ハロウィーンに渋谷で暴れていたようなバカっていうのは 他に楽しみがないから泥酔して暴れるんじゃないかと思う
TBSの「クレイジージャーニー」に出てくる植物探検家の長谷圭祐とか爬虫類学者の加藤英明みたいに 本当に好きで熱中できることが見つかればバカっていなくなるんじゃなかろうかと思っている
小柴昌俊は「自分は何が本当に好きなのかは、実際にある程度やってみないとわからない。」と言ってたんだけど
他人からの見た目とか 同調圧力とかに負けて やってみたいことを試したこともないから何が純粋に楽しいのかを知ることが出来ないんじゃないかと思う
自分が本当に好きなことを知らない大多数の大衆は ちょっと他人と違うことをするだけで「格好悪い」だとか「そんなことをして何の意味があるんだ」とか「スルメ見てイカが解るか」的に見下すことで その場限りの優越感を得ようとする
純粋に好きなことなら その「好き」ということだけで個人にとっては主観的価値になる 金にならなくても 評価にならなくても 個人が主観的に好きなことで他人に迷惑がかからないなら他人にとやかく言われる筋あいはないのだが
他人の評価承認欲求が強いと多数他人からその場限りの劣等感を植え付けるようなことを言われると 簡単に本当に純粋に主観的に好きなことをやらなくなってしまい
結果的に「何が楽しいのか 何もわからない」状態に陥って 渋谷で泥酔して暴れたりすることになる
本質的な主体性とか 自発性がなくて その場限りに他人からの評価承認ばっかり追求しているもんだから 自律的な社会的責任判断すら出来なくなる
そうやってバカな犯罪者というのは出来上がる
ある意味 ヒトは誰しもバカな部分 クレイジーな部分というのはあって そのクレイジーな部分を何にどう使うのかという自律的な選択可能性があれば 他人に迷惑な行為には走らない
多数他人からの その場限りの誹謗中傷というのは 別に鵜呑みにしたからといって誰の何の保障にもならない
アンタが他人の行動をとやかく言っている時に 相手の何かを保障したり考えたりして言っているかい? どうせその場限りに相手を見下して優位に立ったような錯覚に陥って満足しているだけだろうよ
根拠のないくさし合いを鵜呑みにしているからこそ 本当に好きなことが何なのかを見失い 結果的に自律的な社会的責任判断力まで喪失し 迷惑行為ばっかりするようになる
そもそも 誰にも迷惑をかけてもいないなら「そんなことして何になる」的な評価を 何も考えていないバカに言われる筋あいはない
他人をくさして優位に立ったような錯覚を得たいがために言っている無責任な評価に対し あまりに無意識に流され過ぎなんじゃなかろうかと
オラは思うだよ
誰も他人の事なんか 本当は感心も興味もありゃしない 「そんなことして 何になる」的な幼稚で軽薄な評価というのは 相手の事を深く考えて言っているわけではなくて むしろ言っている自分の無能を正当化して優位に立ったような錯覚に陥りたいだけなんだよね
ノーベル賞受賞者の小柴昌俊が「本当に好きなことをみつけるためには」とか 益川敏英が「嫌いなことや苦手なことはそんなにやらなくて良いから、好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と述べるのは 言うなれば自分のクレイジーさを何に使うかを選択出来るようになるために必要だから言っている
植物の新種を見つけるには 誰も入ったこともない泥まみれのジャングルに立ち入らなければならない
泥水に足を入れればヒルが山ほどたかってくるでしょ それと同じで自分が本当に好きなことを続けようとすれば 「そんなことして 何になる」的にくさしてくるバカも山ほどたかってくる
無防備にくるぶしソックスで足を踏み入れるからヒルに噛まれるんであって ちゃんと長靴履いてガムテープで密閉しとけば大丈夫なのと一緒で 相手の言っていることが本当に意味のあることなのかどうかを分別がつけられるようにしておくことで 根拠のない誹謗中傷に負けることのない「自己」の主体的「意思」を貫くことが出来るようになる
主体性のない糞DQNっていうのは 主体性のない糞DQN同士で幼稚な観念を共有共鳴することで その場限りに気分的安心満足を得ているに過ぎない
だから軽トラ転覆させて喜んでいる
軽トラを転覆させるためには 多数で統率的協調性を発揮しなければならないが その統率的協調性を何に発揮するべきなのかという方向性は糞DQNにはない
そもそもエタノールで脳を麻痺させる程泥酔している時点で 方向性という「目的」意識は働いていないのである
それは 個人が個人であることの 他人との代替が効かない本質的自己の存在 尊厳というものがない状態である
意識とは その場限りの優越感や劣等感とは関係がない
優越感や劣等感 安心や満足といった感覚的なものの全ては 先天的な脳の行動バイアスによって促されている無意識であり 自主的主体的に「考え」た目的行動選択という意識とは全く別のものなのである
Ende;
TBSの「クレイジージャーニー」に出てくる植物探検家の長谷圭祐とか爬虫類学者の加藤英明みたいに 本当に好きで熱中できることが見つかればバカっていなくなるんじゃなかろうかと思っている
小柴昌俊は「自分は何が本当に好きなのかは、実際にある程度やってみないとわからない。」と言ってたんだけど
他人からの見た目とか 同調圧力とかに負けて やってみたいことを試したこともないから何が純粋に楽しいのかを知ることが出来ないんじゃないかと思う
自分が本当に好きなことを知らない大多数の大衆は ちょっと他人と違うことをするだけで「格好悪い」だとか「そんなことをして何の意味があるんだ」とか「スルメ見てイカが解るか」的に見下すことで その場限りの優越感を得ようとする
純粋に好きなことなら その「好き」ということだけで個人にとっては主観的価値になる 金にならなくても 評価にならなくても 個人が主観的に好きなことで他人に迷惑がかからないなら他人にとやかく言われる筋あいはないのだが
他人の評価承認欲求が強いと多数他人からその場限りの劣等感を植え付けるようなことを言われると 簡単に本当に純粋に主観的に好きなことをやらなくなってしまい
結果的に「何が楽しいのか 何もわからない」状態に陥って 渋谷で泥酔して暴れたりすることになる
本質的な主体性とか 自発性がなくて その場限りに他人からの評価承認ばっかり追求しているもんだから 自律的な社会的責任判断すら出来なくなる
そうやってバカな犯罪者というのは出来上がる
ある意味 ヒトは誰しもバカな部分 クレイジーな部分というのはあって そのクレイジーな部分を何にどう使うのかという自律的な選択可能性があれば 他人に迷惑な行為には走らない
多数他人からの その場限りの誹謗中傷というのは 別に鵜呑みにしたからといって誰の何の保障にもならない
アンタが他人の行動をとやかく言っている時に 相手の何かを保障したり考えたりして言っているかい? どうせその場限りに相手を見下して優位に立ったような錯覚に陥って満足しているだけだろうよ
根拠のないくさし合いを鵜呑みにしているからこそ 本当に好きなことが何なのかを見失い 結果的に自律的な社会的責任判断力まで喪失し 迷惑行為ばっかりするようになる
そもそも 誰にも迷惑をかけてもいないなら「そんなことして何になる」的な評価を 何も考えていないバカに言われる筋あいはない
他人をくさして優位に立ったような錯覚を得たいがために言っている無責任な評価に対し あまりに無意識に流され過ぎなんじゃなかろうかと
オラは思うだよ
誰も他人の事なんか 本当は感心も興味もありゃしない 「そんなことして 何になる」的な幼稚で軽薄な評価というのは 相手の事を深く考えて言っているわけではなくて むしろ言っている自分の無能を正当化して優位に立ったような錯覚に陥りたいだけなんだよね
ノーベル賞受賞者の小柴昌俊が「本当に好きなことをみつけるためには」とか 益川敏英が「嫌いなことや苦手なことはそんなにやらなくて良いから、好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と述べるのは 言うなれば自分のクレイジーさを何に使うかを選択出来るようになるために必要だから言っている
植物の新種を見つけるには 誰も入ったこともない泥まみれのジャングルに立ち入らなければならない
泥水に足を入れればヒルが山ほどたかってくるでしょ それと同じで自分が本当に好きなことを続けようとすれば 「そんなことして 何になる」的にくさしてくるバカも山ほどたかってくる
無防備にくるぶしソックスで足を踏み入れるからヒルに噛まれるんであって ちゃんと長靴履いてガムテープで密閉しとけば大丈夫なのと一緒で 相手の言っていることが本当に意味のあることなのかどうかを分別がつけられるようにしておくことで 根拠のない誹謗中傷に負けることのない「自己」の主体的「意思」を貫くことが出来るようになる
主体性のない糞DQNっていうのは 主体性のない糞DQN同士で幼稚な観念を共有共鳴することで その場限りに気分的安心満足を得ているに過ぎない
だから軽トラ転覆させて喜んでいる
軽トラを転覆させるためには 多数で統率的協調性を発揮しなければならないが その統率的協調性を何に発揮するべきなのかという方向性は糞DQNにはない
そもそもエタノールで脳を麻痺させる程泥酔している時点で 方向性という「目的」意識は働いていないのである
それは 個人が個人であることの 他人との代替が効かない本質的自己の存在 尊厳というものがない状態である
意識とは その場限りの優越感や劣等感とは関係がない
優越感や劣等感 安心や満足といった感覚的なものの全ては 先天的な脳の行動バイアスによって促されている無意識であり 自主的主体的に「考え」た目的行動選択という意識とは全く別のものなのである
Ende;