小林康夫(東大名誉教授)は共感性を人間性だと錯覚しているが
多数派同調迎合性が人間性に反する行動を促す例はいくらでもある
振り込め詐欺集団が統率協調性を発揮するのも共感性によるものであり
ISILなどのテロリスト集団も同じである
感覚的な共感というのは気分的安心をも得られるため これを短絡的に「人間性」だと勝手に勘違いしているに過ぎない
何せ先天的な本能習性レベルに組み込まれた行動バイアスであるため 統率的協調性に快楽を感じるのは当然とも言えるものである
感覚的に共感していれば 気分的には安心満足感が得られるのだが それは論理客観的な安全性の論証にもならなければ付随する人間性の論証にもならない
気分的に安心満足して原発を暴走させたり 軽トラ転覆させたりして人間性もスッタクレもあったものではないからだ
大体において哲学者と呼ばれる奴らは 目先の気分感覚的な安心満足感を短絡的に人間性や安全性だと錯覚しており 全く持って論理客観的検証に基づく「考え」が成立していない
だからこそマルクス:ガブリエルのようなオカルト観念が哲学界で人気になるのであって もはや哲学としての社会的責任を一切果たしていないのである
「思って」いることの強度程度をどんなに主張しても それは大多数の大衆のご機嫌取りにはなっても 論理客観的な「考え」に基づく論証には一切ならない
「思い」だの「感覚」だのを優先しているから錯覚を錯覚だと認識出来ないのであって 現在の哲学界は養老孟司のオカルト性や生物進化万能論に迎合するだけで 何ら論理的検証を一切していないのである
マスコミ関係者の大半も同様であり 目先の気分的安心に溺れ 虜になり 責任意識が全く働いていないのである
大衆マスコミにとっては養老孟司はさぞかし「面白い」のであろう
だが そうした「感覚」に意識を奪われ 論理客観的な検証も一切せずに鵜呑みにしているのは ただのバカとしか言いようがない
養老は「感覚こそが人間性」の源であるかのように誘導するが それこそが養老の罠である
「ヒトを騙そうとする者にとって カモを見つけるのは簡単である」(マキアベリ)
気分の悪い話をすると 悪人だと感覚的には「思う」のであろうが
本当に嘘をつく奴というのは 騙している相手が気分良くなるようなことしか言わないのである
詐欺被害者は 電話の相手の言葉遣いが丁寧なだけで「本当に警察官だと思った まさか詐欺師だとは思わなかった」と言う
その「感覚」というのは 先天的なヒト由来の動物的意識レベルの主体性のない無意識なのである
「信じたくない」かどうかは私の知ったことではない
それこそが主観的好き嫌いの範疇であって 論理客観性を欠いてしまう原因だからである
カルト宗教の信者が 「お前の信じている教祖はキチガイだぞ」と言われて「信じたくない」と「感覚的」に「思う」ことに意味がないのと同じことである
ヒトのカルト性というのは ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた錯覚によって促される欠陥が作り出すものであり
だからこそ哲学という論理客観性が必要なのだが小林康夫みたいなオカルトジジイが哲学者として扱われていること自体が異常なのである
科学や哲学は多数決ではない
あくまで論理客観的論証に拠るべき真理 「本当の事」に基づいているからこそ 社会安全性に寄与出来るのである
Ende;
多数派同調迎合性が人間性に反する行動を促す例はいくらでもある
振り込め詐欺集団が統率協調性を発揮するのも共感性によるものであり
ISILなどのテロリスト集団も同じである
感覚的な共感というのは気分的安心をも得られるため これを短絡的に「人間性」だと勝手に勘違いしているに過ぎない
何せ先天的な本能習性レベルに組み込まれた行動バイアスであるため 統率的協調性に快楽を感じるのは当然とも言えるものである
感覚的に共感していれば 気分的には安心満足感が得られるのだが それは論理客観的な安全性の論証にもならなければ付随する人間性の論証にもならない
気分的に安心満足して原発を暴走させたり 軽トラ転覆させたりして人間性もスッタクレもあったものではないからだ
大体において哲学者と呼ばれる奴らは 目先の気分感覚的な安心満足感を短絡的に人間性や安全性だと錯覚しており 全く持って論理客観的検証に基づく「考え」が成立していない
だからこそマルクス:ガブリエルのようなオカルト観念が哲学界で人気になるのであって もはや哲学としての社会的責任を一切果たしていないのである
「思って」いることの強度程度をどんなに主張しても それは大多数の大衆のご機嫌取りにはなっても 論理客観的な「考え」に基づく論証には一切ならない
「思い」だの「感覚」だのを優先しているから錯覚を錯覚だと認識出来ないのであって 現在の哲学界は養老孟司のオカルト性や生物進化万能論に迎合するだけで 何ら論理的検証を一切していないのである
マスコミ関係者の大半も同様であり 目先の気分的安心に溺れ 虜になり 責任意識が全く働いていないのである
大衆マスコミにとっては養老孟司はさぞかし「面白い」のであろう
だが そうした「感覚」に意識を奪われ 論理客観的な検証も一切せずに鵜呑みにしているのは ただのバカとしか言いようがない
養老は「感覚こそが人間性」の源であるかのように誘導するが それこそが養老の罠である
「ヒトを騙そうとする者にとって カモを見つけるのは簡単である」(マキアベリ)
気分の悪い話をすると 悪人だと感覚的には「思う」のであろうが
本当に嘘をつく奴というのは 騙している相手が気分良くなるようなことしか言わないのである
詐欺被害者は 電話の相手の言葉遣いが丁寧なだけで「本当に警察官だと思った まさか詐欺師だとは思わなかった」と言う
その「感覚」というのは 先天的なヒト由来の動物的意識レベルの主体性のない無意識なのである
「信じたくない」かどうかは私の知ったことではない
それこそが主観的好き嫌いの範疇であって 論理客観性を欠いてしまう原因だからである
カルト宗教の信者が 「お前の信じている教祖はキチガイだぞ」と言われて「信じたくない」と「感覚的」に「思う」ことに意味がないのと同じことである
ヒトのカルト性というのは ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた錯覚によって促される欠陥が作り出すものであり
だからこそ哲学という論理客観性が必要なのだが小林康夫みたいなオカルトジジイが哲学者として扱われていること自体が異常なのである
科学や哲学は多数決ではない
あくまで論理客観的論証に拠るべき真理 「本当の事」に基づいているからこそ 社会安全性に寄与出来るのである
Ende;