からくり出張所

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「市は高橋」のその後

2010年10月05日 11時04分55秒 | ぶらり旅

生まれ故郷の佐賀県武雄市朝日町 「高橋」の町の話です。撮ってきた写真で気になるものを掘り下げてみました。そろそろ年寄りの繰り言になった感もありますので興味ない方はスキップしてください。

9月中旬、身内の見舞いかたがた小学校の同期会に九州へ行ってきました。生まれ故郷の同期会に出るのはこれが初めてです。卒業50周年という節目のなせる業かも知れませんが、中学か高校出て以来初めて合う顔も多数いました。話しているうちに小父さん小母さんの顔が当時の顔になってしまうから不思議なものです。幹事始め出席の皆さんありがとうございました。メールするといってまだ何もしていない私です。(ペコリ)

ところで同期会の会場は昔からの割烹の野田屋でした。この後方にある高橋の産土(うぶすな)神である高橋天満宮に3年ぶりに参拝したのですが、私にとっては貴重な大正末期の高橋の町並みがパネルとなって掲げてありました。いまや消え去ってしまった物流の町の往時の姿です。平成21年朝日町まちづくり推進会とありましたので昨年出来たのでしょう。大拍手です。

Dscn8848 これがパネルの全貌です。その昔、「市は高橋、荷は牛津・・・」と佐賀藩で唄われていた高橋の町でしたが、その衰亡は高度成長期とともに更に拍車がかかってしまい、閑散とした通りになってしまいました。昔の繁栄を取り戻すのは不可能ですが、当時の賑やかさを後世に伝えるのは地域の義務ではないかと感じていました。ところが、とうの昔に離れてしまった私には何も出来ないのが現状です。このようなパネルを発見し、たぶん江戸時代からの住民の末裔として嬉しく思った次第です。祖母から当時の繁栄と我が家を含む町の衰亡ぶりを十二分に聞かされていたから尚更です。

 「水運による物流を鐵道に奪われて以来、衰亡する町の立て直しとして町の物資の一括仕入れを行う朝日商事を大商人が集まり創設した。目の付け所は良かったものの時代の流れには蟷螂(とうろう)の斧だった。」 と高橋の先輩、故古川良一氏が著作に記述されていますが、祖父もその創設者の一人、その借財を背負い長年苦しんでいたようです。祖母から聞かされた話がいまでも私の心にはトラウマとして残る時代の変革期の話です。 三つ子の魂百まででありまして、この町並みを眺めていると祖母から聞いた話が朧気ながら蘇ります。 「昔は電話番号が三番だった。でも売り払った。」など子供では理解できないことでしたが、祖母としては自分の矜恃を保とうとしていたのかも知れません。 その祖母の名前と曾祖母の名前をこの境内にある聖徳太子像の台座に見つけ、懐かしく思った次第です。そんな歳になったのだとも併せて感じました。

Dscn8847 この部分が我が隣組を拡大した部分です。国指定の文化財として唯一残った古川さんの生家つね店こと桑原家と郵便局から大正橋までが町内でした。問屋の町だったようです。この桑原家のような家屋が大正橋まで並んでいたのですが、いまや空き地と新住宅です。うちの本家も空き地のままでした。昔からの住人は殆ど残っていないのではないでしょうか? 郵便局だけ?? 同じ町内に呉服屋が四軒、よく成り立ったものです。ちなみに本家は砂糖屋でこの時代は乾物屋ビール等々を扱っていたのではないかと思われます。ちなみに隣の川沿いの家は塩屋と呼んでいました。この川には螢が飛んでいましたが・・・

この地図でちと問題は、水害対策で流れを直線にした川と川沿いの道が書き込まれていることです。これは修正し、この川の上にあったはずの町並みを書き足して欲しいものです。近代の地形が入り込むと変な勘違いが出てくると思います。 あと、くだんの朝日商事が小学校近くに書かれていますが、老父の記憶によるとこの写真の鋳掛け屋の数軒先にあったようです。祖父に弁当を届けていたと云っておりました。

そうそう、長崎街道の表示も追記して欲しいと思いました。大正橋はその名の通り大正時代にかけられたものです。街道は時計屋豆腐屋とある佐賀からの道が火除け地蔵前で右折してこの町を北上していたのです。世代毎に記憶にある町並みを整理するとこの町のリアルな歴史があぶり出されそうです。

Dc0531061992年頃の町並みです。これしか持っていないので使い回しています。(汗) 砂糖屋が左端に写っています。二本目の電柱のそばが桑原家あたりです。法事の旅で撮った写真が役立つとは思っても見ませんでした。

Dc053102

ついでですが、これも使い回し、狭くなった高橋川を石造りの榎津橋から見たものです。前の橋が大正橋です。そしてその向こうが塩屋、パネルではトーフ、米となっている店です。みんな壊してなくなってしまいました。その側に火除け地蔵です。ガードレールの通りが長崎街道です。その後この川は更に狭くなり水運の町の名残を示すものは新堀津を含めて失われてしまいました。

この町並み地図を見て驚いたのは魚市場が二箇所あり、その周囲が魚屋だらけであること、有明海につながる港の新堀には船職員や船仲仕の家が並んでいたことです。町の歴史を知るのに大変いい資料でした。 少なくとも小学校時代には殆ど教わらなかったことがこの中に集約されており感動しました。昭和29年の市町村合併で町そのものを残すエネルギーを失ってしまい語られることのなくなった歴史を掘り起こした力作だと思います。 古老のいるうちにもっと掘り起こしておけば良かったかも知れません。上述の古川さんが存命でしたら喜んだことでしょう。

と思いつくままに書きなぐりました。パネル一枚から色々呼び起こされたので有意義な展示だと思います。

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2019-05-05 21:35:44
ご覧いただきありがとうございます。
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Unknown (おこめーじ)
2019-04-25 17:24:53
こんにちは。
私もこの町出身です。家庭の事情で中学のときに引っ越してしまいましたが・・。
身バレしそうなので詳細は書けませんが朝日保育園のすぐそばに住んでいました。
Googleマップで見るとかなり町並みも変わってしまいましたね。5年ほど前に、里帰りしたときに天満宮の写真を撮りました。聖徳太子、懐かしいですね。昔はここで子供達が(私を含め)野球をしたり、コマ回しをして土俵に穴をあけて大人に怒られたりしました。
とても懐かしいです。ありがとうございます。
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