スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&フェルトホイゼンの人間観

2016-12-08 19:37:52 | 将棋
 昨日から甲府で指されていた第29期竜王戦七番勝負第六局。
 渡辺明竜王の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4△2二銀。相腰掛銀に進みました。
                                     
 後手が先攻の構えをみせて組み上がったところ。待たずに△6五歩と仕掛けました。
 ▲同歩△同銀▲同銀△同桂と進行したのですが,桂馬で取られるのを先手は軽視していたようです。
 ▲6六銀と逃げるのは仕方がないところですが後手は△5七桂成と強襲。これは▲同銀と取ると△6九角で困るということなので▲同金と取りました。おそらくこのあたりの手順が先手の想定外だったものと推測します。後手は△6五歩と追撃。
                                     
 ここで▲7七銀と逃げると△3九角から後手の攻めは切れないようです。なので▲2四桂から攻め合いにいきましたが,放置して△6六歩と取り,後手の攻め合い勝ちとなっています。したがって先手が第1図のように組んではまずいということでしょう。
 丸山九段が勝って3勝3敗。第七局は21日と22日です。

 人間の身体corpusが人間の精神mens humanaによって統御されるべきものであるというデカルトの哲学の考え方については,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは踏襲していると解してよいでしょう。ですから,フェルトホイゼンが,人間がほかのものよりも完全であるというとしたら,その場合の人間というのは人間の精神のことでなければなりません。この点ではフェルトホイゼンの人間観とフーゴー・ボクセルの人間観とは一致しているといえるでしょう。ただし,デカルトの哲学では,人間というのが精神と身体が合一unioしたものであるというのは基本的な原理で,フェルトホイゼンがそのことを否定するとは考えられません。なので純粋に人間観だけを抽出すれば,人間というのは不完全である身体と完全である精神の合一体であると解するのが適当と思います。ただしそこで完全とか不完全といわれているのはあくまでも相対的な意味です。いい換えれば精神は身体より完全であり,身体は精神より不完全であるという意味です。延長が不完全で思惟が完全であるということは,デカルトの哲学の形而上学から絶対的な意味に解してもあまり問題ないと思いますが,人間の精神が絶対的に完全なものだということは,必ずしも肯定されないと解しておくのが安全だと僕は判断します。
 一方,スピノザがすべての個体が精神animataを有するという場合には,フェルトホイゼンはそのことを肯定しないでしょう。したがって人間をほかのものと比較して完全であるという場合に,人間の精神だけがその規準となるとしても,それをほかのものの精神と比較しようという意図をフェルトホイゼンはもたなかったろうと思います。他面からいえばフェルトホイゼンは,精神を有するのが人間だけであって,それが人間がほかのものよりは完全であると認識する理由になっていたものと推測されます。この点でも,その人間観はボクセルに類似すると僕は考えます。
 書簡四十二でフェルトホイゼンが述べていた事柄のうち,今回の考察ですでに示しておいた部分が,フェルトホイゼンがおそらくは暗黙裡に,人間だけが精神を有している特別な存在であるということを前提していたことの証明にもなるだろうと僕はみています。

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