人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我を忘れて...

2023-10-14 09:43:04 | スピリチュアル
気がつけば、ブログを始めて九年少し経ってしまいました。
当然のことながら、毎回どんなことを書こうか考えていますよ。
だけど、ことに精神的な道について書いていることには、何と多くそうした考えている私を忘れさせられたことでしょう!
私は、内に息づいているもの、閃いたものを他に向けて表すことに駆り立てられる...考えている私を超えて駆り立てるものがある...それはこの私からは出て来ないということです。
それは多く神的な現臨に意識が向かう、向かわせられたことによるのです。
意識が現臨にあるということは、思考から離れていること...現実にそれに与っているということであり、その表されたものは、既存の観念、世の通念からは(その表現を借りることはあっても)表れ出ないものなのです。
絵画は、真っ白なキャンパスの上に描かれるもの...
私は芸術家ではないけれど、このことは芸術の道とも相通ずるものがあるでしょう。
「芸術家が創作に没頭するとき、彼らは自分を忘れ、自分を捨て去ってしまう...芸術家の創造活動は、彼らが自己を超越し、有限なる人間存在の枠を飛び越すことを要求する」
(ベルジャーエフ「人間の運命」)
この言葉は、ベルジャーエフ自身の哲学的創造活動に重ねられたものに相異ないでしょう。彼の”創造論”は、人間の能動性とよく結び付けられていますが、もはや能動も受動も超えられている...深い意味で超越的なものを感じずにおれません。
真に自己の内奥に息づくものを表すことは、自己を忘れるということである。...
「仏道をならうことは、自己をならうこと、自己をならうことは自己を忘れることである」
(道元)
このことは、表層的には私がしばしば触れている、”自己を意識すること“と矛盾していると思われるでしょうが、現実に考えている自分のことなど意識出来るでしょうか?
意識するということは、思考から離れていることに他ならないのだから!...
本当に(本当の)自分を意識することは、この自分を超えたものに意識が向かう、向かわざるを得ないということを意味しているのです。
自己実存というものは、それと切り離すことが出来ない...自己とそのものは創造において一つとなる...

気が付けば、あの意識を持って行かれそうな猛暑も過ぎ、我々に芸術の、思索の創造活動へと駆り立てる秋が訪れました。
そこに真実にあるものは、自己、それが向かう対象も超えた、”超越的創造”のみなのでしょう。
すべての我々の創造の時を迎えたのです。
それにしても、何故その時の訪れを秋と言うのだろう?...

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自分を愛し、受け入れること

2023-10-12 10:00:15 | 求道、探究
自分を愛し、受け入れることが出来ない人間は、他者も、思いを超えた、神的なものも愛し、受け入れることが出来ないでしょう。
この場合の自己愛なるものは、“自己中“的な自己愛とは全く異なるものです。
ただ、“私は在る“、という私そのものを愛し、受け入れることと違って、後者のそれは、例えば自分が如何に高く、優れたものであるかを誇示し、他者から承認してもらいたいという欲求の表れという場合が多いのです。
しかし、それは内心では、自分は業が深く、悪い、劣った人間だと感じていることの裏返しであって、本当には自分を愛しておらず、むしろ自己嫌悪の状態になっていたりするのです。
こういう人は容易く、自分より高きに達していると信じる他者に迎合し、それに権威を与え、隷従してしまうのです。
何が自分にとって真実か、という問題に突き当たっても、従属意識が強く、自分自身で内省することが出来ません。権威に対して疑念を向けることすら出来ないのです。
彼が信じる神というものは、当然のことながらその絶対権威から来るものであり、自己の内奥に息づき、照らされるものではありません。自己実存と切り離されない現存する神では無いということです。
彼はこのように自己否定の思いに囚われていて、自分自身の現実を、この現実世界を受け入れることが出来ません。
物質偏重の、相克の絶えない不調和な世界は、やがて崩壊するであろうことを信じていて、その後に開かれるであろう、霊的な、調和に満ちた理想世界を思い描いているのです。つまりこの現実世界は否定されているのです。
しかし(そう思いたい気持ちも分かるが)、自分の人生で幸福に与ったということは無かったのでしょうか?...もし、至福の体験というものがあったとしたら、それは正にこの現実世界において与ったのであり、この世に生を享けたことに依るのではないでしょうか?
それを否定することは、その導き主である神を否定することに等しいと言わねばなりません。
この世で幸福を与れない、認められない人間は、多分あの世でも、未来世界でもないでしょう!
それは現実、現存を受け入れられない、ということに尽きるのです。
神的なもの、神も本当には、信じ、受け入れられていない...だから、容易くサタンや闇の勢力など真偽の分からない存在を信じ込んでしまうのです。(私には、自分を愛し、神を愛することを強調している教師を信奉しながら、このような心的状態になってしまう人間が居るということが全く分からないのです)
自分を本当に愛し、受け入れられずに、どうして自分が救われ、目覚め、幸福に与ることが出来るでしょうか?
いいや、言い方を変えねばならないでしょう!
自分を本当に愛し、受け入れることこそが、救われであり、目覚め、神と一つになることなのであり、この現実世界に調和をもたらすことにつながることなのではないか?!
これは、全く最初にして最後のことと言っていいでしょう!...
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勇者の道

2023-10-10 08:43:19 | 独語
“真理、救われの道は既に与えられている...
先生が説き、団体が定めた教えを信じ、従えばいい!
自分の感じたこと、考えをそれに差し挟むことなく!
疑うことなく!
その上に乗っかってさえいればいい!...“

何だと!
コイツら、一人一人の顔というものを持っているのか!
誰が生きているんだ!、一体誰の人生だというんだ!
彼らはすっかり去勢されてしまっている...
お前たちの“タマ“は一体どこにあるんだ!
羊の群れ、ゾンビ集団ども!
彼らに恩寵の光が差すことも
覚醒の門が開かれることも永久に無い!
こんな受動的な、女の腐ったような精神には!
真理の道は狭き門を通らねばならない!
その向こうには道無き道が続いている...
誰も歩いたことの無い未踏の地...
どんな色にも染まっていない!
そこへ行ける者は己一人のみ!
真の雄々しい勇者のみに許されているのだ!...

(受動的な道で満足してるヤツが読んだらさぞかし、“ひっくり返る“だろう!)





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能動性と受動性

2023-10-09 10:06:16 | 意識、照明
私がシツコイほど言っている、”○○に意識を向ける”、という表現は、どうも能動的に意思想念に働きかけることを連想されがちなので、不適当なようにも思えるのです。
これは、思い、為そうとする心的在り方からすれば、それを退けること、否退かしめるものにゆだねること、つまり受動的なことを言い表しているのです。
このことに関連して、ベルジャーエフは、著書「人間の運命」の中で、その哲学の根幹である「創造」と結び付けられる、能動的精神を高調する観点から、「現象学」で有名な哲学者、フッサールの受動的精神の在り方を批判していました。
実はフッサールの哲学は、私には難しく、読んでないのでよく分からないのですが、その該当部分の言葉、「我々がある対象を認識するためには、すべて人間的なものを断念し、全く受動的になって対象が我々に語りかけるのを待たなければならない」とあるのは、私にはとても肯けるものを感じ、ベルジャーエフの批判理由がよく分からないのです。
例えば、神を意識するということは、それが人間的なものの放棄かどうかはさて置き、先のように思念、意念が後退することを意味し、それと同時に思いを超えたハタラキに捉えられるようになるのです。
そして、ベルジャーエフの言う、創造的、能動的精神というものが、果たしてそれが思いを超えた世界の消息を伝えるものなのか、ということが曖昧に感じられるということなのです。
しかし私には、それはあまり本質的なこととは思っていません。
これは取りも直さず、ベルジャーエフの生きた時代(20世紀前半から中葉)には、まだ意識というものの究明が十分になされていなかったことに要因があるのでしょう。
ベルジャーエフは、随所で精神が霊なるものに開かれ、交わることを強調しています。否、我々の精神(SPIRIT)そのものが、その根底で霊性とつながっているとも。
これが思いを超えた世界の消息を物語っていると言えるのです。
それは同書で彼が「我々は、真の精神的勝利を”超意識“の領域ー則ち意識にあらず、まさに霊の領域において戦い取らなければならない」と明言しているところにも伺うことが出来ますが、同時にそれは、先の意思想念と意識の区別の曖昧さ、又彼の旺盛なる能動的精神の表れも見て取れるものです。
思考を超えた、所謂“純粋意識“の領域とは、ここでは超意識の領域とされているのです。
では、この純粋、超意識なるものとは能動性、受動性に分けて説明出来るものなのでしょうか?
私は、こういう分節的な表し方自体が不適当だと思います。
純粋意識は、自他は勿論、あらゆる相対性を超越したものだから!
精神の能動性、受動性といったことは、思い、為す自己からの観点に当てはまるものでしょう。
意志の後退、受動性とは、意識の能動的ハタラキを呼び覚ますことにつながりますが、意識そのものには、能動性も受動性もなく、それは自ずから在るものなのです。
この状態、霊性とつながることを目指す我々には、能動的精神も受動的精神もあるでしょう。
それは男性性と女性性に置き換えることも出来るかもしれません。
一人の人間は、勿論その両性を合わせ持つものでしょうが、どちらかに傾くことも勿論あります。
私は霊性により近いものは、女性的な受動的精神の方だと感じている点で、能動的精神をより強調するベルジャーエフとは異なっていますが、霊性に目覚めることを指向する精神には全く同調するものを感じているのは言うまでもありません。


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真の神人合一

2023-10-08 09:27:11 | 
私にはもう、神は信仰の対象では無くなってしまいました。
神(何度も言っているように、それは実体論的には分からないが、思いを超えたものを象徴して表しているのです)無しには、私の実存の根拠を見い出すことは出来ません。又神は、私の実存を通して顕わになり現存、現臨するのでしょう。
これは、ベルジャーエフがその哲学の根幹である、”神人論”として、随所に語っていたことです。
又、ラマナ.マハルシの教えは、つねに神は真我と結びつけられていました。
わが国の神道でも、”神は本、人は末”、”神あっての人、人あっての神”と説かれてきました。
こうした教説というものは、当然のことながら、自己の実存に照らされなければ何の意味もありません。
実存に照らされる?!...そう、照らされるものがあるのです!
これこそは、自己実存はそれのみで在るのではなく、それを超えたものと結びついて在ることを端的に物語っていると言えるのではないか?!
多くの精神的な道では、我々が神と一つになることを目指しています。神人合一の道という。
しかし、これまではそのほとんどが、我々からのその道標、道程が示されるばかりだったと言えるのではないでしょうか?
然るべき信仰や方法論などが提示されるものの、現実には果たしてその境地に開かれ、達した例はどれだけあったでしょうか?
私には、全くの片手落ちがあるようにしか思えないのです。
求道者には、神への憧憬がある、神と一つにならんとする願いがある...しかし、そこにはもっと本源的なことが見落とされているのではあるまいか?
本源的とは、我々のそうした心持ちに先立つものがあるという意味です。
それは、神の方が我々と一つにならんと願って(願いという人間臭い言葉が適当かどうかは分からないが...)いるのではないかということです。
それあってのこちらの神への憧憬なのではないか?...そう呼び覚まされるものがあるのです。
この”本願”に合わずして、神人合一などそもあり得ないのではあるまいか?!
本願に合(会)うということは、こちらからは祈りを通してということになるでしょう。こういう消息を伝えたわが国の親鸞さんは実に素晴らしい!
しかし、それも宗門の壁を越えられず、形骸化に至ってしまったようです。
どこまでも、それは我々一人の実存、神的な現存の光に照らされなければ、生きたものにはならないのです。
真にそこで人は神と合(会)う、一つとなる...
もう一方の、本源的神からの道と合わさって、真の神人合一の道が開かれるのでしょう!...
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