この夏の猛暑は本当に堪えました。
それで体力が弱くなった上にコロナにも感染して!...
その後遺症なのか、倦怠感、脱力感が予想以上に長く続き、一月ほどかかりましたが、これが一番堪えたかもしれません。
精神的にも、いつもあの幸福に導かれる感じになれる訳にもゆかず、気が滅入ったりすることもしばしばありました。
そうです。修行が足りないのか(元々してない?)、その感じが定着している訳ではないのです。
しかしねえ...祈っていれば、神に意識を向ければ、いつの間にか現臨感というか、あの感じが開かれる、といつも言っていますが、これはもう本当に、テキメンにそうなる!、っていうようなことに昨日改めて実感させられた次第なのです。
どうも、この感じに与るのを当たり前のように感じていると、祈りが抜けちゃうようです。
いや、自分のことばかりじゃないですよ!..自他を一つに祈るということを前回書いたばかりなのでした。
神的なものが臨む...この感じ!...これは神が居るとか、居ないとかということなど問題にならず、そういう形而上的な実体を想定する必要も無いことなのです。
ということは、神の実在を信じたとしても、この感じに与れないかもしれないのです。
感じないものは本当には認識出来ません。これは抽象的概念を観念的に認識することとは全く違うことを言っています。
頭だけの認識は感じることが出来ない!、それは客観的には勿論、主観的にも本当に有るのかどうか分かりません。この感じに基づいてある概念が生まれることはあったとしても!...
私は今ここで感覚という言葉を使っていません。この言葉自体はひじょうに的を射たものを”感じ”させますが、熱いとか冷たいなどの肉体感覚と多く結びつけられていますね。
だけど、私なんかが”感じる”には、日常生活の根本にあって、我々の生活に影響を与えているのは、曰く言い難いこの感じだと思いますよ!(今日書いているこの文章にもどれだけこの”感じ”が多発していることか?)
しかし、この肉体感覚と区別さるべき、この根本的感覚を言い表す、特に通用される言葉が無いというのは、全くどうかしてると言わざるを得ません!
この感じは、精神的な道を歩んでいる人なら皆分かるでしょう?
精神的なこと、ことに霊的なことというのは、この感じを通さなければ分からないのだから!
然るに、その界隈には精神的な観念、霊的な観念、神の観念などで何と溢れかえっていることだろうか?!
それで体力が弱くなった上にコロナにも感染して!...
その後遺症なのか、倦怠感、脱力感が予想以上に長く続き、一月ほどかかりましたが、これが一番堪えたかもしれません。
精神的にも、いつもあの幸福に導かれる感じになれる訳にもゆかず、気が滅入ったりすることもしばしばありました。
そうです。修行が足りないのか(元々してない?)、その感じが定着している訳ではないのです。
しかしねえ...祈っていれば、神に意識を向ければ、いつの間にか現臨感というか、あの感じが開かれる、といつも言っていますが、これはもう本当に、テキメンにそうなる!、っていうようなことに昨日改めて実感させられた次第なのです。
どうも、この感じに与るのを当たり前のように感じていると、祈りが抜けちゃうようです。
いや、自分のことばかりじゃないですよ!..自他を一つに祈るということを前回書いたばかりなのでした。
神的なものが臨む...この感じ!...これは神が居るとか、居ないとかということなど問題にならず、そういう形而上的な実体を想定する必要も無いことなのです。
ということは、神の実在を信じたとしても、この感じに与れないかもしれないのです。
感じないものは本当には認識出来ません。これは抽象的概念を観念的に認識することとは全く違うことを言っています。
頭だけの認識は感じることが出来ない!、それは客観的には勿論、主観的にも本当に有るのかどうか分かりません。この感じに基づいてある概念が生まれることはあったとしても!...
私は今ここで感覚という言葉を使っていません。この言葉自体はひじょうに的を射たものを”感じ”させますが、熱いとか冷たいなどの肉体感覚と多く結びつけられていますね。
だけど、私なんかが”感じる”には、日常生活の根本にあって、我々の生活に影響を与えているのは、曰く言い難いこの感じだと思いますよ!(今日書いているこの文章にもどれだけこの”感じ”が多発していることか?)
しかし、この肉体感覚と区別さるべき、この根本的感覚を言い表す、特に通用される言葉が無いというのは、全くどうかしてると言わざるを得ません!
この感じは、精神的な道を歩んでいる人なら皆分かるでしょう?
精神的なこと、ことに霊的なことというのは、この感じを通さなければ分からないのだから!
然るに、その界隈には精神的な観念、霊的な観念、神の観念などで何と溢れかえっていることだろうか?!