ヒトには本来客観的論理検証性があります
ネコは鏡に映る自分の姿を自分だと認識出来ません 論理的客観性がないからです
ネコの感覚的には事実を認識出来ずに 鏡の中の自分の姿に対して威嚇したり 裏に回って覗き込んだりすることをやめません
感覚が促す錯覚を 錯覚として認識する能力がないんですね
で ヒトの場合どうなのかというと 紙に印刷された錯視図形が動いて見えてしまっても 「これは紙に印刷されているものなので 実際には動いてなんかいないはずだ」という論理的客観性が働くことで 錯覚を錯覚として認識することが出来る
しかし どんなに論理的に構造を理解したとしても 感覚が促してくる錯覚自体はなくならないんですね
そして 錯覚というのは紙に印刷された図像に限らず 様々な場面で生ずるものでもあります
カルト教団に洗脳されている人を 外部から見ていると 「何であんなもんに騙されるんだろう」と不思議で仕方ありませんが
そう「思って」いる人でも振り込め詐欺師の電話で簡単に騙されることは少なくありません
「何であんな話を信じたんだろう」と後になって「思う」ことはあっても どういうメカニズム構造によって自分が信じこんでしまったのかという論理的原因を理解することはないんですね
どんなに強く「思って」も 単なる「思い」という感覚的程度強度は客観的論理検証性にはならないからです
だから何度でも騙されるし 他人の経験も自分の教訓には役立たない
ヒトが騙される最も根源的原因とは 主観的感覚が促す感情の強度程度を意識の本質だと錯覚しているため 論理的客観性が働かなくなるためです
自分の主観的感覚というものを 客観的に検証する理性を放棄してしまうため 錯覚を錯覚だと認識出来なくなる
特に 振り込め詐欺師の手口のように「今日中にナントカならないか」と焦らされると 理性をすっ飛ばして感情が行動と直結してしまう先天的習性があるため ヒトは振り込め詐欺に引っ掛かるような欠陥が先天的に組み込まれているわけです
本来働くはずの論理的客観性というものが 様々な要因によって阻害され 動物的な主観的感覚が促す錯覚を錯覚と認識することが出来なくなって 無意味で危険な行動も平気で行えるようになるわけです
振り込め詐欺師のように焦らされなくても その場限りに気分が良くなるように誘導されると養老孟司のオカルト話も簡単に鵜呑みにしてしまう習性が ヒトという種の生物には普遍的に存在しているのです
「意識の9割は無意識である」と言われますが この「9割」という数字に論理的根拠はなく 「まあ 大体そんくらいだろう」という感覚的な数値でしかありません
それこそカルト宗教に心酔しちまっているバカなら100%無意識なので 地下鉄に毒ガス散布することも平気になっちゃう
ISILを「カッコイイ」と心酔しちまえば 簡単にISILに同調迎合するようにもなる
それはヤクザや暴力団も一緒です ヤクザを「カッコイイ」と思う人って結構多いために 都合の良い任侠映画が未だに制作されていたりします
ヤクザはそんなに都合良く社会的に役に立つような行動なんぞしませんが 主観的感覚としての「カッコイイ」対象としての身勝手な任侠妄想で脳が酔うのでしょう
フリードリヒ:ニーチェを読んで倫理だと勘違いしているバカ哲学者も多いんですが これもまた「カッコイイ」という主観的感覚が促す錯覚によって無意味な内容であるにも関わらず錯覚を錯覚だと認識出来ていないためです
ハイデガーもプラトンも意味がありません
哲学として意味があるのはカール:ライムンド:ポパーくらいしかないんですよ
そりゃ主観的感覚としては「面白く」はないでしょうよ でもね その「面白く」ないというのは国会原発事故調査委員会報告書読んだって一緒なんですよ
社会安全性に必要なのは 自律的な社会的責任判断力であって それが「面白く」ないかどうか「カッコイイ」かどうかという主観的感覚で無視して良い話にはならんでしょ
もうね 本当ね 説明していてバカらしくなってくるわ
「お前ら 死んだ方が良いんじゃねぇのか?」って 主観的感覚としては「思う」けどな
>*:任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけ ず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。 現代的にはヤクザと重複する面もあるが 依拠する信念を違える。
-Wikipediaより
Ende;
ネコは鏡に映る自分の姿を自分だと認識出来ません 論理的客観性がないからです
ネコの感覚的には事実を認識出来ずに 鏡の中の自分の姿に対して威嚇したり 裏に回って覗き込んだりすることをやめません
感覚が促す錯覚を 錯覚として認識する能力がないんですね
で ヒトの場合どうなのかというと 紙に印刷された錯視図形が動いて見えてしまっても 「これは紙に印刷されているものなので 実際には動いてなんかいないはずだ」という論理的客観性が働くことで 錯覚を錯覚として認識することが出来る
しかし どんなに論理的に構造を理解したとしても 感覚が促してくる錯覚自体はなくならないんですね
そして 錯覚というのは紙に印刷された図像に限らず 様々な場面で生ずるものでもあります
カルト教団に洗脳されている人を 外部から見ていると 「何であんなもんに騙されるんだろう」と不思議で仕方ありませんが
そう「思って」いる人でも振り込め詐欺師の電話で簡単に騙されることは少なくありません
「何であんな話を信じたんだろう」と後になって「思う」ことはあっても どういうメカニズム構造によって自分が信じこんでしまったのかという論理的原因を理解することはないんですね
どんなに強く「思って」も 単なる「思い」という感覚的程度強度は客観的論理検証性にはならないからです
だから何度でも騙されるし 他人の経験も自分の教訓には役立たない
ヒトが騙される最も根源的原因とは 主観的感覚が促す感情の強度程度を意識の本質だと錯覚しているため 論理的客観性が働かなくなるためです
自分の主観的感覚というものを 客観的に検証する理性を放棄してしまうため 錯覚を錯覚だと認識出来なくなる
特に 振り込め詐欺師の手口のように「今日中にナントカならないか」と焦らされると 理性をすっ飛ばして感情が行動と直結してしまう先天的習性があるため ヒトは振り込め詐欺に引っ掛かるような欠陥が先天的に組み込まれているわけです
本来働くはずの論理的客観性というものが 様々な要因によって阻害され 動物的な主観的感覚が促す錯覚を錯覚と認識することが出来なくなって 無意味で危険な行動も平気で行えるようになるわけです
振り込め詐欺師のように焦らされなくても その場限りに気分が良くなるように誘導されると養老孟司のオカルト話も簡単に鵜呑みにしてしまう習性が ヒトという種の生物には普遍的に存在しているのです
「意識の9割は無意識である」と言われますが この「9割」という数字に論理的根拠はなく 「まあ 大体そんくらいだろう」という感覚的な数値でしかありません
それこそカルト宗教に心酔しちまっているバカなら100%無意識なので 地下鉄に毒ガス散布することも平気になっちゃう
ISILを「カッコイイ」と心酔しちまえば 簡単にISILに同調迎合するようにもなる
それはヤクザや暴力団も一緒です ヤクザを「カッコイイ」と思う人って結構多いために 都合の良い任侠映画が未だに制作されていたりします
ヤクザはそんなに都合良く社会的に役に立つような行動なんぞしませんが 主観的感覚としての「カッコイイ」対象としての身勝手な任侠妄想で脳が酔うのでしょう
フリードリヒ:ニーチェを読んで倫理だと勘違いしているバカ哲学者も多いんですが これもまた「カッコイイ」という主観的感覚が促す錯覚によって無意味な内容であるにも関わらず錯覚を錯覚だと認識出来ていないためです
ハイデガーもプラトンも意味がありません
哲学として意味があるのはカール:ライムンド:ポパーくらいしかないんですよ
そりゃ主観的感覚としては「面白く」はないでしょうよ でもね その「面白く」ないというのは国会原発事故調査委員会報告書読んだって一緒なんですよ
社会安全性に必要なのは 自律的な社会的責任判断力であって それが「面白く」ないかどうか「カッコイイ」かどうかという主観的感覚で無視して良い話にはならんでしょ
もうね 本当ね 説明していてバカらしくなってくるわ
「お前ら 死んだ方が良いんじゃねぇのか?」って 主観的感覚としては「思う」けどな
>*:任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけ ず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。 現代的にはヤクザと重複する面もあるが 依拠する信念を違える。
-Wikipediaより
Ende;