Wikipediaで「任侠」を調べてみると
任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけ ず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。
と書いてありました
映画で描かれるヤクザは任侠精神に富んだ人物として描かれますが これは映画制作者や脚本家が 「ヤクザはカッコイイ存在なので 人格にも優れた人物として描きたい」という 主観的で勝手な妄想に基づいてでっちあげたお伽話でしかありません
夜の9時頃から2~3時間の枠で放送されるサスペンスドラマの類でも 殺人犯は復讐のために繁雑でややこしいトリックを用いてアリバイ工作をしていたりしますが
実際の殺人犯が巧妙で複雑なトリックなんぞ考えて殺人をやった例などほとんど皆無なんですね
巧妙で複雑なトリックを考えられるだけの理性があれば 殺人による復讐より もっと合理的で建設的な再発防止のための社会運動や取り組みをするものです
本当の殺人犯というのは 「ムシャクシャしたから」だとか「腹が立ったから」などといった非常に短絡的で「本当につまらない理由」しか出て来ません
でも ミステリーやサスペンスドラマに登場する殺人犯の動機が「ムシャクシャしたから殺した」では話がどうにもつまらないので 何か尊大風味な復讐劇を描いてエンターテイメント妄想をでっちあげているだけなんですね
それと同じで任侠ものの映画も 本物のバカなヤクザをリアルに描いても「かっこよく」もなければ人間として感情移入も出来ないので 大衆観念にとって都合よく感情移入しやすい「カッコイイ」人格をでっちあげたエンターテイメント妄想に過ぎないのです
ヒトという種の生物の脳には 様々な錯覚が生じることがあります
見た目がヤクザ風味の人物が 話をしたら意外と普通だった場合に必要以上に「良い人だ」と錯覚するゲイン効果や
異性と一緒に恐怖体験をすると恋愛時と似たような脳内物質が分泌されるために 異性を好きになってしまう吊橋効果など
感覚が促す錯覚によって行動を大きく左右されてしまうことも少なくありません
暴力的DV男に引っ掛かる女も 暴力性の恐怖が促す脳内物質が促す錯覚が DV男への異常執着へと促しているのかも知れません
ヒトは 主観的感覚が促す錯覚を 論理客観的に検証出来ないと 簡単に意味のない危険な行動でも採るようになってしまうことも少なくありません
学力成績偏差値の極端に高い子供が出てくると 多くのヒトは「とても頭が良いので 将来はノーベル賞も取れる優秀な研究者になれるはずだ」などと勝手に妄想しますが 残念ながら学力偏差値というのは認知科学的には無関係であることが言われており 実際学年を飛び級するような学力偏差値の極端に高い子供は大人になると意外と「普通の人」になっていることがほとんどであり 「学力成績=知能」という方程式は多数の大衆が勝手にでっちあげた妄想錯覚でしかないのです
知識の「量」さえ豊富であれば 大衆観念的には「頭が良い」という「感覚」を持ってしまいがちですが これもまた錯覚に過ぎません
ですからクイズの正解率を競うだけで「東大王」などと奉り上げたがるわけですが もちろんこれも科学的にも統計的にも認知科学的にも何の根拠もない ただの大衆観念上のフィクション妄想でしかありません
どんなに既存の知識の「量」があっても 知っている内容に論理的誤謬(ごびゅう)が存在していることに気付かなければ本質的には知能ではなく ノーベル賞になるような科学的業績にも原理的になりません
間違ったことを教えられて 何ら自発的論理客観的検証も出来ないのであれば 誰からも教えられていない新しい事実には全く気付かない事を意味します
養老は 「個性なんぞ精神病患者が糞で自分の名前を壁に書くのと一緒だ」などと称して 「個性の全ては意味がない」かのように言い張ります
ところがどっこい 養老の言っているトンチンカンな話に関しては 「個性的」などと鵜呑みにし 主観的に「面白い」と称してあたかも意味のある画期的な内容であるかのように錯覚したがります
要するに大衆やマスコミは誰一人として客観的論理検証なんぞしていないんですね
誰も理解なんぞしていない
その場限りに主観的に「面白い」かどうかだけを基準に取り上げたがる
そして それを無責任だとも「思って」いない
身体の個性 動物的な個性というのは危険で迷惑なものもあります しかし 危険で迷惑かどうかを客観的に検証するのは自律であり 主体性なくして働くことはありません
自己の個性を客観的に認識し どのように社会の中で発揮すれば安全性を保てるのか それを「考え」るのは主体性であり理性です
感情でもなければ主観でもなく あくまで論理的客観性によって統合的に検証することで人間性として機能するのであって 多数大衆にウケの良い話で人気取りをして金儲けに成功することが人間性の論証ではないのです
養老は言葉巧みに雑な屁理屈を持ちだして「主体性など錯覚だ」などと言い出し 大衆マスコミや バカな理工系研究者まで騙します
「主体性」と言うと あたかも感情の程度強度に起因する行動バイアスまで含まれると 一般人は「思う」でしょう
いやね その「思い」こそが錯覚であり 感覚が促すバイアスでしかないんですよ
本当の主体性 人間としての主体性というのは 論理客観的に自己の気分感情をも制御して初めて「自律」も発揮されるのであって 気分感情が行動と直結してたらイヌやネコやサルと一緒なんですよ
面倒臭いですか?
もっと簡単に人間性を発揮出来るようになっていたら良いと思いますか?
自分で自分の感情を客観視するなんていうややこしい事は スルーしたいですか?
それなら東京電力福島第一原発の津波に対する脆弱性放置についても 誰もとかやく言える立場にないんですよ
皆さんは 通り魔やテロは主体性だと「思って」いるのでしょうか?
通り魔やテロリストというのは 主観的感情論の短絡的暴走であり 自律的な自己制御が出来ないヒト達の典型的行動結果であって 彼らには本質的な人間としての主体性はありません
テロリストや通り魔の主張に良くみられるのが 「社会が悪い」という茫漠とした怨念です
具体的に社会のどこが どう悪いのかを論理的に説明することもなければ 当然実効性のある改善案も提案せずに 短絡的に暴力的破壊で「解決だ」と錯覚しているに過ぎないのです
こうした錯覚は 主観的感覚の産物であり 「懲罰で解決だ」という感覚が促す錯覚が根源にあるのです
ヒトの脳は「懲罰を解決だ」と錯覚する性質が普遍的に見られます
だから刑法罰という合理性のない制度が何百年も続いている
犯罪者が どのような構造によって社会的責任判断力を獲得出来なかったのかについての論理的原因分析を一切行わずに 罰を与えて気分的抑圧感だけを唯一最大の「抑止力」だと勘違いしている
女子中学生監禁事件の寺内樺風は 自分の行いを「美術品を盗むよりは悪いことではないと思っていた」などと言いました
もう この時点で 「犯罪は罰とのトレード関係であって 自己の欲望を満たすためには罰を甘んじて受けることも致し方ないものである」という発想に基づいているわけです
イカレてるんですよ
だから刑務所に9年くらいぶち込んでも治らない
治る合理的根拠が何もない
罰が更正治療になると「思って」いるのは 常人の発想であって イカレた奴には通用しない
だから再犯率が48%にも達する
死刑が抑止力になると「思う」のも 常人の発想であって 通り魔を死刑にしても 通り魔事件って何度も繰り返すんですよ だって自暴自棄なんですから彼らにとって死刑は「願ったり叶ったり」になってしまっている
本当に 本気で犯罪の再発防止をしたいのであれば なぜ脳がイカレちまったのかを論理的に分析して再発防止策に繋げなければならない
養育環境や交友関係 先天的行動バイアスの傾向 様々な要因を分析して犯罪者に共通する「脳がイカレちまう原因」について徹底的に分析する必要性がある
大衆観念上では 「犯罪者は親も悪い」と見なして犯罪者の家族に対してまでも私的な懲罰として社会的排除差別をすることが赦されると思っている
何たって国家権力が罰を解決と見なしている訳ですから 何も考えないバカならそういう発想になってもおかしくはない
そもそも 「どういう育て方をしたら犯罪者になってしまうのか」についての具体的知識教訓もないのに 犯罪者の親を悪者扱いすることには合理性もスッタクレもありません
親っていうのは全員初心者ですから 間違いが起きても仕方ないものであり そもそもヒトの全ては人生の初心者なのであって 過去の具体的知識教訓を知ることによって 同じ間違いに陥らないようにすることが重要なわけです
犯罪者を罰しようとした民衆をキリストが止めに入り 「もしこの者に罰を与えるというのであれば 産まれてこの方 一切の罪を犯したことのない者が罰すればよろしい」と言うと 誰も前に出てこなかったそうです
聖書の逸話ですから実話かどうかは知りませんけど 産まれてこの方一切の過失を経験していない奴なんかいるわけないんですね
「ヒトは間違える」ことを前提にすれば 論理的に罰は解決にはならないんですよ
ヒトは罪を犯すと悔やんだり落ち込んだり凹んだりしますけど それは気分的な後悔でしかなく 具体性のある論理的再発防止策にはなりません
犯罪者が気分的に後悔していないからといって 罰を用いて強制的に後悔させても同じことです
気分的な後悔とか反省が再発防止策になると「思って」いる感覚こそが錯覚なんですよ
ヒトの多くは間違えています
マスコミ関係者の多くは まさか「養老孟司が非科学的オカルト観念に基づいた嘘を言っている」ことなど夢にも「思って」いないのでしょう
言っておきますが マルクス:ガブリエルの言う「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」なんて話がオカルトだとは 私以外誰も言ってないんですよ
それでも「自分は洗脳されていない」と言い張るおつもりか?
自分では気付かなかったことは「俺のせいじゃねぇ」と言い張るおつもりか?
マスコミはオカルトだろうが何だろうが とにかく多数から話題になっている内容なら垂れ流して構わないと思っている
もし間違っていたとしても 「メディアリテラシー」と称して判断は視聴者に丸投げしている
AI研究者の間で言われている「蒸留」という概念がありますが
要は効率的に高速化された無意識な条件反射性に落としこまれた状態だと言えます
無意識は感覚を生み出します
感覚っていうのは 要するに理論的に説明出来ないものを指しているわけですね
老練な将棋の棋士が感覚的に将棋を指すからといって 短絡的に「感覚こそが常に正しい」などという話にはどう考えたってなるわきゃない
将棋のド素人が感覚的に将棋指したって どうにもなりゃしないんですから
錯視というのは 視覚認識能力に生じた欠陥で これが原因で見通しの良い水田のど真ん中の交差点で衝突事故が起きたりすることもある
錯視による誤解というのは AIでも再現可能なものだそうで 視覚認識能力を獲得する過程で避けることが出来ないもののようです
「蒸留」によって高速化効率化された認識能力による「感覚」には 錯覚が含まれる危険性が避けられない
「だろう運転」が良くないのは 「大丈夫だろう」という「感覚」には論理的安全性の根拠がないからです
危険学や失敗学でも「感覚」を優先することはありません
徹底的に理論的分析を行って再発防止策を構築する それが一番安全だからです
厚生労働省の医薬品認可が非常に難しいのも 安全性を優先しているからです
「どうせ津波なんぞ来ないだろう」運転をしたからこそ あの重大事故に発展したんですよ
「まさか養老孟司は嘘なんかついてないだろう」で鵜呑みにしていれば 何が起きてもおかしくはありませんよ
あ あれ?
Twitterへのコメント機能がなくなっちゃったのかよ!
あ 文字数制限がなくなったから全文載るのかぁ
ちょっとビックリ
Ende;
任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけ ず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。
と書いてありました
映画で描かれるヤクザは任侠精神に富んだ人物として描かれますが これは映画制作者や脚本家が 「ヤクザはカッコイイ存在なので 人格にも優れた人物として描きたい」という 主観的で勝手な妄想に基づいてでっちあげたお伽話でしかありません
夜の9時頃から2~3時間の枠で放送されるサスペンスドラマの類でも 殺人犯は復讐のために繁雑でややこしいトリックを用いてアリバイ工作をしていたりしますが
実際の殺人犯が巧妙で複雑なトリックなんぞ考えて殺人をやった例などほとんど皆無なんですね
巧妙で複雑なトリックを考えられるだけの理性があれば 殺人による復讐より もっと合理的で建設的な再発防止のための社会運動や取り組みをするものです
本当の殺人犯というのは 「ムシャクシャしたから」だとか「腹が立ったから」などといった非常に短絡的で「本当につまらない理由」しか出て来ません
でも ミステリーやサスペンスドラマに登場する殺人犯の動機が「ムシャクシャしたから殺した」では話がどうにもつまらないので 何か尊大風味な復讐劇を描いてエンターテイメント妄想をでっちあげているだけなんですね
それと同じで任侠ものの映画も 本物のバカなヤクザをリアルに描いても「かっこよく」もなければ人間として感情移入も出来ないので 大衆観念にとって都合よく感情移入しやすい「カッコイイ」人格をでっちあげたエンターテイメント妄想に過ぎないのです
ヒトという種の生物の脳には 様々な錯覚が生じることがあります
見た目がヤクザ風味の人物が 話をしたら意外と普通だった場合に必要以上に「良い人だ」と錯覚するゲイン効果や
異性と一緒に恐怖体験をすると恋愛時と似たような脳内物質が分泌されるために 異性を好きになってしまう吊橋効果など
感覚が促す錯覚によって行動を大きく左右されてしまうことも少なくありません
暴力的DV男に引っ掛かる女も 暴力性の恐怖が促す脳内物質が促す錯覚が DV男への異常執着へと促しているのかも知れません
ヒトは 主観的感覚が促す錯覚を 論理客観的に検証出来ないと 簡単に意味のない危険な行動でも採るようになってしまうことも少なくありません
学力成績偏差値の極端に高い子供が出てくると 多くのヒトは「とても頭が良いので 将来はノーベル賞も取れる優秀な研究者になれるはずだ」などと勝手に妄想しますが 残念ながら学力偏差値というのは認知科学的には無関係であることが言われており 実際学年を飛び級するような学力偏差値の極端に高い子供は大人になると意外と「普通の人」になっていることがほとんどであり 「学力成績=知能」という方程式は多数の大衆が勝手にでっちあげた妄想錯覚でしかないのです
知識の「量」さえ豊富であれば 大衆観念的には「頭が良い」という「感覚」を持ってしまいがちですが これもまた錯覚に過ぎません
ですからクイズの正解率を競うだけで「東大王」などと奉り上げたがるわけですが もちろんこれも科学的にも統計的にも認知科学的にも何の根拠もない ただの大衆観念上のフィクション妄想でしかありません
どんなに既存の知識の「量」があっても 知っている内容に論理的誤謬(ごびゅう)が存在していることに気付かなければ本質的には知能ではなく ノーベル賞になるような科学的業績にも原理的になりません
間違ったことを教えられて 何ら自発的論理客観的検証も出来ないのであれば 誰からも教えられていない新しい事実には全く気付かない事を意味します
養老は 「個性なんぞ精神病患者が糞で自分の名前を壁に書くのと一緒だ」などと称して 「個性の全ては意味がない」かのように言い張ります
ところがどっこい 養老の言っているトンチンカンな話に関しては 「個性的」などと鵜呑みにし 主観的に「面白い」と称してあたかも意味のある画期的な内容であるかのように錯覚したがります
要するに大衆やマスコミは誰一人として客観的論理検証なんぞしていないんですね
誰も理解なんぞしていない
その場限りに主観的に「面白い」かどうかだけを基準に取り上げたがる
そして それを無責任だとも「思って」いない
身体の個性 動物的な個性というのは危険で迷惑なものもあります しかし 危険で迷惑かどうかを客観的に検証するのは自律であり 主体性なくして働くことはありません
自己の個性を客観的に認識し どのように社会の中で発揮すれば安全性を保てるのか それを「考え」るのは主体性であり理性です
感情でもなければ主観でもなく あくまで論理的客観性によって統合的に検証することで人間性として機能するのであって 多数大衆にウケの良い話で人気取りをして金儲けに成功することが人間性の論証ではないのです
養老は言葉巧みに雑な屁理屈を持ちだして「主体性など錯覚だ」などと言い出し 大衆マスコミや バカな理工系研究者まで騙します
「主体性」と言うと あたかも感情の程度強度に起因する行動バイアスまで含まれると 一般人は「思う」でしょう
いやね その「思い」こそが錯覚であり 感覚が促すバイアスでしかないんですよ
本当の主体性 人間としての主体性というのは 論理客観的に自己の気分感情をも制御して初めて「自律」も発揮されるのであって 気分感情が行動と直結してたらイヌやネコやサルと一緒なんですよ
面倒臭いですか?
もっと簡単に人間性を発揮出来るようになっていたら良いと思いますか?
自分で自分の感情を客観視するなんていうややこしい事は スルーしたいですか?
それなら東京電力福島第一原発の津波に対する脆弱性放置についても 誰もとかやく言える立場にないんですよ
皆さんは 通り魔やテロは主体性だと「思って」いるのでしょうか?
通り魔やテロリストというのは 主観的感情論の短絡的暴走であり 自律的な自己制御が出来ないヒト達の典型的行動結果であって 彼らには本質的な人間としての主体性はありません
テロリストや通り魔の主張に良くみられるのが 「社会が悪い」という茫漠とした怨念です
具体的に社会のどこが どう悪いのかを論理的に説明することもなければ 当然実効性のある改善案も提案せずに 短絡的に暴力的破壊で「解決だ」と錯覚しているに過ぎないのです
こうした錯覚は 主観的感覚の産物であり 「懲罰で解決だ」という感覚が促す錯覚が根源にあるのです
ヒトの脳は「懲罰を解決だ」と錯覚する性質が普遍的に見られます
だから刑法罰という合理性のない制度が何百年も続いている
犯罪者が どのような構造によって社会的責任判断力を獲得出来なかったのかについての論理的原因分析を一切行わずに 罰を与えて気分的抑圧感だけを唯一最大の「抑止力」だと勘違いしている
女子中学生監禁事件の寺内樺風は 自分の行いを「美術品を盗むよりは悪いことではないと思っていた」などと言いました
もう この時点で 「犯罪は罰とのトレード関係であって 自己の欲望を満たすためには罰を甘んじて受けることも致し方ないものである」という発想に基づいているわけです
イカレてるんですよ
だから刑務所に9年くらいぶち込んでも治らない
治る合理的根拠が何もない
罰が更正治療になると「思って」いるのは 常人の発想であって イカレた奴には通用しない
だから再犯率が48%にも達する
死刑が抑止力になると「思う」のも 常人の発想であって 通り魔を死刑にしても 通り魔事件って何度も繰り返すんですよ だって自暴自棄なんですから彼らにとって死刑は「願ったり叶ったり」になってしまっている
本当に 本気で犯罪の再発防止をしたいのであれば なぜ脳がイカレちまったのかを論理的に分析して再発防止策に繋げなければならない
養育環境や交友関係 先天的行動バイアスの傾向 様々な要因を分析して犯罪者に共通する「脳がイカレちまう原因」について徹底的に分析する必要性がある
大衆観念上では 「犯罪者は親も悪い」と見なして犯罪者の家族に対してまでも私的な懲罰として社会的排除差別をすることが赦されると思っている
何たって国家権力が罰を解決と見なしている訳ですから 何も考えないバカならそういう発想になってもおかしくはない
そもそも 「どういう育て方をしたら犯罪者になってしまうのか」についての具体的知識教訓もないのに 犯罪者の親を悪者扱いすることには合理性もスッタクレもありません
親っていうのは全員初心者ですから 間違いが起きても仕方ないものであり そもそもヒトの全ては人生の初心者なのであって 過去の具体的知識教訓を知ることによって 同じ間違いに陥らないようにすることが重要なわけです
犯罪者を罰しようとした民衆をキリストが止めに入り 「もしこの者に罰を与えるというのであれば 産まれてこの方 一切の罪を犯したことのない者が罰すればよろしい」と言うと 誰も前に出てこなかったそうです
聖書の逸話ですから実話かどうかは知りませんけど 産まれてこの方一切の過失を経験していない奴なんかいるわけないんですね
「ヒトは間違える」ことを前提にすれば 論理的に罰は解決にはならないんですよ
ヒトは罪を犯すと悔やんだり落ち込んだり凹んだりしますけど それは気分的な後悔でしかなく 具体性のある論理的再発防止策にはなりません
犯罪者が気分的に後悔していないからといって 罰を用いて強制的に後悔させても同じことです
気分的な後悔とか反省が再発防止策になると「思って」いる感覚こそが錯覚なんですよ
ヒトの多くは間違えています
マスコミ関係者の多くは まさか「養老孟司が非科学的オカルト観念に基づいた嘘を言っている」ことなど夢にも「思って」いないのでしょう
言っておきますが マルクス:ガブリエルの言う「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」なんて話がオカルトだとは 私以外誰も言ってないんですよ
それでも「自分は洗脳されていない」と言い張るおつもりか?
自分では気付かなかったことは「俺のせいじゃねぇ」と言い張るおつもりか?
マスコミはオカルトだろうが何だろうが とにかく多数から話題になっている内容なら垂れ流して構わないと思っている
もし間違っていたとしても 「メディアリテラシー」と称して判断は視聴者に丸投げしている
AI研究者の間で言われている「蒸留」という概念がありますが
要は効率的に高速化された無意識な条件反射性に落としこまれた状態だと言えます
無意識は感覚を生み出します
感覚っていうのは 要するに理論的に説明出来ないものを指しているわけですね
老練な将棋の棋士が感覚的に将棋を指すからといって 短絡的に「感覚こそが常に正しい」などという話にはどう考えたってなるわきゃない
将棋のド素人が感覚的に将棋指したって どうにもなりゃしないんですから
錯視というのは 視覚認識能力に生じた欠陥で これが原因で見通しの良い水田のど真ん中の交差点で衝突事故が起きたりすることもある
錯視による誤解というのは AIでも再現可能なものだそうで 視覚認識能力を獲得する過程で避けることが出来ないもののようです
「蒸留」によって高速化効率化された認識能力による「感覚」には 錯覚が含まれる危険性が避けられない
「だろう運転」が良くないのは 「大丈夫だろう」という「感覚」には論理的安全性の根拠がないからです
危険学や失敗学でも「感覚」を優先することはありません
徹底的に理論的分析を行って再発防止策を構築する それが一番安全だからです
厚生労働省の医薬品認可が非常に難しいのも 安全性を優先しているからです
「どうせ津波なんぞ来ないだろう」運転をしたからこそ あの重大事故に発展したんですよ
「まさか養老孟司は嘘なんかついてないだろう」で鵜呑みにしていれば 何が起きてもおかしくはありませんよ
あ あれ?
Twitterへのコメント機能がなくなっちゃったのかよ!
あ 文字数制限がなくなったから全文載るのかぁ
ちょっとビックリ
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