書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇ベンジャミン:フランクリン効果。

2018年12月05日 00時31分37秒 | 日記
人はなぜか、自分が助けた相手に好意を持つという。

自分のことを嫌っている相手にお金や物を借りなどの頼みごとをするとで、自分のことを好きになってくれるという心理的効果が生じるという。

(中略)

人に手を貸したとき、その人に費やした自分のエネルギーや時間を正当化しようという心理が働く。自分の敵を助けたとあっては具合が悪い。

これを心理学用語で認知的不協和と言うのだが、そのために心はその人を仲間というカテゴリーに区分するのである。


ベンジャミン・フランクリン効果 -カラパイア

これって結婚詐欺とか振り込め詐欺でも働く心理バイアスかもかも


Ende;

〇薄いということ。

2018年12月04日 14時20分50秒 | 意識論関連
「誰かに救ってもらおう」という社会的な「甘え」があるから 「自分から社会を救いたい」という主体的目的意識を喪失するのである

宗教というのは基本的に 自分の主観的気分が満足のために「神に救ってもらえる」ことが目的のため 「これさえやっときゃ全ては解決」的な短絡安易に思考停止に陥り 何も自律的に判断しなくなるよう誘導する

その意味においては 神は二つに分けられる

一つは 神の言いなりになっておけば 自発的には何も考えず 何も判断せず ただ盲目的に信頼さえしておけば全ては神がナントカしてくれるという「バカの神」である

この「バカの神」というのは宗教に限らず 共産主義ゲリラでも ナチズムでも 養老孟司でも何でも構わない

とにかく盲目的に「これさえやっときゃ 全ては解決する」という神話に基づき 自発的には何も考えずに権威と見なした相手に服従してさえおけば自動的にナントカなると思っているのである

様々な「人災」の陰には こうした合理的根拠のない神話の類を盲目的に鵜呑み信頼するという頭の悪さがある

クイズ芸人の宇治原ナントカ君が「自分は頭が良いんじゃぁ!」などと根拠もなく強弁しなければならなくなるのも「クイズの正解率こそが頭の良さだ」という神話に基づいた宗教に陥って洗脳されているからである

一見 人畜無害なように見えるかも知れないが 知能の本質が何なのかを撹乱するオカルトに他ならない

考えの浅い薄っぺらで幼稚な観念は 真理を撹乱し 社会安全性を損なう無責任なものである



何度も言うが ハインリッヒの法則に則って考えれば「ヒヤリ、ハッと事象」の段階から丹念に潰してゆくという丁寧さや慎重さというものが 安全性にとっては最も大切なのである

タレントの千秋の妄想も 大衆観念的には人畜無害なように見えるかも知れないが 幼稚で薄っぺらな考えを放置するから相模原障害者施設襲撃事件の植松聖みたいな強烈なバカが出てくる要因となるのである

多数派の無責任さというものは 多数派であるが故に責任が薄まると錯覚するのだろうが その感覚は気分的安心に過ぎず 論理的根拠を伴わない「嘘」錯覚に過ぎないのである



Ende;

〇煩悩。

2018年12月04日 13時50分45秒 | 意識論関連
個人の利益を追求するために学問があるわけではない

多数他人から評価されて世間的成功をするために学問があるわけではない

学問というのは既存の学術権威からの評価を得ることが目的ではない

目的意識とは 自発的論理検証によって合理性のある行動選択のためのものであって

これは自己の様々な情動の中から客観的合理性に基づいて選択するものであり 目先の情動の程度や強度に無意識に流されているから 主体的目的意識を喪失することになる

勝ち負けや順位序列を競うのは それが個体の生存価にとって有利だからであるが 個体が利己的に有利さを追求している社会というのは持続可能性や安全性が蔑ろにされてしまうものである

生存価というものは利己そのものである

利己的利益追求というのは 個体の生存価と同義であり 個体の生存価にとって有利な行動だけを追求すれば 必然的に社会的安全性は無視されることになる

多数他人や権威からの評価承認ばかりに意識を奪われていれば 社会安全性は自発的には追求されることはなくなる そもそも他人からの評価承認自体が本質的には自発的ではないからだ



生物学における遺伝的進化のメカニズムというものが あたかも全て合理性を伴った完全無欠の万能の願望器か何かと勘違いしているからこそ アダム:スミスの言った「見えざる神の手」などという根拠のない妄想神話を鵜呑みにすることになるのである

遺伝的進化が起きるためには 生存に適した個体以外が全て死滅する必要性がある 現在の社会の貧富格差というのは 自然界における淘汰圧力を経済に導入しようとした資本主義の必然的結果に過ぎない

つまり 資本主義というのは無数の貧困者を淘汰することで 金儲け能力が高い者だけが生き残るためのものなのである

「個人が利己的利益を追求しておけば自動的に社会全体が潤う」という 論理的には何の根拠もない妄想神話を鵜呑みにしているからこそ 貧富格差の拡大が止まらないのである

ヒトという種の生物は 多数や権威に服従同調迎合しておけば気分的に安心して何も考えなくなる 逆に言えば服従同調迎合に対する強迫観念に意識を奪われることにより自発的論理検証に意識が働かなくなるのであろう

オイラにゃそんな強迫観念があんまりないので ようわからん

多数派でよってたかって個人攻撃さえしておけば 全てが解決したかのような錯覚が「正義」の正体であり

刑罰という非合理な社会制度を「解決」だとみなして それ以上何も対策しない だから根本治療にならず 何度も同じような過ちを繰り返すことになるのである

学力成績評価こそが「救い」か何かと勘違いし 盲目的に教えられたことを鵜呑みにしていれば安心になる しかし その安心というのは盲目性が作り出した神話錯覚に過ぎない



論理的には「人が人を殺してはいけない理由」などないのだが

「人と人が殺し合うような社会に生き続ける理由」もまたないのである

生存というのは生物の結果であって 目的ではない

人間の存在意義というのは生存とは関係がなく 存在としての尊厳というものは生存価にとって不利になることも珍しいことではない

マハトマ:ガンディやルーサー:キング牧師などの非暴力主義という一方的な大人対応をしなければならなくなるのは 大多数の平均的な大衆が暴力的であることが原因である

生存にとって不利な行動選択に至ったからといって 人間としての尊厳が失われるわけではない

たとえその場限りに生存にとって有利な行動選択をしたからといって 永遠の命が得られるわけではない

人間としての尊厳においては「どう生きるか」というのは 「どう死ぬか」と同義なのである

何やら観念的に悩ましい話を読んで 悩ましい気分に陥ったことを短絡的に「自分は頭を使った」と錯覚して その錯覚で短絡的に「自分は何かを考えた」と勘違いし「自分の頭は良くなった」と妄想するのは簡単である

それはとても簡単なことであるため 大衆から人気を得られるのである



ヒトの大多数は先天的な社会形成習性が促す強迫観念行動バイアスによって 多数派に同調し 権威に服従していないと不安で仕方ないため 自律的な社会的責任判断との葛藤で悩み苦しむことに陥るのだが 「悩んで」いる時点で既に人間性としての自律的な社会的責任判断を放棄する気だろうが!

だから「煩悩」っつうんだよ!

人権のために命懸けで活動した偉人達を褒めたたえておきながら いざ自分の選択になると「悩み」苦しんだことを「考え」たと勘違いして満足する

それを「バカ」という以外にどう形容すりゃ良いのか オイラにゃさっぱりわからんわ



Ende;

〇見えざるバカの手。

2018年12月04日 03時03分46秒 | 意識論関連
自分の行動を事後正当化するためだけの言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしばかりを言っているバカを相手にしていると

「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」って言いたくなるんですけど

言っている内容に論理的根拠が何もない寝言ばかりで頭がいっぱいなので 当人の主観的には必死だったりするんですね

なので 当人的にはボーッとしている自覚がない

これは 振り込め詐欺に騙されている最中の被害者の心理状態と同じで 当人的には必死であるが故に騙されていることが認識出来ない

外見上の評価が下がることを怖れ過ぎて 強迫観念にさいなまされ 感情的には焦りとか不安とか恐怖といった強烈な情動によって寝言レベルの思考しか働かなくなってしまっているので 自己客観性というものが全く働かなくなってしまっているため 必死になってボーッとしている

論理的に物事を検証するためには 既に自分の脳に焼き付いている既製概念としての常識も含めて客観的な視点が必要です

クイズの正解率が高かったり 学力偏差値が高かったりすると 一般大衆の多くは「頭が良いね」とほめてくれるでしょう しかし その基準に論理的根拠とか科学的証明があるかと言えば ないんですねぇ

科学は多数決ではないんですよ 多数派が「そう思っている」からといって それが合理的根拠を伴った真実かどうかとは無関係なんですね

ところが 多数の大衆が学力偏差値やクイズの正解率を短絡的に「頭の良さ」だという思い込みが 合理的根拠を伴った真実ではないことを ただの一度も考えたことすらなかったという事実を受け入れるためには 自分の何が愚かだったのかを自覚認識する必要があります

でも それって気分的には嫌なんですね

論理的根拠よりも 気分が優先すれば これは科学から逸脱せざるを得ない

客観的事実や理論よりも 主観的気分感情が優先していて 一体何が科学なんでしょうか

自分の主観的な感情や気分というものが 意識そのものだと勘違いしているから 客観的事実や論理的証明が後回しになってしまうことになる

「俺様は他人よりも頭が良いんだ」という錯覚に陥って 単なる観念的優越感に浸って満足することが目的だからこそ 科学を逸脱することになる

なぜ 自分の学力成績評価が高い必要性があるのか それは他人よりも優秀であると承認されていれば生存にとって有利だという強迫観念が根底にあります

「利己的な生存価にとって有利になりたい」というのは 単なる強迫観念に過ぎず 客観的に見れば社会全体にとっては「どうでも良いハナシ」でしかありません

多数大衆から「頭が良いね」と評価されたからといって それが社会にとって何かの役に立つわけではありません

たとえ どんなに人気が出て金儲けに成功しても それは利己的利益追求に過ぎず 公益的価値など一切ありません

金儲けに成功すると 大衆は短絡的に「偉い」などと形容しますが これもまた論理的根拠がない大衆観念に過ぎません

東芝の社長とか 日産の会長といった肩書が 短絡的に人間として「偉い」ことの論証にならないでしょ それは学力成績評価も同じことです



先日 ちょっとビックリしたことがありまして ある学生が「勉強するのに必死で 何が正しくて 何が間違っているのか何て考えたこともありませんでした」って言い出したんです

え? アンタ一体何が目的で勉強してたんだって 耳を疑いましたよ

目的が評価だけで その先の目的がなかったんですね

本来学校というのは自分がやりたいことを実現するための手段であって 学力成績だって手段であることに違いはないんですけど 手段で頭がいっぱいになってしまうと手段そのものが目的にすりかわってしまう

こういった手段と目的の履き違えというのは よくあることです

よくあることなんですけど それって「バカのやること」なんじゃないですかね

自分の成績評価が上がれば 高い給料が貰えて税金もたくさん払えるから社会貢献にもなって 自動的に社会の役に立つはずだと だから何も考えずに学力成績さえ上がれば「見えざる神の手」が自動的に働いてくれるから 安心して学力成績を上げることだけ考えておけば良いんだと 「いつ勉強するの? 今でしょ」って言われて鵜呑みにする

真理の追求って一生かけて行うものであって 学校のお受験とか企業の採用試験だけ通過しときゃ良いっていうもんじゃないんですよ それはもう学問でも何でもない

「学生時代に学力評価が高ければ 年収が上がる」ことだけを期待しているからこそ 原発の津波に対する脆弱性も簡単に放棄するようになる

利己的な年収が目的なので 自律的な社会的責任判断は後回しになる

大企業の不祥事も後を絶たないのは 大企業に勤めている取締役も社員も保身や体制維持だけが目的になってしまっているからなんですよ

必死になって怠慢している

必死になって寝言を言っている

当人必死なんですけど ボーッとしている

そりゃ破綻しますわな

何だか説明する気も失せるわ

眠いから寝る



Ende;

〇学問の目的。

2018年12月02日 14時11分31秒 | 意識論関連
評価承認欲求中毒患者ってのは他人から評価されることだけで頭がいっぱいなので

他人よりも自分の方が優れていることを主張したがる結果 順位序列に異常執着することになる

学問というものは 本来純粋に「本当のことを知りたい」という欲求に基づいて行われるものであるべきなのだが

学力成績を絶対的価値か何かと勘違いしているから 科学が宗教やイデオロギーのように絶対化してしまうことにもなる

別に学力成績が高いからといって偉いわけではない それは大企業の社長や大臣でありさえすれば人間として優れていることの証明にはならないのと同じである

学問というのは 世間的成功を目的としてやるものではなく あくまで純粋な好奇心に基づき学び考えることで 結果的に社会的に役立つ真理の追求にもつながることがあるから意味があるんであって

他人と比較して己の優位性を自慢するために学問があるわけではない ましてやクイズの正解率なんぞ社会的には糞の役にも立たない大衆迎合でしかないのである

本庶佑が「教科書を疑え」と述べたが 学力成績を絶対的価値だと錯覚していれば 教科書を疑うことなど絶対にしないであろう それがダメなのである

学力成績だけを目的にしていれば これは教科書こそが聖書聖典と一緒で疑ったりすれば呪いや祟りで命を落とかのような強迫観念に囚われているので 教科書は絶対になってしまう

この時点で科学が宗教やイデオロギーに変貌しているのである

学校で教わることというのは あくまでこれから自分で新しい発見や発明をするための基礎を学んでいるだけであって 学校というのはその手段であって目的ではない

ところが 現在の資本主義制度下においては 学力成績こそが人間としての価値であるかのように扱われているために 自発的に何も考えたことのないバカ共は他人との比較こそが人間性の論証だと勝手に勘違いしたがるのである

「天は人の上に人を作らず」(ユキチだっけか?)

「天って何だよ」というツッコミもあるんだが 学問というのは他人と自分との順位序列を目的としたものではないという最も根源的な目的意識が欠如しているのである

本来学問というのは「誰も不幸にならない社会を作りたい」という願いのための真理の追求であって「俺様の方が優れている」ことを証明するためのものではない

その部分を根本的に勘違い錯覚しているバカが多すぎる

こうした頭の悪さというのは 親がバカだと子供にも連鎖して歯止めが効かなくなる

こうした観点から考えると 教科書を疑う前に自分の目的意識や親の頭を疑うことが先なんだろうな



Ende;

〇要らないハナシ。

2018年12月01日 15時54分15秒 | 意識論関連
以前 タレントの千秋が元ダンナのココリコ遠藤との間で子供を作ったことを「優秀な遺伝子を選べた」などと事後正当化していたことがある

一組の配偶関係から産まれてくる子供の遺伝的バリエーションというのは 現在の地球人口くらいの多様性があって どういう子供が産まれてくるのかを選択することなど出来ないのである

もし千秋の言っているように配偶者選択が正しかったから優秀な子供が出来たというのであれば 先天的遺伝疾患を持って産まれて来た子供の親は遺伝的に劣っているという話になってしまうのである

何様だよ 千秋って 離婚した時点でダンナ選びを間違えてんじゃねぇか

こういう非科学的オカルト観念に何の疑いも持たないから相模原障害者施設を襲撃する植松聖みたいのが出てくるんじゃねぇか

考えが薄っぺらで無責任過ぎるぞ

ボーッと生きてんじゃねぇよ!

そういうハナシ一番要らないわ



Ende;

〇デクノボウ。

2018年12月01日 15時01分57秒 | 意識論関連
ニュージーランドで145頭ものゴンドウクジラのストランディング(集団自殺行為)が発生したと

ねとらぼに載ってた

生物に組み込まれた本能習性というのは あくまで結果的に「死ななかった」個体の習性であって

たまたま「死ななかった」だけであって 別に誰かの合理性に基づいて目的のために選択したものではない

だからこそ 時折クジラの集団自殺のような行動も発生するのである

具体的にクジラがどうして集団で砂浜に上がろうとするのかは不明だが

少なくとも合理的に何かを目的として行動したわけではないことは明らかである

集団自殺をすることは生存価にとって有利でもなければ 種の保存にとっても役には立たない

そもそも生物は生存や種の保存を目的とはしておらず 全ては結果以上の意味を持たない

既に先天的に組み込まれた本能習性に従って機械的条件反射行動の結果として集団自殺に陥っているのであって

先天的本能習性の結果絶滅しても 誰も保障はしてくれない

先天的本能習性というのは 誰の合理的目的行動選択も介在してはいないからである

ヒトという種の生物が殺し合いをすることも 先天的本能習性が促す行動バイアスによる無意識な「結果」であって ヒトという種の生物の脳は暴力で相手を殺傷すれば解決だと満足する習性が促す錯覚を 錯覚だと認識していないからである

錯覚を錯覚だと認識するのは 自律的な論理検証性という本質的な人間としての意識だが 大多数の大衆や文科系マスコミは自律的な論理検証を全くせずに 既存の学術組織の規模だけで盲目的に信頼し 何の疑いも持つことはない

これは ヒトという種の生物の脳には先天的に欠陥が存在するため 非合理な観念であっても気分的に安心さえしておけば誰も疑いを持たなくなるという先天的欠陥があるからだ

ミヒャエル:エンデ著「モモ」や グリム童話の「ハーメルンの笛吹男」というのは 集団洗脳によって人々が簡単に騙されてしまい 権威ではない少数派の意見に誰も耳を貸さなくなるヒトの先天的欠陥に対する教訓として描かれたものである

グリム兄弟の「ハーメルンの笛吹男」の話というのは ググってみたらドイツのハーメルンという場所で実際に起きた集団失踪事件が元になっているそうだ

洗脳状態というと 洗脳された人々は苦しんでいるかのように錯覚しがちだが 実際には洗脳状態というのは当人的には「これこそが真理で正しいことなんだ」という信念のようなものに取り憑かれており むしろ外部の者が否定すると「こんな正しいことを否定するなんて 何て可哀相な人達なんだろう」と思い込んで満足しているのである

疑わないのは それが気分的に安心で満足だからである

クジラによる集団自殺も 彼らにしてみれば それこそが安心で満足感が得られる行動だからであろう どんなにヒトが海に戻そうとしても浜に戻って来てしまうのはそのためである

先天的本能習性というのは 特定環境下においては生存や種の保存にとって有利に働くことが多いとは言えるのだが 環境の変化によってはむしろ生存や種の保存にとっては逆に不利な行動を促してしまうことも珍しくはない

それは 先天的本能習性というものには構造原理的に目的のための合理的選択が介在していないからである



集団組織にとって有利な利他的行動を採ることが個体の生存価にとっても有利に働くことがあるとしても 集団組織にとって有利な行動が社会全体にとっては持続可能性や安全性を損ねることもある以上 断片的効用だけを論拠に人間性の論証だと言い張るのは 単なる御都合主義的こじつけ以外の何でもない

嘘や暴力が生存価にとって常に不利に働くことの論証もなく 実際正直者がバカを見ることは珍しいことではないし 嘘つき卑怯者が世間的に成功している例も後を絶たない

それでも「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」と言い張るのであれば その論証が具体的にどのように役立つのかを説明して頂きたい

特定環境下において利他的行動などを採る習性を立証したところで 既にヒトが散々行ってきたあらゆる暴力的野蛮行為の反証には全くならないのである

そもそも先天的本能習性というものは 原理的に環境依存性から逃れることが出来ず 個体の自律的な判断という倫理や人間性の立証には最初から使えないのである

東京電力社内という環境下であれば 自律的に原発の津波に対する脆弱性が放置されてしまうことが避けられなかったというのであれば それを促した先天的本能習性こそが事故の最も根源的原因に他ならない

ロンドン市内で暴走強盗が流行してしまうのも 環境依存性が原因であり 自律のない者は簡単に流行に便乗してしまう習性があるからである

人間性の本質とは 自律的な社会的責任判断選択であり これは環境や先天的本能習性といった「結果」に依存しないからこその「目的」であり「自律」なのである

従って 「先天的本能習性で人間性を立証する」と言い張るあらゆる生物学者や哲学者は 何も自律的に論理検証したこともないデクノボウでしかないのである

そのデクノボウを疑うことなく盲目的に信頼していることもまた同罪である



Ende

〇真理の追求なくして人間性は成立しない。

2018年12月01日 01時41分11秒 | 意識論関連
先天的本能習性としては 繁殖不能な幼女を犯して殺害することもあるのだが

こうした本能習性というのは 自己自身で選択したものではなく 無意識な行動バイアスの範疇である

従って 先天的性癖としてペドフィリア(幼児性愛)傾向などがあるからといって いきなり「人間としてダメ」ということにはならない

先天的本能習性として どのような相手と性交したいのかなどの欲求は個人の自律的な意識(論理検証)的行動選択の範疇にはないものであり

どのような欲望であれ 現在時点で自分の行動を選択可能性があれば それこそが人間としての意思なのである

先天的な本能習性というものは 祖先が偶発的に生き残った「結果」以上に意味はなく どんなに強い欲求であろうとも先天的本能習性が促す行動バイアスである限り これは無意識の範疇に該当する

先天的本能習性が促す欲求というものは 状況や環境によっても様々に変化するものであり 一貫性を持った合理的行動選択をむしろ阻害するものでもある

状況や環境に因らずに 自律的に行動選択出来れば この現在時点での選択可能性こそが人間性の本質であり合理的行動選択をする意識だと言える

既に脳に機械学習によって促される条件反射的無意識行動が どんなに非合理で不条理であろうとも それに抗い制御出来れば人間性は発揮可能である

本質意識としての自律的論理検証性が働いていないからこそ その場限りに状況や環境によって促される先天的欲望の流されてしまうのであり 先天的本能習性が促すあらゆる欲望は それだけでは人間の本質的意識とは言えない

ヒト以外の生物では 何をどうしようが先天的本能習性には抗えないが ヒトは精神や脳に異常がなければ自律的に欲求を制御することが不可能ではない これこそがヒトとヒト以外の動物との決定的な違いである

しかし ヒトの全てが常に自分の欲望を合理的に選択出来るわけではない

だからと言って他人をランクづけして優劣で選別するような野蛮な行為に人間性はない

ヒトの人間性というのは遺伝によって先天的に決定しているわけではなく 人間性で選別しても遺伝的進化のようなものが促されるわけでもない

人間性というのは先天的に決定しているのではなく あくまで自律的論理検証性によって合理的行動選択を行うことであり 他人をランクづけすることに合理性はない

ヒトの多くが他人をランクづけしたがるのは それによって自分の評価が上がるという妄想錯覚に由来する強迫観念からである

ヒトが他人からの評価を求めるのは 元は親からの評価承認の癖(甘え)によって醸成された中毒であり 子供時代に親から甘えることを許されずに 親からの評価ばかりに怯えて育つことによって 満たされなかった甘えを社会に求めるようになることで承認欲求中毒に陥るのである

親子関係に強烈なヒエラルキーがあった場合に ヒエラルキー意識(無意識)を機械学習してしまうことによって 順位序列や勝ち負けだけが絶対的正義として植え付けられ 自律的に物事を論理検証する本質的意識も喪失することになる



他人からの評価を基準にしている限り 自律的に物事を判断する能力は養われることはない

江川紹子女史は以前 「他人から見て恥ずかしくない行動をしたい」と述べていたが これは江川紹子女史が「誰から見て恥ずかしくない行動」を自律的に選択出来るから成立する話であって

糞DQNが「何も考えていないバカな多数大衆や糞DQNから見られて恥ずかしくない行動」とは 他人の迷惑を一切省みない糞DQNの正義に基づいた行動選択しか促すことはない

SNSに溢れかえる悪ノリ投稿が後を絶たないのは閲覧回数で得られる利益や目立つことばかりが目的だからである

評価承認中毒患者が評価承認に異常な執着をするのは それが中毒だからに他ならない

評価承認にあまり興味のない者にとっては 別にSNSの「いいね」には大した快楽も得られることはない

他人からの評価に興味が薄ければ 多数からの同調圧力や組織体質に流されることなく 自律的に物事を判断することも可能となる

アスペルガー傾向など 先天的に多数派同調圧力に興味が薄い場合もあるのだが 先天的欲求に流されることなく自律的に判断出来る選択可能性が人間性であることに違いはなく 別に先天的に興味が薄いからといって人間として優れている論証には全くならない

人間としての価値とは 他人と比べて特定能力を比較することで測れるようなものではなく あくまで自律的に自らの先天的欲求を制御出来るかどうかによるものであって これもまた他人と比べて順位序列をつけられるわけではない

一生のうちに資産をどれだけ集められたとか 何年生きたとか クイズの正解率や既存の学歴学位を他人と比べて競争することが人間としての存在価値や尊厳には全くならない

バカが治らない原因とは 自らの頭の悪さを認識することを反射的に拒絶する無意識さであり 「自分は頭が良いはずだ」という錯覚に中毒になっているから自分の頭の悪さを認識することが出来なくなるのである

それは カルト宗教の信者達が自分が既に信じ込んでいる神に疑いを持たなくなるメカニズム構造と一緒であり 学力偏差値に対する一種の信仰によって 他人との順位序列にも何の疑いも持たなくなるのである

それは形式上科学に関わる組織であろうとも 誰も何も論理検証されることがないのであれば科学や哲学からは逸脱してゆくだけである

権威と多数派からみなされている相手から教えられたことを ただ漫然と鵜呑みにしているだけで何ら自律的に論理検証しないからこそ 科学が宗教のように盲目になってしまい その社会的機能を喪失してしまうのである



Ende;