第四部定理五五および第四部定理五六は,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaと第三部諸感情の定義二九の自卑abjectioが,反対感情ではあるけれどもよく似ているということを示しています。しかし第四部定理五六備考によれば,自卑は高慢よりも容易に抑制され得るとされています。逆にいえば高慢という感情affectusは自卑という感情ほどには抑制されにくいということです。これはその他の条件が同一であると仮定すれば,高慢の方が自卑よりも感情として強力であるということを意味します。
なぜ高慢の方が自卑よりも強力であるといえるのかは,各々の感情の定義から明白なのです。すなわち高慢とは喜びlaetitiaの一種であり,自卑は悲しみtristitiaの一種です。このことが高慢は自卑より強力であることの理由です。つまり一般的にいえば,喜びという感情は悲しみという感情よりも強力なのです。それを示しているのが第四部定理一八です。
「喜びから生ずる欲望は,その他の事情が等しければ,悲しみから生ずる欲望よりも強力である」。
この定理は,喜びと悲しみのどちらが強力であるかが比較されているというより,それらの感情から生じる欲望cupiditasではいずれが強力であるかが比較されています。ですが欲望というのは第三部諸感情の定義一から分かるように,受動的である限りにおいて人間の現実的本性actualis essentiaそのものです。ですから与えられた喜びないしは悲しみのどちらが強力であるかを比べるより,与えられた喜びおよび悲しみによってどの程度まで強力な欲望が自身のうちに発生するかを比べる方が,感情の強さを正しく比較する尺度となるのです。たとえばある人間を喜ばせたいという欲望と悲しませたいという欲望のどちらが強いかを比較することで,その人を愛しているか憎んでいるかがよりよく比較できるようにです。
つまり,高慢の方が自卑よりも強力な感情であるということの具体的な意味は,高慢から生じる欲望の方が,自卑から生じる欲望よりも強力であり,そうした欲望を抑制することがより困難であるということなのです。
書簡四十二では,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が提示する神Deusには支配や摂理の余地がなく,賞罰の配分が排除されていると批判されていました。僕はこのことを,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが人間的な力によって神の力を判断していたこと,いい換えれば神の力と支配者の力を混同していたことの証拠として示しました。しかし同時にこのことは,人間がほかのものより完全な存在であるとフェルトホイゼンがおそらく無意識的に前提していたことの証拠でもあると僕は考えます。なぜなら,フェルトホイゼンがここで賞罰の配分というとき,その配分を受けるのは人間だけであってほかのものではないと判断していたに違いないからです。他面からいえば,神が賞罰を配分するとすればそれは人間に対してだけであって,その意味において人間はほかのものと異なる特別の地位が与えられていると解していたに違いないからです。
この書簡を正確に解そうとするなら,フェルトホイゼンは,神が賞罰,とくに賞を配分するのはキリスト教徒に対してだけであると判断していたとしなくてはなりません。つまりキリスト教徒は異教徒より完全であるというようにフェルトホイゼンは認識していたとみるべきです。同じ段落の中で,マホメットが預言者でなかったということを証明できないし,トルコ人,というのは異教徒,とくにイスラム信者のことを意味すると思われますが,かれらがキリスト教徒と異なっているということを示せないという意味のことを述べているからです。また,スピノザもそれに対して反論しています。そこではマホメットが預言者であるということは否定され,異教徒といえども敬虔pietasである限りキリスト者なのであるという主旨のことがいわれています。
ですがこうした宗教的な文脈に関してはここでは考慮しません。というのは現在の考察の論点は,人間とほかのものとの完全性perfectioを比較することなのであって,ある人間と別の人間の完全性を比較するということではないからです。フェルトホイゼンは少なくともキリスト教徒が神の賞罰の配分を受けると思っているのであり,人間以外のものがキリスト教徒と同じように賞罰の配分を受けるとは思ってないでしょう。
なぜ高慢の方が自卑よりも強力であるといえるのかは,各々の感情の定義から明白なのです。すなわち高慢とは喜びlaetitiaの一種であり,自卑は悲しみtristitiaの一種です。このことが高慢は自卑より強力であることの理由です。つまり一般的にいえば,喜びという感情は悲しみという感情よりも強力なのです。それを示しているのが第四部定理一八です。
「喜びから生ずる欲望は,その他の事情が等しければ,悲しみから生ずる欲望よりも強力である」。
この定理は,喜びと悲しみのどちらが強力であるかが比較されているというより,それらの感情から生じる欲望cupiditasではいずれが強力であるかが比較されています。ですが欲望というのは第三部諸感情の定義一から分かるように,受動的である限りにおいて人間の現実的本性actualis essentiaそのものです。ですから与えられた喜びないしは悲しみのどちらが強力であるかを比べるより,与えられた喜びおよび悲しみによってどの程度まで強力な欲望が自身のうちに発生するかを比べる方が,感情の強さを正しく比較する尺度となるのです。たとえばある人間を喜ばせたいという欲望と悲しませたいという欲望のどちらが強いかを比較することで,その人を愛しているか憎んでいるかがよりよく比較できるようにです。
つまり,高慢の方が自卑よりも強力な感情であるということの具体的な意味は,高慢から生じる欲望の方が,自卑から生じる欲望よりも強力であり,そうした欲望を抑制することがより困難であるということなのです。
書簡四十二では,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が提示する神Deusには支配や摂理の余地がなく,賞罰の配分が排除されていると批判されていました。僕はこのことを,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが人間的な力によって神の力を判断していたこと,いい換えれば神の力と支配者の力を混同していたことの証拠として示しました。しかし同時にこのことは,人間がほかのものより完全な存在であるとフェルトホイゼンがおそらく無意識的に前提していたことの証拠でもあると僕は考えます。なぜなら,フェルトホイゼンがここで賞罰の配分というとき,その配分を受けるのは人間だけであってほかのものではないと判断していたに違いないからです。他面からいえば,神が賞罰を配分するとすればそれは人間に対してだけであって,その意味において人間はほかのものと異なる特別の地位が与えられていると解していたに違いないからです。
この書簡を正確に解そうとするなら,フェルトホイゼンは,神が賞罰,とくに賞を配分するのはキリスト教徒に対してだけであると判断していたとしなくてはなりません。つまりキリスト教徒は異教徒より完全であるというようにフェルトホイゼンは認識していたとみるべきです。同じ段落の中で,マホメットが預言者でなかったということを証明できないし,トルコ人,というのは異教徒,とくにイスラム信者のことを意味すると思われますが,かれらがキリスト教徒と異なっているということを示せないという意味のことを述べているからです。また,スピノザもそれに対して反論しています。そこではマホメットが預言者であるということは否定され,異教徒といえども敬虔pietasである限りキリスト者なのであるという主旨のことがいわれています。
ですがこうした宗教的な文脈に関してはここでは考慮しません。というのは現在の考察の論点は,人間とほかのものとの完全性perfectioを比較することなのであって,ある人間と別の人間の完全性を比較するということではないからです。フェルトホイゼンは少なくともキリスト教徒が神の賞罰の配分を受けると思っているのであり,人間以外のものがキリスト教徒と同じように賞罰の配分を受けるとは思ってないでしょう。
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