スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
10日の埼玉新聞栄冠賞を勝ったのはトーセンアレスで,この馬はアドマイヤドンの産駒でした。
母はベガ,祖母がアンティックヴァリュー。半兄にアドマイヤベガと2000年のセントライト記念を勝ったアドマイヤボスがいる良血。
2歳10月にデビュー戦の新馬を勝つと11月のオープンを連勝。さらに翌月の朝日杯フューチュリティステークスも勝ってJRA賞の最優秀2歳牡馬に選出されました。
翌年はトライアルのオープン3着を叩き台に皐月賞へ。しかしこれはノーリーズンの7着。続くダービーはタニノギムレットの6着でした。休養を挟んで夏の札幌記念は4着。秋の菊花賞は4着。ここからダートに路線変更。この年は盛岡で行われたJBCクラシックに出走し,大レース2勝目。続くジャパンカップダートはイーグルカフェの3着でした。このまま年を越し,翌年のフェブラリーステークスへ。ここはゴールドアリュールの11着と,初の大敗を喫しています。
ここで休養。主戦が藤田伸二騎手から安藤勝己騎手へとスイッチ。復帰戦となったのは9月のエルムステークスで,実に9馬身差で圧勝。続く南部杯で大レース3勝目をあげると大井でのJBCクラシックも勝ちました。ジャパンカップダートも勝ったと思ったのですが,これは写真判定でアメリカ馬の2着。この年はJRA賞の最優秀ダート馬とNARグランプリの特別表彰馬に選出されました。
翌年はフェブラリーステークスで大レース5勝目をあげてドバイワールドカップへ。しかしこれは8着。帰国して6月の帝王賞へ。これは接戦でしたがきわどく競り勝ち大レース6勝目。次の南部杯は武豊騎手で2着でした。再び安藤騎手に戻りこの年も大井開催となったJBCクラシックに参戦すると三連覇。しかしジャパンカップダートは同厩舎の馬の2着。暮れに有馬記念を使いましたがこれはゼンノロブロイの7着。この年もJRA賞では最優秀ダート馬に選出されています。
これで引退でもよかったと思うのですが,翌年も現役続行。しかし3戦して勝ち星は上げられず,引退となりました。
種牡馬としてはまだ重賞の勝ち馬は出ていません。トーセンアレスが現時点での出世頭で,この馬によって産駒の重賞制覇が達成される可能性もあるでしょう。
神Deusの無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusというのが神の思惟する絶対的な力potentiaではないということは,第一部定理三一で示されていることでもあります。
「現実的知性は,有限なものであろうと無限なものであろうと,意志・欲望・愛などと同様に,能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ」。
能産的自然というのはNatura naturansというラテン語で,所産的自然はNatura naturantaというラテン語です。スコラ哲学では前者は創造するものとしての神を意味し,後者は創造されるものとしての自然という意味であったようで,スピノザもここではその意味に準じてこのことばを用いていると考えてよいでしょう。したがってスピノザの哲学では能産的自然というのは,実在的な意味においては神と神の本性essentiaを構成する無限に多くのinfinita属性attributumのことを意味し,所産的自然というのはそれら無限に多くの属性から生じる無限に多くの様態modusであるということになります。これは第一部公理一の実在的意味と一致しています。
したがって,スコラ哲学における所産的自然ということばの意味からしても,またスピノザがこの定理Propositioにおいてそれを意志voluntasや欲望cupiditasや愛amorなどと等置しているということから考えても,知性すなわち個々の観念ideaの総体が絶対的思惟ではなく思惟の様態cogitandi modiと考えていたと理解して間違いないということになります。そしてそれはその知性が無限であっても有限finitumであっても同様であるといわれているのですから,神の無限知性といえどもそれは思惟の様態であるということになるでしょう。そもそもスピノザによるこの定理の証明Demonstratioは,知性というものは絶対的な思惟ではないということを自明の事柄としたうえで,よってそれは所産的自然でなければならないということを導くような論証となっていますから,とくにこの定理を持ち出すまでもなく,神の無限知性が思惟の様態であるということは,少なくともスピノザ自身の中では,ごく当然の事柄であったと理解できます。
なお,ここでいわれている現実的知性は可能的知性の対語という哲学的意味がありますが,スピノザの哲学においては知性は必ず現実的知性ですので,この点は現在の考察の上では考える必要はありません。
日本時間で7日の午後11時半前の発走となった凱旋門賞GⅠ芝2400mには,前哨戦のひとつであるフォワ賞を勝ったオルフェーヴルと,帯同馬のアヴェンティーノが揃って出走しました。
出走したのは18頭で,オルフェーヴルにあてがわれたのは18番枠。無難な発走から控え,後方の2,3番手を追走。ほかの陣営がペースメーカーを用意していたこともあったでしょうが,アヴェンティーノは逃げず,オルフェーヴルの2,3馬身ほど前に位置。陣営の意図がどのようなものであったか定かではありませんが,オルフェーヴルはレースで逸走したこともありましたので,そうならないようにガードする役割だったかもしれません。
最後の直線に入る前にアヴェンティーノは一杯。1頭だけ馬群の外に馬を持ち出し,最下位での入線。オルフェーヴルはアヴェンティーノ以外の馬の外に出して直線を迎えました。この時点で内では追い出してもがいているような馬もいたのに対し,オルフェーヴルは騎手がほとんど手綱を動かさないまま。僕はテレビの生中継を視ていたのですが,この時点ではことによると楽勝するのではないかと思いました。オルフェーヴルはそのまま大外を漸進していき残り300m付近で先頭に。そこから追われて後ろを離したので,これは勝ったと思いました。ところがそこから右へ右へと走り出し,騎手が右から鞭を入れてもそのまま右へと走ることをやめずに最後はラチに接触。オルフェーヴルが抜け出す時点で先頭に立っていたSolemiaに,僕の競馬の常識からすれば残り50m辺りで大逆転を許し,2着でした。
結果的には抜け出すのが早かったのですが,レースというのは相手があるものであり,3着以下を7馬身も離していることから分かるように,ほとんどの馬が早めにばててしまったからこうなったのですから,これは仕方がないことだと思います。勝ち時計が2分37秒68も掛かるタフな馬場状態だったため,最後になって苦しくなって右に走ったのかもしれませんが,たとえば渡仏以来ずっとエスコートしてくれたアヴェンティーノが視界から消え,ただ1頭で抜け出してしまったために急激に不安に襲われたというような,馬の精神状態に原因を求めたくなるような走行でした。
個人的にいえば残念とか悔しいといった感情は皆無です。むしろこの馬が世界でも稀有な能力を持っているということが証明された満足感しかありません。どんなに高い能力があっても,個々のレースでは勝てるとは限らないのが競馬の難しさでありまた面白いところでしょう。真直ぐに走れば勝てていたのかもしれませんが,わざわざ斜めに走って2着に甘んじるというのも,何となくオルフェーヴルらしい気がしました。
「無限に進む」ということばのうちに秘められていると思われる消極的意味を,もっと積極的な仕方で理解するということに関してのヒントを僕に与えてくれたのは,福居純の『スピノザ「共通概念」試論』でした。とりわけ参考になったのは,三章の「直接無限様態と間接無限様態」の一部分です。
その表題からも理解できますように,ここは主として無限様態に関係する事柄の考察にあてられています。これは現在の僕の考察もまったく関係しないというわけではないのですが,ここではそれに関する探究に関しては深くは触れません。興味があるという場合はそれをお読みになってください。ただ一点だけ,これに関連して僕の今後の考察のために留意しておいてほしいことを先に示しておくことにします。
無限知性というのは,神のうちにある知性のことです。それはそれで何も間違ってはいないのですが,スピノザの哲学における無限知性というのは,ただそれだけのことを意味しているというわけでもないのです。そしてこのことが,僕が留意してほしいと思う事柄と大いに関係してくるのです。
スピノザの哲学における知性というのは,個々の観念の総体のことです。よって無限知性,すなわち神の知性とは神が有する個々の観念の総体のことになりますし,ある人間の知性というならば,それはその人間の精神を構成している個々の観念の総体ということになります。いい換えれば,知性といわれるときには,この意味において有限な知性であろうと無限な知性であろうと,その意味するところに変わるところはありません。ただその総体に差異があるというだけのことです。
次に,スピノザの哲学における観念というのは,第二部定義三からも理解できるように,思惟の様態なのであって,何らかの意味において絶対的な思惟ではありません。ゆえに,たとえそれが神の無限知性であったとしても,それ自体は絶対的思惟,いい換えれば神の思惟する絶対的な力なのではなくて,思惟の様態です。これはもちろん有限な知性である人間の知性といわれる場合にも同様なのであって,この場合にも無限知性と有限知性との間で,絶対的な差異はないということになります。
若手棋士の登竜門,第43回新人王戦決勝三番勝負第一局。公式戦初対局。
振駒により永瀬拓矢五段の先手。5筋位取り中飛車から穴熊。藤森哲也四段も潜って相穴熊に。序盤は1筋の位を取った先手がうまくやっていたように思います。しかし後手がその1筋から反撃。先手はこれに対してかなり手厚く受け,逆に反撃を決めて後手の穴熊を崩壊させました。
ここで▲4五桂と打っていきました。さすがにこれは決めにいった手のように思います。取ると▲4四金が厳しいとのことで△4二金。そこから▲5三金△5ニ金打▲4二金△同金▲4一金△5ニ金打▲4二金△同金。
永瀬将棋の名物は千日手で,ここではその手順に入っているのですが,▲1二銀と打って打開しました。千日手を厭わない永瀬五段が打開したのですから,よほど自信があってのことだったのではないかと思います。打開方法が最善であったのかどうかは分かりませんけれども,打開した判断自体は正しかったようで,まだ50手以上もかかりましたが先手の勝ちに終っています。
永瀬五段が先勝。第二局は23日です。
第一部定理一六系三でいわれている絶対に第一の原因については,岩波文庫版では訳者である畠中尚志による訳注がついています。それによれば,まず第一原因とはcausa primaというラテン語の訳で,これは先行するあらゆる原因に依存しない原因とのこと。いい換えれば,第一部定理二八や第二部定理九で示されている原因は,それに先行する別の原因に依存することになっていますから,第一原因ではないということになるでしょう。
次に,この第一原因は,ここでいわれている絶対に第一の原因と,もうひとつ,自己の類における第一の原因の二種に分かれるそうです。前者は一切の先行する原因を有さない原因のことであり,後者は個々の原因の系列のうちで,最初の原因という意味を有するそうです。『エチカ』にこれを当てはめれば,絶対に第一の原因というのは第一部定理一五により神のことであり,自己の類における第一の原因というのは,第二部定理六から神の本性を構成する各々の属性ということになるのではないでしょうか。
いずれにしてもこれらは,当時の哲学者の間で用いられていた用語で,スピノザ自身もここで絶対に第一の原因というときには,その意味を踏襲していたと考えていたと思います。そしてそうであるならば,この系自体は第一部定理一六から帰結しますから,証明は不要ということになるでしょう。
こうした理由によって,神は万物にとっての最近原因でなければならないということも導かれるのだと僕は考えますが,このことは現在の考察とは関係がありませんから割愛します。ただ,第二部定理九の中に,そして第一部定理二八の中に,このような手続きによって絶対に第一の原因である神に辿りつくことはないということが含まれていると考えられることは間違いないところでしょう。スピノザは人間の精神が神を十全に認識することができるということについては,第二部定理四七でそれを認めています。つまり人間の精神,というか人間の精神がそれを代表するような有限知性が,神を十全に認識することは不可能であると主張しているのではありません。よって,第一部定理二八とか第二部定理九の仕方で思考したとしても,いい換えれば結果から原因,原因の原因,そのまた原因と追っても,神の十全な認識は得られないとするなら,確かにそこには消極的意味が含まれていると僕は思うのです。
今年から改称された第22回埼玉新聞栄冠賞。
何が逃げるのか予測し難かったのですが,最内からカキツバタロイヤルが先手を奪うことになりました。ケイアイライジン,ドリームストライドまでほぼ雁行。その後ろにトーセンアレスとなり,ドラゴンウィスカーが続きました。ハイペースではあったのですが,淡々とした流れでもありました。
先行した3頭からはまずケイアイライジン,続いてドリームストライドの順で脱落。自然と順位を上げたトーセンアレスが外からカキツバタロイヤルに並び掛け,4コーナーでは先頭に。しかしそこからカキツバタロイヤルも頑張り,ゴールまで叩き合い。前に出たトーセンアレスが抜かせず,クビ差で優勝。カキツバタロイヤルは2着。3着は5馬身差でドラゴンウィスカー。
優勝したトーセンアレスは前々走まで中央で18戦5勝。オープンでも3着があったうえ,転入初戦となった前走の重賞でも2着になっていましたから力量上位。距離もこのくらいの方がよいと思え,まずは順当な勝利でしょう。もちろん南関東重賞は初制覇。接戦となったのは,2着馬も重賞級の力があるからだと思います。南関東重賞では今後も上位クラスの力を発揮するものと思いますし,重賞でも相手次第ではチャンスがあるものと思います。父はJRA賞で2001年の最優秀2歳牡馬,2003年と2004年は最優秀ダート馬,NARグランプリでは2003年の特別表彰馬のアドマイヤドン。祖母はキーフライヤーで従兄に2005年の春の天皇賞を勝ったスズカマンボ。Aresはスペイン語では鋤です。
騎乗した船橋の張田京[たかし]騎手は5月の大井記念以来の南関東重賞制覇。埼玉新聞栄冠賞は初制覇。管理しているのは南関東リーディングの浦和の小久保智調教師で名称は異なりますが第18回を制していて,4年ぶりの2勝目。
第二部定理九に対して施すべき操作の具体的な内容が明らかになりました。ただ,だからといってこうした操作を自由に行っていいというものではありません。それがここにスピノザが示したことに明白に反するのであれば,『エチカ』の考察としては元も子もなくなってしまうからです。よって,第二部定理九で無限に進むsic in infinitumといわれているときの個物の観念のすべてを,神の無限知性intellectus infinitusのうちにあるとのみ解釈するだけの余地があるのかどうかをまずは検討してみなければなりません。
もしもこうした操作を許すべき理由を第二部定理九のうちに見出すとするならば,それはまさにこの定理が「無限に進む」という一文によって締め括られている点に求めるよりほかないだろうというのが僕の結論です。そして第二部定理九の意味の変容というのも,この「無限に進む」という一文をどのように解釈するのかという点に関わってくるのです。
第二部定理九もそうですし,第二部定理九証明に大きく関係する第一部定理二八もそうなのですが,そのふたつの定理を「無限に進む」ということばでスピノザが締め括るとき,そこにはある消極的な意味合いが含まれているというのが僕のこれまでの解釈でした。これは前回の考察のときにも説明したことですが,非常に重要なので再び説明しておきますと,第二部定理九も第一部定理二八も,結果から原因へと遡及していくような,いわば帰納法的な記述がなされています。そしてそこに示されていることは,ある結果の原因,その原因,またその原因というようにいくら遡及していったとしても,それは無限に続くだけであり,どこかで第一原因とでもいうべきものに帰着することはないということです。つまり方法論としての帰納法の否定,いい換えれば演繹法の肯定がそこには示されているというのが,ここに含意されていると思われる消極性の意味なのです。
もちろんこうした解釈も妥当なものであると僕は考えています。ここではそれを示すために,第一部定理一六系三を援用しておきましょう。
「第三に,神は絶対に第一の原因であるということになる」。
第一部定理一六系三なので第三にといわれているだけで,そこにはそれ以上の意味は何もありません。
だんじり祭りに合わせるような開催となった岸和田記念の決勝。並びは渡辺-伏見の福島でこの番手で大塚が競り。岡田ー宗景の関東に梶応,村上ー南ー前田の近畿。
前受けは渡辺。番手は周回中から競りで実質の3番手に村上,後方が岡田で周回。岡田は残り2周半あたりから上昇を開始,残り2周のバックで前に出ると渡辺は引きました。外から村上が上昇し,バックで岡田を叩いたところで打鐘。このまま村上の抑え先行となり,競りを除けば一列棒状。バックから岡田が先捲りを打ちましたが,これは南の牽制で失速。この外を渡辺が捲り追い込むと,直線でも大外を豪快に伸びて優勝。競り合いは内に伏見で外が大塚だったので,伏見は内に行かざるを得ず,続いた大塚が流れ込んで2着。3着は逃げた村上を交わした南。
優勝した福島の渡辺一成選手は8月の富山記念に続いて記念競輪4勝目。当地は初制覇。ここは現状の力では最上位と考えていましたので,優勝候補の筆頭だろうと思っていました。位置は悪くなってしまいましたが,やはり瞬間的なスピードは一枚上でした。GⅡは勝っていますが,GⅠにも近いうちに手が届くのではないかと思います。
スピノザが示した第二部定理一一系の意味から鑑みても,第二部定理九でいわれている個物の観念というものを,十全な観念とみなすための方法としては,これが最適なものであると僕は考えています。しかし,この場合には事態はただそれだけのものには留まらないように思えるのです。
というのは,実際の問題として,この方法は,第二部定理九に対して何らかの操作をしたとはいいきれないような側面があるからです。ここで施した事柄は,たとえば個物Xの観念についてみてみるならば,ある人間Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちに個物Xの観念があるというときに,それを人間Aの精神のうちにある個物Xの混乱した観念としてみるのか,それとも神の無限知性のうちにある個物Xの十全な観念とみなすのかということの相違にほかならないからです。いわばこれは観点の相違とでもいうべきものにいきつくのであって,実際にこの定理の意味に重大な変容をもたらすような操作であるとはいえません。というのも,この観点の相違からすれば,確かに個物Xの観念が神のうちにあるとみなされる場合には,そこに原因の十全性という観点を導入することが可能でしょうが,それは同時に人間Aの精神のうちにある個物Xの混乱した観念ということも意味するのであって,この場合には原因の十全性と観念の十全性に関する結論からして,相変らず原因の十全性は導入できなくなっているともいえるからです。
しかし,このように考えてくれば,第二部定理九に対して施すべき操作がどういったものでなければならないのかということが,もっと明瞭に理解できるようになります。それはつまり,第二部定理九でいわれている個物の観念のすべて,すべてというのは,この定理は無限に進むと締め括られているのですから,実際には具体的に示されている個物の観念は無限にあると考えなければならないだろうと僕は思っていますが,そうした意味においてここに示されているすべての個物の観念が,神の無限知性のうちにあるものとしてだけ把握され,たとえば人間の精神のような,有限な知性のうちにあるとみなすことができなくなるようなような操作なのです。
2年ぶりに盛岡競馬場に戻ってきた第25回南部杯。エニフェアーは競走除外で13頭。
発走直後にナムラタイタンが躓き,騎手がバランスを崩して落馬。このメンバーだとエスポワールシチーが逃げることになるかもしれないと思っていましたが,メイショウタメトモがハナへ。これは個人的には意外でした。2番手にエスポワールシチーで,その外のナイキマドリードまでは一団。ダイショウジェット,アドマイヤロイヤルと続きました。落馬した馬が中団の内を走っていたので,後続は少し気を使わなければならなかったかもしれません。前半の800mは47秒9でこれはミドルペース。
3コーナーを過ぎると自然な感じでエスポワールシチーが先頭へ。その外からナイキマドリードも押して食い下がろうとしましたが,直線に入るとついていくのにギブアップ。メイショウタメトモとの中を割ってダイショウジェットが2番手に上がり,同じところを通ってアドマイヤロイヤルが3番手に。楽々と抜け出していたエスポワールシチーは最後は流したようで差は詰まったのですが,4馬身差の快勝。ダイショウジェットが2着でさらに6馬身差でアドマイヤロイヤルが3着。
優勝したエスポワールシチーは5月のかしわ記念以来の勝利で大レース7勝目。南部杯は第22回も勝っていて2勝目。全盛期の力はないと思うのですが,それでもこのメンバーでは力が違うので,普通に走れればまず負けることはないだろうと思っていました。少なくとも一時期よりは,かつての調子に近付いていると思われるので,まだトップクラスで走っていかれるものと思います。父はゴールドアリュール,チップトップ系ジーゲリンの分枝で祖母の従兄に1986年の最優秀2歳牡馬のゴールドシチー。Espoirはフランス語で希望。
騎乗したのは佐藤哲三騎手で管理しているのは安達昭夫調教師。共にかしわ記念以来の大レース制覇で第22回以来の南部杯2勝目。
そのままでは第二部定理九に原因の十全性という観点を導入できないのであるとすれば,この第二部定理九にその観点を導入することを可能にするような,これまでとは異なった何らかの操作を施す必要があります。
ここであらかじめいっておきますと,こうした操作を施すことによって,第二部定理九にはこれまでとは異なった意味が発生してきます。そしてそのことが,僕が因果論的迂回といっている第二部定理九系のスピノザによる訴訟過程を通してこの系にも影響してきます。したがって,第二部定理九系から直接的に証明されるとしている第二部定理一二にも,さらにその影響が及んでくるということになるのです。すでにこの点における実際の問題というものがどのようなものであるのかということの演繹法的概観については説明しましたが,その端緒となるのがこの第二部定理九にこれから施す操作であるということになります。
さて,原因の十全性と観念の十全性との間には不可分な関係性があるということは明らかになっているわけですから,第二部定理九に対する操作としてどのような事柄が必要とされているのかということは自ずから明らかであるといえます。すなわち第二部定理九でいわれている個物の観念というのを,必然的に十全な観念であるとみなすことができるような操作というのが必要なのです。
実際には,この操作自体はそうも難しいことではないのです。というのは,第二部定理一一系の意味から明らかなように,そもそも混乱した観念というものは,あるとか生じるとかいわれ得るならば,それは人間の知性のような有限な知性のうちにのみあったり発生したりするのであって,それが神と関係づけられる限りでは,いい換えればそれが神の無限知性のうちにあるとみられるならば,十全な観念にほかならないからです。よって,第二部定理九でいわれている個物の観念が混乱した観念にも適用が可能であるとしても,それはたとえばある人間の精神の一部を現実的に構成しているとみられる限りで適用されているだけであり,同じ観念が神の無限知性のうちにあるとみられるなら,それは個物の十全な観念に対して適用されているというのと同じことだからです。
来月3日にサンタアニタ競馬場で行われるブリーダーズカップターフを目指して昨年のアルゼンチン共和国杯と今年の京都記念を勝っているトレイルブレイザーが渡米。本番前の試走として日本時間の今朝6時過ぎに発走のアロヨセコマイルGⅡ芝8ハロンに出走しました。
出走したのは5頭。トレイルブレイザーは2番枠からの発走で,発走直後は1番枠の馬の2番手でしたが,外から来た馬も先に行かせ,3,4番手の内での競馬となりました。そのままレースは進み,4コーナーで1頭が早くも圏外。直線に入るところで切れこむように大外に出し,その時点で前を進んでいた2頭を追撃。1頭を交わし,もう1頭に並び掛けようかというところでゴール。半馬身差の2着でした。
芝の馬のレベルはアメリカよりも日本の方が上ですから,日本でトップクラスとはいえないこの馬でも好勝負は可能。このレースはあくまでも試走で,この馬には明らかに距離が短かったですから,むしろ上々の結果といえるでしょう。勝ち時計が1分31秒95とかなり速く,この距離でのそういうレースに適応できたのは,むしろこの馬の新しい面が出たとも感じます。本番となるとアメリカはもとよりヨーロッパからも強豪が参戦すると思われ,そのあたりの相手関係で,勝ち負けできるかどうかが左右されるのではないかと思います。
ここでひとつ,注意を喚起しておきたいことがあります。たとえば人間の精神のうちに個物の混乱した観念があるという場合に,その個物の混乱した観念が発生するような原因と結果の連結にも,第二部定理九が適用されると僕がいうとき,それは論理的な意味において適用が可能であるということをいっているのではありません。もちろん論理的にそうであるということを僕が否定するというわけではありませんが,むしろ僕がここでいいたいのは,このことが現実的な意味において適用される,あるいは現に適用されているということなのです。いい換えれば,もしも人間の精神が現実的に存在するならば,第二部定理九において示されていることが,その人間の精神のうちで,個物の混乱した観念について実際に生じているということなのです。
人間の精神が現実的に存在するということについて,まさかそれを否定するということはあり得ません。また,そうした人間の精神のうちに個物の混乱した観念があるならば,それを原因として別の個物の混乱した観念が必然的に生じるということはすでに証明しました。したがってあと必要なことは,現実的に存在する人間の精神のうちに,必然的に個物の混乱した観念があるということ,いい換えるなら現実的に存在する人間の精神の一部は,必然的に個物の混乱した観念によって構成されているということですが,これは岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三と第二部定理一七と第二部定理二五から明らかですし,また,人間の精神の受動の何たるかを考慮に入れるならば,第四部定理四からも明らかにすることができます。いずれにしてもこのことは,以前の考察の中でも何度か詳述してきた事柄ですので,ここではこれについては繰り返すことはしません。
そこで,原因の十全性と観念の十全性との間には切り離すことが不可能な関係があるという点に留意するなら,このままの形では第二部定理九に原因の十全性という観点を導入するということはできないということになります。もしもこのまま導入するなら,第二部定理九で示されていると僕が考えていることの一部は,少なくともそこから抜け落ちてしまうからです。
大激闘となった3日の第60期王座戦五番勝負第四局。
渡辺明王座の先手で羽生善治二冠のいきなり三間飛車。微妙な駆け引きの末,後手のノーマル三間飛車美濃囲いに,先手の左美濃という戦型と同じになりました。午前9時に始まったこの将棋は,最終盤まで接戦となったのですが,最後のところで後手に歩で取られるところへ銀を打つという凄い手が出まして,午後10時過ぎに千日手となりました。この△6六銀というのは本シリーズのハイライトといっていい一手ではなかったかと思います。
指し直し局は先後が入れ替わり,羽生二冠の先手。きちんと組み合う相矢倉で,渡辺王座の選択は△8五歩型で△3三桂と跳ね先手の攻めを受け止める形。
ここから▲6五歩と突き△7三角に▲6六銀。後手は△4五歩と突き▲同桂△同桂▲同銀に△5三桂。先手は▲3四銀と突進し,△同金▲5五歩△4四金▲3五歩△5五金▲3四歩と進めました。
少なくともいわゆる昭和55年組がトップに台頭して以降,相矢倉の先手は多少の駒損でも攻めが続けば勝ちきることができるというのが基本認識になりました。定跡の手順はその後も改良が積み重ねられていますが,基本認識は現在でも変わりません。なのでこの将棋も銀損の先手の攻めが繋がるのかどうかが焦点に。厳密にいえば必ずしも繋がったとはいえないのではないかと思えるのですが,後手から厳しい反撃がなく,攻め続けているうちに先手の駒損は回復しついには駒得に。そうなっては後手も凌ぎようがなく,先手が攻め勝つことになりました。個々の局面を抽出すれば難しい局面が延々と続いていたのですが,終ってみれば先手の快勝といえるような将棋であったと思います。終局は明けて4日の午前2時過ぎでした。
3勝1敗で羽生二冠が王座を奪取し三冠に。王座は第58期以来2期ぶりで通算20期目。これは同一タイトル獲得数の歴代最多タイ。タイトルは直前の第53期王位に続き通産83期。これは自己の新記録の更新です。
敗れた渡辺前王座は竜王のみに。またこれが初めてのタイトル失冠。しかしこういうことが一回りの成長を促す契機となることは,将棋の世界ではよくあることのように思います。
これまでにもこのブログにおいては何度か述べてきたことの繰り返しとなりますが,スピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念の関係というのは,単に真と偽の関係を示すというだけではなくて,有と無の関係を指示することになっています。ですから本当は混乱した観念について,それがあるということ自体が好ましい表現ではないのですが,代わる表現も見当たりませんからここでもそれを用いていうならば,混乱した観念というのは神の無限知性のうちにあるということはありません。もしもそれを何らかの積極的な意味においてあるというならば,それは有限な知性,すなわちたとえば人間の精神のうちにのみあるということになります。
次に,たとえばそうした人間の精神のうちに個物の混乱した観念があるとき,第二部定理九がそれにも妥当するかどうかと問うならば,これは妥当すると僕は考えています。というのは,たとえばある人間Aの精神のうちに個物Xの混乱した観念があるということは,第二部定理一一系の意味により,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるということです。すると第一部定理三六により,このように説明される神のうちにあるXの観念を原因として,何らかの結果,すなわちYの観念が生じなければなりません。すると人間Aの精神のうちでもXの観念を原因としてYの観念が生じるでしょうが,Xの観念は混乱した観念であると仮定されているのですから,第二部定理四〇の4つの意味のうち第二の意味から,少なくともそれがこの人間Aの精神のうちにあるとみられる限りにおいては,Yの観念も混乱した観念であるということになるからです。
実際には第二部定理九は結果から原因を遡行するような帰納的な記述がされているのに対し,この僕の説明は原因から結果を辿るような演繹的なものになっています。ただこの相違は,少なくとも現状の考察の観点からは,それを結果から考察するか原因から考察するかという方法論的差異にのみ帰することが可能ですので,何か問題が生じているということにはならないだろうと思います。よって第二部定理九は,たとえばある人間の精神のうちにある個物の混乱した観念に対しても適用することが可能な定理であるということになると考えます。
台風の影響で最終日が順延となり,1日に争われた向日町記念の決勝。並びは長塚ー荻原の東日本,金子ー鳥越の愛知,村上義弘ー村上博幸の兄弟,荒井-岩津の西国で,野田は単騎。
愛知のふたりがスタートを取りにいき,金子の前受け。続いたのが村上兄弟で,5番手に長塚,7番手に荒井で野田が最後尾で周回。残り3周のバックから荒井が上昇,野田が続かず長塚がこの後ろへ。荒井は残り2周のホームで金子を叩いて先頭に。金子が引いて5番手も,村上義弘がそこまで上がって打鐘。この5番手の取り合いは村上で金子は8番手。結局は荒井の抑え先行のような形に。これをバックから3番手の長塚が捲るとあっさり飲み込み,そのまま後ろを寄せ付けずに優勝。先に動いた村上義弘に封じられる形でマークを外した荻原に代わってスイッチした岩津が2着。3着は村上義弘。
優勝した茨城の長塚智広選手は先月の青森記念に続くGⅢ6勝目。ここは現状の力は最上位と思われ,好勝負は間違いなしと思っていました。3番手を簡単に確保できましたので,その時点でほぼ優勝は決まっていたといってもいいのではないでしょうか。野田が荒井ラインを追走してこなかったのはラッキーでしたが,たぶん4番手でも問題なかったものと思います。
まずは,一般的に十全な観念と混乱した観念が,現実的なものとして解釈されるとき,『エチカ』でその事情がどのようになっているのかということを確認しておいた方がよいでしょう。
第二部定理一一系の意味によれば,Aの精神の本性に変状した限りで神のうちにXの観念があるというとき,Aの精神はXを十全に認識します。いい換えればAの精神のうちにはXの十全な観念があるわけです。一方,Aの精神の本性に変状するとともにほかのものの観念も有する限りで神のうちにXの観念がある場合には,AはXを混乱して認識します。つまりAの精神のうちにXの混乱した観念があるのです。
ただし,ここで気を付けなければならないのは,後者の場合,Xの混乱した観念があるのはあくまでもAの精神のうちなのであって,神のうちに混乱した観念があるというわけではありません。この場合,Xの観念が生じる原因は,Aの精神と何かほかのものの観念の双方であると理解するべきだと思いますが,神のうちにはそれらすべての観念があるということになっていますから,第一部公理四により,このXの観念が神のうちにあるとみられる場合にはむしろそれは十全な観念です。いい換えれば,Aの精神の本性を構成するとともにBの観念を有する限りでXの観念が神のうちにあるという場合,神のうちにはXの十全な観念があるのですが,Aの精神のうちにはXの混乱した観念があるということになるのです。このことから理解できるように,別に第二部定理三二と第二部定義四を持ち出すまでもなく,観念は神のうちにある限りは必然的に十全であるということになるのです。
神の知性というのは無限知性です。よって,観念は無限知性のうちにある限りは必然的に十全です。しかしスピノザの哲学における知性とは観念の総体のことなのですから,無限知性の外部にあるような,いい方を換えれば無限知性を超越し得るような観念というのは存在しません。このことは第一部定理一五からもそうであるといわれなければならないでしょう。よって,第一義的には観念はすべて十全な観念なのです。なのでこれがそのまま第二部定理九に応用できるなら,何の問題もないということになるでしょう。
JBCレディスクラシックの前哨戦となる第9回レディスプレリュード。リアライズキボンヌが出走取消で13頭。
先手を奪ったのはプレシャスジェムズで,レースの前半は2番手と意外なほどに差が開きました。その2番手にはエーシンクールディとプリンセスペスカ。トウカイレジーナを挟んでミラクルレジェンドは中団。ロッソトウショウとハートゴールドはその内を追走し,サクラサクラサクラとダートムーア。クラーベセクレタは行き振りが悪くその後ろになりました。最初の800mは50秒8で,これは超スローペースといっていいくらいでしょう。
直線では馬場の中ほどから一旦はプリンセスペスカが抜け出すかの構えでしたが,さらに外に出したミラクルレジェンドがこれを捕まえ,1馬身半の差をつけて優勝。プリンセスペスカが2着でこれら2頭より内目を追い込んだダートムーアが4馬身差の3着。
優勝したミラクルレジェンドは4月のマリーンカップ以来の勝利で重賞6勝目。このレースは第8回からの連覇。ここは明らかに力量最上位といえ,順当な勝利。2着馬とは力量ほどの差をつけて勝つことはできなかったともいえますが,あくまでも前哨戦ですし,斤量も1キロ重く,ずっと外を回っていたことを考えれば,着差以上の内容があったといえるでしょう。無事にいけば本番も大本命です。父はフジキセキ,半弟に8月のエルムステークスを勝ったローマンレジェンド。
このレースは重賞になっては2年目。岩田康誠[やすなり]騎手,藤原英昭調教師にとっても連覇となりました。
第二部定理九において,具体的に原因として示されているものが何であるのかといえば,それはある個物の観念をおいてほかにはありません。よってある個物の観念が原因となって何か結果を生み出すという場合に関して,原因の十全性という観点を導入することになります。このとき,結果として生じるものは,第二部定理五によって神の思惟の属性に属する何かであり,また第二部定義三により,それは思惟の様態であるということになります。ただ,このことはそもそも第二部定理九の意味のうちに含まれていると考えることが可能ですので,ここではこれ以上は追及しません。
次に,第三部定義二によれば,ある原因と結果とが具体的に示されている言明に対して,原因の十全性を導入するということは,要するにその原因とされる事物の能動について考えるということにほかなりません。いい換えれば,こうした言明に原因の十全性という観点を導入するということは,この言明の主語,ないしは原因として示されているものの能動について探求するということと同じ意味なのです。このことに関しては,スピノザの哲学における能動と受動とは何かということを考察したときに得た結論と関係します。ただ,これはすでに考察を済ませている事柄ですから,やはりここではこれ以上の深入りはしません。
これらのことから理解できるのは,第二部定理九に原因の十全性という観点を導入するということが,ある個物の観念の能動について考察するということと同じ意味を有するということです。しかるに,観念にとっての能動というのは,第三部定義一から分かるように,十全な観念に関係するのであって,混乱した観念とは無関係です。実際には第三部定義一における主語は個物の観念ではなくて人間の精神となっていますが,人間の精神が個物の観念であるということは第二部定理一三が示していることですから,原因の十全性が十全な観念とだけ関係するのは,人間の精神の場合だけではなく,あらゆる観念にとって同一であると考えて構わないと僕は考えます。よって,第二部定理九に原因の十全性を適用するなら,この観念は十全な観念であると考えなければならないということになります。
JBCスプリントを目指す馬たちにとっては最大の前哨戦となる第46回東京盃。
テイクアベットの逃げもあり得ると思っていましたが,出負け。スターボードも出遅れたため,ジーエスライカーが逃げることになりました。ギオンゴールドがこれを追い,3番手にラブミーチャン。ゴールドキャヴィア,セイクリムズン,タイセイレジェンドがその後ろ。前半の600mは34秒2でハイペース。
直線に入るとラブミーチャンが前2頭の外に出し,これを捕えて先頭。追ってきたのは外のタイセイレジェンドと内からセイクリムズンでしたが,最後は抜け出したラブミーチャンと同じような脚色となり追い付くには至らず。先んじていたラブミーチャンが優勝。1馬身半差で外のタイセイレジェンドが2着。クビ差の3着にセイクリムズン。
優勝したラブミーチャンは7月の習志野きらっとスプリント以来の勝利。重賞は2009年の全日本2歳優駿以来で3勝目。わりと安定した成績を残し続けながら,3歳以降はなかなか重賞には手が届かなかったのですが,常に勝ってもおかしくない力があるということは示し続けていました。たぶんこのコースは得意条件なのでしょうし,結果的には発走後の位置取りもよかったのでしょう。また,54キロという斤量も味方したようには思います。父はサウスヴィグラス。
騎乗したのは笠松の浜口楠彦騎手で管理しているのは笠松の柳江仁調教師。東京盃は共に初勝利です。
ここに至って,今回のテーマがどれほど前回のテーマと深く関わり合っているのかということが理解してもらえるかと思います。
実際には問題は次のようになっているのです。第二部定理九に,原因の十全性という観点を導入するとしたら,もしもそれが因果論的に証明されるような系である限りにおいて,第二部定理九系の解釈に波及します。そしてもしもこのことによって第二部定理九系の解釈にも何らかの変容がもたらされるということがあるとしたら,それは第二部定理一二に対して直接的に影響してくるのです。僕は今回はこのことを,第二部定理一二の方から,いわば帰納法的な仕方で説明していったわけですが,それはテーマである第二部定理一二にもたらされる内容が『エチカ』の他の部分とどのように関係しているのかを分かりやすい形で説明するという目的からです。スピノザは思索の方法論としては帰納法は排除して演繹法を正当なものとして扱いますから,ここで説明したように,第二部定理九から先に考えていくことが,正しい考え方であるといえるでしょう。このことはおそらく『エチカ』の諸定理と系には配置の意図というものがあるだろうということからもそうでなければならないといえるでしょう。
そこでまず,第二部定理九に原因の十全性という観点を導入することが可能であるのかどうかということを考えてみなければなりませんが,これを単に可能であるか不可能であるかの二者択一としてみる限り,それは可能であるといえます。なぜなら第二部定理九が示していることは,ある個物の観念の原因はそれとは別の個物の観念であり,その別の個物の観念の原因もまたそれとは異なる別の個物の観念であるという具合に無限に連鎖するということです。これは実際には結果から原因を探索するような帰納法的な記述にはなっていますが,そのことを考慮の外に置く限り,ここには原因とされるものと結果とされるものが,たとえば第二部定理七とは違って具体的に措定されているといえます。だからこの原因といわれている観念に,十全性という観点を導入するということ自体は可能です。
ただし,可能ならそれを無条件に導入して構わないというものではないということは当然でしょう。
地元のナムラダイキチにも大いにチャンスがあるように思われた第32回白山大賞典。
好発はニホンピロアワーズでしたが逃げ馬のエーシンモアオバーを先に行かせて2番手から。その後ろにナムラダイキチとジャングルスマイル,さらにダイシンオレンジとクリールパッションまではあまり差がなく続きました。
レースが動いたのは2周目の向正面から。ニホンピロアワーズが進出して先頭に。ナムラダイキチは押してもこれについていかれませんでしたが,4番手以降とはさらに水が開き,ここで前の3頭はほぼ確定。ニホンピロアワーズは悠々と抜け出し,4馬身の差をつける圧勝。一旦はおかれたナムラダイキチがしぶとく伸びて2着を確保。逃げたエーシンモアオバーが3着。
優勝したニホンピロアワーズは3月の名古屋大賞典以来となる重賞3勝目。ここでは力量最上位と考えられましたので,順当といえる勝利。この路線のトップクラスの戦線離脱が相次いでいますので,あるいはもうひとつ上のレベルでも勝ち負けが可能かもしれません。母の父はアドマイヤベガ,祖母の従兄にフジキセキ。
騎乗したのは酒井学騎手で管理しているのは大橋勇樹調教師。白山大賞典は共に初勝利。
このブログにおけるここまでの第二部定理九系の解釈について,それを変更しなければならないということがこれで明らかになったといえます。ではどのように変更すればよいのでしょうか。それは,僕が因果論的迂回といっている,スピノザによる第二部定理九系の訴訟過程を考慮に入れるということをおいてほかにはないように思えます。というのは,別にこれはこの系の証明に限っての話ではありませんが,一般的にある事柄が因果論的な仕方で証明されるのであるとしたら,そこには原因と結果というものがある具体的な内容として明らかにされている筈です。したがってそのときに,その原因として提示されている事柄について,十全性という観点を導入することが可能になるからです。よってここからは,第二部定理九系を,少なくとも因果論的な仕方によっても証明することが可能な系であるということを前提することにします。
しかし,ここでまた問題が発生するのです。というのは,僕が考えるように第二部定理九系が平行論的証明によってのみ証明可能であると考える限り,このことは『エチカ』においては第二部定理七に依拠します。この定理が原因と結果の連結と秩序に言及しているとしても,それは具体的なある事物について言及しているわけではないので,ここに原因の十全性という観点を導入することが不可能になっていることはすでに説明した通りです。しかし一方で,第二部定理九系が因果論的方法によって証明することが可能であると考える限り,それが依拠するのは第二部定理七ではなくて第二部定理九であるということになります。スピノザがこの系を第二部定理九の系として『エチカ』の中に配置したのは,まさにそれがこの定理に依拠して因果論的に論証可能であると考えていたからであろうという僕の推測は,前回の考察で説明した通りです。
したがってここでは,第二部定理一二と第二部定理九系との間にあったのと同一の問題が生じているといえます。すなわち第二部定理一二に原因の十全性という観点を導入するために,第二部定理九系にもそれが導入されていなければならなかったのですが,第二部定理九系への導入には,第二部定理九への導入が必要条件なのです。
共に久々のタイトル戦登場を目指すベテランによる対決となった第19期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は中井広恵女流六段が24勝,矢内理絵子女流四段が17勝。
振駒で中井六段の先手。矢内四段のノーマル三間飛車から先手が穴熊,後手が美濃囲いに。中盤前半の折衝は僕には後手がうまくやっているように思えましたが,先手は穴熊ですからそれくらいで互角という面はあるかもしれません。それどころか中井六段は自信を持っていたようです。
4二にいた飛車をひとつ寄ったところ。角筋を避けつつ先手陣に直通となる気持ちの良い手。ここから▲3四飛と取り,△4五桂の跳ね出しに▲6六銀とぶつけました。△同銀▲同金△5七飛成まで一直線。そこで▲6二歩と打ち,△7一金に▲7五金と出て,角を取れる形になりました。
ただし,この順は先手としてはまずかったようです。後手の歩を取ってしまったので第2図から△7八歩が痛打。さらに6筋に歩を打ってしまったので受けるのも難しくなり,最終的には出た金も質駒になってしまいました。ここでは後手が優勢で,攻めがうまく続き,先手の反撃もしっかりと読み切って一手勝ちとなりました。
矢内四段が勝って挑戦者に。一時期は確かに女流のトップに君臨していたのですが,タイトル戦出場が2年ぶりということからも分かるように,近年は若手の台頭の前にややランクを落としている印象を受けていました。矢内四段にとっては女流棋士人生にとっても大きなタイトル戦となりそうです。第一局は来月8日です。
原因の十全性という観点を第二部定理九系に導入するに際しては,少なくともこれまでの考察からは,解消しておかなければならない大きな課題があるといえます。
僕は第二部定理九系は,平行論的証明によって論証されると考えていますし,実際に今回のテーマの中での第二部定理一二の証明の前提もそうなっています。ところで,一般的にある事柄が平行論的に証明されるということがどういうことであるかといえば,それはたとえば物体であるAとAの観念が,平行論における同一個体である,あるいは同一個体でなければならないということを証明するということです。平行論における同一個体というのは,原因と結果の連結が同一ではあるのですが,こうした手法の証明にとって最も肝心な点というのは,具体的にAの原因がBであり,Aの観念の原因がBの観念であるということを示すことではないのです。むしろ平行論的証明というのは,AとAの観念が同一個体であるがゆえに,もしもAの原因がBであるならばAの観念の原因はBの観念でなければならず,逆にAの観念の原因がBの観念の原因でなければならないとしたら,Aの原因もBでなければならないということを示すという点にあるといえるでしょう。こうした事情は,『エチカ』において平行論に最も関係する第二部定理七や第二部定理七系というのが,基本的に第一部公理四から導き出される定理であって,具体的な因果関係の連結を示す定理,たとえば第一部定理二一と二二や,第一部定理二八から導出されるのではないということからもその一端が明らかにされているといえると思います。
このことから理解できるように,これは第二部定理九系に限定されたことではありませんが,もしもある事柄が単に平行論的に帰結されているならば,そこに原因の十全性の観点というのを導入する余地というのがありません。この場合の第二部定理九系のように,平行論的に証明されていることのうちでは,何が原因であり何が結果であるのかということが,具体的には示されていませんが,原因の十全性という観点は,少なくとも原因というものが明らかになっていない限りはそこに導入することが不可能だからです。