簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

花祭り (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-11-25 | Weblog
 「走井餅」が食べたくて立寄った、「井筒八ツ橋本舗・追分店」の店員
さんに教えられた小さな公園を抜け、歩道橋で国道を越えると、見覚え
のある東海道が東西に通っていた。
 左に折れ京とは反対に東に向けて200m程歩くと、「閑栖寺(かんせ
いじ)」という真宗大谷派の寺がある。



 前に通った折には、門前に柵が置かれ、境内に入れなかったが、この
日鐘楼門は開け放たれ、その下に象の台の上に花御堂が設けられていた。
甘茶を満たした灌仏桶があり、中央には誕生仏像が安置されている。



 そう言えば今日4月8日は、お釈迦様の誕生日、花祭りの日である。
釈迦生誕時に産湯として、九つの竜が天から清浄の水を注いだとの伝説
に因み、仏教系の寺院なら何所でも行われる、仏教では唯一の「祭り」
がつく行事である。



 桶の甘茶を産湯に見立て、柄杓で掬い誕生仏に掛けて祝う習わしだ。
知ってはいたが、実際の「灌仏会」に立ち会うのは、この年になって初
めての事で、神妙に甘茶を掬い、仏に掛け、手を合わせ「歩き旅の安全
を見守り下さい」と願ってみた。



 この寺の境内には車石が展示されていて、前回これが見たかったのだ。
車石というのは、ぬかるむ逢坂山越え道の対策として、敷き詰められた
石のことで、いまで言う舗装道路である。
境内には当時の状況が一部復元保存されていて、公開されている。



 当時としては画期的な歩車分離式で、牛車の通る車道には、轍の幅に
合わせ花崗岩の厚板石が敷き詰められ、傍らの一段高いところが歩道で
人馬が通る。
牛車は、上り下りで通行する時間が予め定められていたという。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津の走井餅  (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-11-22 | Weblog


 三条大橋で、弥次さん喜多さんとの面会を果たした後、日を改めて、
東海道五十七次を辿るため、京阪京津線で追分駅にやって来た。
ここかから髭茶屋追分に出て南西に向けて歩く事になるが、その前に立
寄りたい場所がある。



 嘗て東海道の髭茶屋追分と大谷の中間辺りの逢坂山には「走井茶屋」
が有った。ここには走り井という、清涼で冷気凛々とした名水が湧き、
訪れる旅人の喉の渇きを癒やしていた。又近江の米をこの水で搗き上げ
餡を包み込んだ、ほとばしる水滴を現わした名物「走井餅」で持てなし
ていた。明治に入ると、茶屋とこの餅は、この地から姿を消した。



 前回歩いた折には気付けなかったが、この大津の名物がここから程近
い横木に有る、京名物・八橋で有名な「井筒八ツ橋本舗・追分店」で売ら
れている事を知った。
 平成6(1994)年、平安建都1200年を記念して、業界初の生産ライン
が見学できる工場として作られた店舗があり中にコーナーが設けてある。



 店に立ち寄ると、直ぐに店員さんが茶と菓子を供してくれる。「走井餅」
のばら売りはないかと尋ねると箱入りだけだという。これから歩くのにお
土産を持って歩くのも煩わしいので、一番小さいのを一つ頂いた。



 この「走井餅」は、「石清水八幡宮」門前の「やわた走井餅老舗」でも、
6代井口市郎右衛門の四男嘉四郎から伝承の名物として売られている。

 一方ここ「井筒」のものは、走井市郎右衛門の末裔である片岡家に伝承
された「走り井餅本家」の物で、「走り井餅」と称している。



 どう言う経緯で店が分かれたかは知らない。
方や「走井餅」、一方は「走り井餅」の一文字違いだが同じものだ。

 経緯はともあれ、こうして昔からの名物が引き継がれ、ゆかりの地で売
られていることは甘党には結構なことだと思う。
どちらも店舗で頂いたが、「いずれも美味しゅうおます」。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東海道は五十七次(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-11-20 | Weblog
 東海道は歌川広重や十返舎一九らの作品にも登場し、江戸と京都の間、
「東海道五十三次」として描かれることが多い。
こうした事から東海道五十三次との呼び名が定着したらしいが、本来の
東海道は五十三次ではなく五十七次である。



 山科の追分けをそのまま進めば、二里ほどで五十三次の上がり京・三
条大橋に着くが、元々幕府は、東海道を往来する西国の諸大名が、入洛
して朝廷に接触することを極端に警戒し、京を通らないルートを東海道
と定めていたのだ。



 山科の追分けから南西にとり伏見街道(京街道とも言った)に入る。
この先伏見、淀、枚方、守口の四宿を経ると大阪・京橋(高麗橋)まで、
凡そ十三里の道程で、これが幕府の言うところの「東海道」で「五十七
次」である。



 五十三次目の「大津宿」を出ると、一里二町(4.2㎞)で髭茶屋追分
(ひげちゃやおいわけ)に至る。
そこからは山科盆地を通り抜け三里六町(12.6㎞)で五十四次目の「伏
見宿」に着く。 「伏見宿」を出れば一里一四町(5.4㎞)の極めて近いと
ころが次の「淀宿」だ。



 「淀宿」を後に淀大橋を渡り、三里一二町(13㎞)の長丁場で、次の
「枚方宿」に着く。次の「守口宿」までも三里(12㎞)と距離があるが、
ここに至る間はほぼ淀川に沿った道である。
ここからは、二里(8㎞)余で大坂・京橋(高麗橋)に到着となる。



 当時大阪まで旅する多くの人は、「五十三次」を歩き、京・三条大橋
に出て、その後京見物を兼ねて町中を抜け桂川畔に出て、或いは京街道
を伏見に出てここからは舟便で淀川を下ったと言う。
従って追分から大阪まで四宿を歩く旅人は極めて少なかったらしい。



 反対に大阪からの東下りは、川上りとなる船便の賃が高く、時間もか
かったのでこの道を歩く事になる。
所謂片宿で、こんなことからも「五十七次」は、庶民一般には馴染んで
はいなかったようだ。

そんな街道を、髭茶屋追分から高麗橋まで歩いてみる。(続)



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「次」とは(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-11-18 | Weblog
 「次」を広辞苑で引くと、『あとにすぐつづくこと』とある。
従って「東海道五十三次」は、東海道に何かが五十三も次々と続くことを
意味する。その何かとは「しゅく(宿)」の事で、勿論ここでは「やど」
とは言わない。



 江戸時代、歌川広重や十返舎一九などが発表した作品では、江戸から
京・三条大橋までの「五十三次」を「東海道」としてこの呼称を頻りに
使っていた。結果この事が広く庶民の間に知れ渡り、五十三次を旅する
人々も増えていった。



 今日言われるところの「東海道五十三次」の呼び名は、ここから来て
いるというのが学者の定説らしい。しかし「五十三次」とは言うものの、
各宿場の成立日が全て同一日というわけではなさそうで、順次追加、或
は改められ、最終的にこの数になったものらしい。



 そもそも「東海道」の「五十三」と言う「宿場」の数には、何か特別
な意味があったのか。 
 その辺りのことを作家の井上ひさしは、その著書「新東海道五十三次」
(昭和51年 文藝春秋社)の中でこのように述べている。



 『華厳経に入法界品(にゅうほっかいぼん)という一章があって、仏
の世界に入るために、善財童子という少年が南方諸国の五十三人の善知
識を訪った(中略)、善智識には老人あり病者あり遊女ありで、これは
街道筋を歩くことと同じ(中略)東海道を求道、すなわち仏の教えを求
めるための道』



 慶長6(1601)年、徳川家康により発せられた伝馬制により東海道が
整備された。当時家康には、政治的な顧問として側近に天海などの僧侶
がいたことから、仏教的な思想の影響を受けてのことだった、とこの作
家は指摘している。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見附・枡形 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-11-15 | Weblog


 旧街道を歩き旧宿場町に入ると、必ずと言って良い程に「高札場跡」
と書かれた案内板を見かけるが、同時に多く目にするのが、「見附跡
(みつけあと)」の案内である。
 「見附」とは元々は城で、外堀に沿って枡形 (ますがた) を持つ城門
の外側に面する部分をいい、軍事施設の事である。



 簡単に言えば城の出入り口で、見張り役が置かれた番所の事だ。
江戸城には俗に36カ所あったと言われている。(実際にはもっと多かっ
たとも言われている)

 宿場の場合は、その出入り口に設けられた構造物の事で、江戸側を江
戸見附、京側を上方見附、或は京見附と呼んだ。その間が宿場の範囲、
所謂宿内である。



 街道の両側に土台を石で固めその上に土を盛り、或は石垣を組んで、
更にその上に矢来(柵)を置いて通行に制限をかける構造物が造られて
いて、それを見附とよんだ。
 東海道が成立した江戸初期の頃は、宿場の守りを固め、江戸に向けて
大軍の兵が容易に街道を通り抜けなくする軍事施設的な性格が強く、こ
の形状になったと言われている。



 幕府が安定し、政情が落ち着いた中期以降は、左程重要視はされず、
軍事的な色彩はほぼ薄れ、単に宿場の出入り口、宿場の範囲を視覚的に
示す施設との認識に変わったらしい。
中には街道を拡げ、宿場の発展のため町並みを延ばすなどで、撤去する
動きもあったという。



 宿場制度が廃された明治以降は、国道の整備が急がれ、道路や町並み
の拡張整備等で殆どが壊され、ほぼ消滅した。
同様の運命を辿ったのが一里塚であった。

 江戸見附前、赤坂見附、四谷見附等、地名にその名残を残している所
はあるが、極めて少ないようだ。(続)






にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高札場 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-11-13 | Weblog
 

 「高札場」とは、幕府や諸藩の藩主が決めた定め、法度(はっと)や
掟書(おきてがき)等を木の板札に書き留め、人目の付くよう高く掲げ
ておいた場所のことである。町民や村人、或いは旅人が従わなければな
らない事柄や、その地元の特有な規則や制限を掲げていた。



 高札は、法令を民衆に告示し、趣旨を徹底、守らせると同時に、犯せ
ば重い刑に処せられる事を認知させる目的があった。
又幕府や藩など大名の存在感、権威を示す役割もあったと言われている。



 一般的には、宿場や町の中心・出入り口、街道の交差点、関所や湊、
川越え場等主要な施設の近く等、人々の往来の多い、目立つ場所に立
てられた。宿場では最低でも1カ所以上、設けられていた。



 木製の板に墨で書かれていて、時と共に劣化するが、勝手な書き直し
は厳しく禁じられていて、領主の許可無くば出来なかったという。
その為風雨で傷まないよう、多くの高札は、高さ約3~4m、間口は約
3~5m、奥行き約1~2m程度の屋根付き建物(標準的なサイズ)に
納められている。



 古くは延暦年間に、高札(制札)を掲示していたとの記録も有ると
いう。
広く取り入れられたのは、街道や宿場が整備された江戸時代以降らしく、
幕府は「高札番」という役職を置き、高札の新設管理・修繕整備等の業
務を行わせている。



 しかし、明治7(1874)年に入ると、政府は高札の廃止を定めたため、
旧宿場町等の高札場は悉く壊され、高札は撤去された。
 その為現存は、(実物を見た事は無いが)甲州街道府中宿等極めて少な
いらしく、今日旧宿場町で見られるのは、殆どがその当時の復元である。
高札場は「札の辻」の地名にその名残を留めている所も多い。(続)




にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問屋場 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-11-11 | Weblog
 宿場に於いて、最も重要な施設が「問屋場(とんやば・といやば)」
と言われている。多くの場合、街道に面した宿場町の中心的な場所に設
けられ、二つの幕府公用業務が義務付けられていた。
一つは人馬の継立(つぎたて)、もう一つは書状や物品の継立である。



 問屋場には決められた数の人馬常備の義務があり、「伝馬朱印状」を
持つ公用者や大名等には、過不足無くこれらを無償で提供しなければな
らなかった。多くの場合は、人や物を次の宿場まで運ぶ業務である。



 「伝馬朱印状」とは、「此の御朱印なくしては伝馬を出すべからざる
もの也、仍(よって)件(くだん)の如(ごと)し」という文言に朱印
が押された公文書で、これを携帯していない者には、公用の伝馬を出す
ことを禁じていた。



 もう一つ役割が公文書や金銀為替、小荷物などを次の宿場に届ける業
務で、この任を担う人を飛脚といいこの業務を公儀の継ぎ飛脚といった。
 一方尾張や紀州など有力大名は、独自に江戸と国元を結ぶ飛脚を持っ
ていて、これらは大名飛脚として区別された。



 寛文3(1663)年以降になると、飛脚屋・飛脚問屋等の制度が更に整
備された。大名・武家、町人の別なく、自由に利用出来たのが町飛脚で、
江戸・京・大坂を中心に発達し、主要な通信手段の一翼を担っていた。



 問屋場の最高責任者を「問屋」といい主にその地の名主が、それを補
佐するのが「年寄」で、その地の組頭的な人物が充てられた。
その他に書記を務める「帳付(ちょうづけ)」、人馬を指図する「人馬
指(じんばさし)」、大名行列等を宿場の出入り口で迎える「迎役」等
が置かれたと言う。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京・三条の思い出(東海道歩き旅・山城の国)

2024-11-08 | Weblog


 小学校の修学旅行は、奈良・京都のバス一泊旅行であった。
詳しくは覚えていないが、奈良では春日大社や東大寺の大仏を見て
若草山に登り、至る所にいた鹿と遊んだ。
 京都では金閣寺、清水寺、平安神宮などを廻り、夕方新京極に立
ち寄り土産を買った記憶がある。



 手元に残る卒業アルバムを紐解いても、その辺りの記録は残されてい
ないので、思い違いかも知れないが、その夜泊まったのは、この三条大
橋の袂に有った「加茂川別館」と言う宿だったと記憶している。

 夕方には二階の大広間に全員が集まり夕食を食べ、夜寝るのもここで、
まるでセリ市場に並べられた鮪の様に、何十人かが布団を並べ、頭を揃
えて寝たことを微かに覚えている。



 当時宿の前には電車の線路があり、ここでカーブしていて、廻り際に
その前照灯の明かりがカーテンの隙間から差し込んで、暗闇の部屋の天
井を一瞬明るく照らし出していた。

 一頻り枕投げに興じ、先生に叱られ寝床に入ったものの、興奮で中々
眠れず、寝床から見えたこの光景が印象深く今も脳裏に刻まれている。



 四国八十八カ所を歩き終え、その後思い立って東海道を何回かに分け
て歩きこうして懐かしい想い出のある京・三条大橋に無事に辿り着いた。
 当時の記憶をたぐりよせ、宿はこの辺りでは・・・と、界隈に当時の
面影を求めてみるが、記憶と一致するものは何も無い。



 半世紀以上も前の木造の旅館など残ってはいず、町並みは小綺麗なビ
ルに変貌を遂げ、路面に電車の姿も無く地下に潜っている。
こんな賑わいを目にすると、本当に泊まったのはここだったのか・・・。
確信を持って思い続けてきた、あの日の懐かしい記憶が揺らいでくる。
(東海道歩き旅・山城の国 完)



まもなく「東海道五十七次歩き旅」が始まります。 お楽しみに。



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三条大橋の西詰(東海道歩き旅・山城の国)

2024-11-06 | Weblog
 橋を渡った大橋西詰北側の高札場跡近くには、旧三条大橋の花崗岩製
の石柱が残されていて、説明板も掲げられている。
石柱には天正17(1589)年の銘が有り、今の神戸市東灘区から切り出
されたものという。



 三条大橋は天正18(1590)年に、豊臣秀吉の命により増田長盛を奉
行として石柱橋に改修されたが、これが日本で初めての石柱橋である。
現在の橋の下流側の橋脚にも、当時のこの石柱が使われているという。



 道路を隔てた反対側は小公園になっていて、江戸時代の十返舎一九作
の「「東海道中膝栗毛の主役、「弥次郎兵衛と喜多八」の像がある。
彫刻家・小山由寿氏の作といい、平成5(1994)年に、三条小橋商店街
振興組合が建立した。



 弥次さん喜多さんというと、東海道五十三次の膝栗毛と思いがちだが、
二人は四日市・日永の追分から伊勢街道に入り、白子、津、松坂を経て
お伊勢参りに向かっている。その後、大和街道に出て奈良、宇治を経て
伏見の京橋に着き、京の名所巡りを楽しんだ。



 二人は三条小橋に近い旅籠・小橋屋に泊まっている。
その後島原を見学し、朱雀野より鳥羽街道に出て淀の大橋に到り、ここ
から淀川の下り船で大阪に向かった。
日が暮れて、天満橋と天神橋の間にある船着き場八軒屋に到着し、長町
の「分銅河内屋」に宿をとり、翌日から大坂見物をしている。



 像の足元には、「無事に還り来る」の信仰で有名な還来(もどろき)
神社に倣い、旅の安全を祈願する「撫で石」も設置されている。
この石は牛若丸(義経)で有名な、京の北方、鞍馬から産出した鞍馬石
で、酸化鉄の含有により玉葱状剥離が現れ、鉄錆色が全面を覆っている
のが特徴という。(同組合HPより)(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

擬宝珠の刀傷(東海道歩き旅・山城の国)

2024-11-04 | Weblog
 鴨川の河原でのさらし首が始まったのは、平安時代と言われている。
関東で乱を起こした平将門は、戦に敗れ捉えられ、彼の首は京に送られ、
七条河原で晒されている。天慶3(940)年の事という。



 平安時代のさらし場は、六条から七条にかけてが多かったらしい。
その後鎌倉時代に入ると、四条が加わり、安土桃山時代になると三条川
原が多用されるようになる。これは東海道が整備され、三条粟田口が京
への入り口になったとこと密接な関係もあるようだ。
見せしめとしての処刑が行われたもので有ろう。



 血生臭い出来事は、鴨川の河原だけではなく、橋の上でも数々の事件
が伝えられている。
橋の擬宝珠には、「池田屋事件」で付いたとされる刀傷が残されている。



 江戸時代、「公儀橋」上での抜刀は禁じられていた。
ここから150m程離れた池田屋での乱闘は、この橋まで流れ込んでの斬
り合となった。
その時振り下ろした刀が擬宝珠に当たって付いたとされる傷が擬宝珠に
克明に残されている。



 橋の西詰め北側には、嘗て「高札場」があった。
この高札場を巡っては、江戸幕府の制札を引き抜こうとした土佐藩士と、
それを阻止しようした新選組の衝突が知られている。
いわゆる慶応2(1866)年8月28日の「三条高札事件」である。



 新選組三隊、総勢36名の隊士が警戒する中、土佐藩士8名が制札を抜
きに高札場に現れ、橋を舞台に大乱闘になった。
 1人を斬り殺し、1人を捉えたものの、8人の内6人も捕り逃がす失
態を新撰組が犯してしまう。
事件は長州藩を逆賊とする内容が高札に書かれていた事が発端らしい。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする