうな相手は「あなたには福音の教えが分かってない、分かっているのですか?」みたいなことを向けて来たので、やはり「そんな、自分は分かっているとか、自己義認みたいなこと言えるか!、そんなことは知りませんね!」と答えたのでした。
私は出来る、分かっている...長年も続けていたら、人前で“出来ません、分かりません“なんて言えなくなるのでしょう?
しかしそれは、出来ること、分かること、正しいこと、進んでいることを自分に帰していることで、クサイことなのです。
自分がこうして書いていて、思いから離れているかどうかって?...そんなこた、知らないですよ!(思うんならそうじゃないんでしょ?)
我を忘れるというのは、そういうことじゃないですか?
要するに、思い、為そうとする自分じゃなく、自分を超えたものにあってそうなるってことに尽きるのです。この私の知ったことじゃないでしょう?
私には分かっているのです(え?)。私が人一倍自意識が、自我心が強いことを!
だけど、どうしてもそういう心根にある時、いつも内心は恐れ、不安といった思いが拭えないのです。自分に帰している力は本当は無力で価値が無い、否その自分がそういうものじゃないか?、という思いが!...これ、自分自身のことが本当は分かっていないということに他なりません。
しかししかし、このブログを書き続けている内に、そう、意識を神的なものに向けるということが身についたら、何とらく~に、自由になることが出来たではないか!
出来た?...だからそうじゃない、そうさせられた次第なのです。
ドイツ人ならともかく、日本には昔から自分をあまり表に出さない、力を誇示したりしない謙譲の美徳というものがあります。(分かるか?、そこのオッサン!)
しかし、このことは社会規範、道徳として語られるのみでは、実存的意味を見い出すことは出来ないでしょう。
あなたはいつも何かと戦っていたい心持ちでいたいのか?
それとも愛、安らぎを求めているのか?
あなたの移ろい、揺れ動く思いでなく、あなたの本心、あなたの神に尋ねてみて下さい!...
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