簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

志ゆもく町廓(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-30 | Weblog
 国道24号線の交差点の手前に、橦木町廓跡を示す「志ゆもく町廓入口」
の門柱が立っている。
 遊廓は、元々は豊臣秀吉が伏見城を築いた頃、伏見田町に造られたもの
で、その後の慶長9(1604)年に渡辺掃部・前原八右衛門の両名により当
地に移設開設されたらしい。



 島原遊廓の流れをくみ、伏見の町の発展と共に栄え、元禄期(1688~
1704)全盛期を迎えたらしい。伏見湊近くに置かれた柳町(後の中書島)
に、一時は客を奪われ衰退し、田畑に変わった頃もあったが、江戸後期
に再び遊廓として復活した。



 この石の門柱が立てられたのが大正期で、この時代にはまだ隆盛して
いたらしく、賑わいは第二次大戦の後まで続いたと言う。
いわゆる赤線地帯、政府公認の遊廓で、昭和33(1958)年3月に「売
春防止法」が施行されるまで続いていた。



 規模的には左程大きくはなかったらしいが、当地は京街道、奈良街道
や伏見街道が交錯する要衝の地で、古くから芝居小屋や土産物屋等が軒
を連ねる宿場町として栄え、遊廓にも京都の公家衆が多数訪れたと伝え
られている。



 ここを有名にしたのは、京都に於ける「忠臣蔵」所縁の地として知ら
れているからだ。大石内蔵助が、笹屋清左衛門の遊廓「よろづや」で、
主君の仇である吉良方の目をあざむくために、遊興に耽った振りをし、
遊びほおけたと伝えられている。



 橦木町の名前の謂れは、花街一帯の形状が仏具の一種で、鐘や半鐘を
打つ「撞木(しゅもく)」のT字型の棒に似ているからと言われている。
 そんな遊里も今は住宅地に変わりその面影は無く、跡地を示す石碑が
ひっそりと立てられているだけらしい。



(東海道五十七次歩き旅・山城国・前編 完 後編に続く)



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史跡の宝庫(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-27 | Weblog
 東海道は墨染寺から100m程西に進み、郵便局のある角を左に曲がる。
ここを曲がらずに真っ直ぐに(どれくらいは知らないが)行くと、「近
藤勇遭難の地」の石碑が立つ場所があるらしい。



 幕末から維新にかけた激動期、伏見奉行に追われた新撰組はこの地で
襲撃され、組長の近藤勇は右肩に銃弾を受けた。
近藤は、徳川慶喜の配慮で大阪城に移り治療を受けている。
その為鳥羽伏見の戦いでは、その指揮を取ることは叶わなかったという。



 墨染寺の南には、深草少将の邸宅跡といわれる欣浄寺(ごんじょうじ)
と言う曹洞宗の寺も有る。開祖・道元が開いたとも伝わる当寺の本尊で、
ここには知る人ぞ知る「伏見大仏と呼ばれる丈六(約4.85m)の大仏」
があるらしい。



 更にその先左手に伏見税務署を見て京町通り進むと、先の国道24号線
の交差点の手前右に2本の石柱が立っていて、右の柱には「橦木町廓入
口」、左の柱には「志ゆもく町廓入口」と刻まれた有名な橦木町遊廓へ
の入口を示す門柱もある。



 この辺り周辺には、興味を惹かれる史跡が数多く存在する。 
しかし、道中に見たいところがあって、その都度寄り道をしていては予
定した目的地まで行けなくなってしまう。



 近頃では加齢と共に歩く速度も遅くなり、一日に歩ける距離も随分
と短くなっているから、歩きを優先しないといけないとは言え、折角
の史跡名所に立ち寄れないのが残念だ。 



 出発前に行程内の名所旧跡は調べ上げているので、寄り道に要する距
離や見学の時間等を予め計上しておけば良いのだが、それだとなかなか
前には進めない。

 結果見所は、又の機会に譲りながら、前に進むことを優先する。
そうこうしているうちに、街道はようやく伏見宿の中心に近づいている。(続)



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深草山墨染寺(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-25 | Weblog


 墨染の町を抜ける通りは、左程広くはないが、行交う車輌、通行人は
結構多く繁華な道である。道路に沿って見られる街路灯は、地域の安心
安全、繁栄のために墨染めショッピング街が設置したものという。



 そんな通りの第二琵琶湖疎水に架かる墨染橋を渡って100m程行くと、
左に日蓮宗の「深草山墨染寺(しんそうざん・ぼくせんじ)」がある。
山門か大きく開放されていたので境内に入ってみた。
本堂の前に説明板が掲げられている。



 創建は貞観16 (874) 年に天皇の勅願により、摂政・藤原良房が娘・
明子の産んだ惟仁親王(清和天皇)加護の為建立した貞観寺が前身と言う。
 その後次第に衰退したが、安土桃山時代の天正年間(16世紀後半)に、
大僧都・日秀上人が豊臣秀吉の知遇を得、又秀吉公の姉・瑞龍尼の篤い
帰依などで、寺領千石の土地寄進を受けた。これにより旧寺を「法華宗・
墨染櫻寺(ぼくせんおうじ)」として改め建立した。



 境内には、墨染(すみぞめ)の地名の由来となった「墨染桜(すみぞ
めざくら)」が植えられている。
 この桜には、平安時代の歌人である上野峯雄(かんつけのみねお)が、
藤原基経の死を悼んで、「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨
染に咲け」と和歌を詠んだところ、桜の花が墨染色に染まったとの言い
伝えが残されている。



 墨染桜の花は小さく、白色の単弁で薄墨のようなところから、この名
が生まれたと言う。寺の本堂に「桜寺」の額が掲げられ再興を果たした
事から、今では地域の人々から「桜寺」の名で呼ばれ、開運厄除けの毘
沙門天、安産子育ての鬼子母神信仰と供に愛され親しまれているという。(続)





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墨染の町(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-23 | Weblog


 左手に藤ノ森小学校を見て進むと、道は突き当たり、東海道はここを
左に曲がる。曲がった先南北に走る通りを大和街道と言い、賑やかな商
店街と成っていて、この辺りを「墨染めショッピング街」と言うらしい。
主に京阪電車の墨染駅前の墨染通りと、直違橋通り沿いにある店舗によ
り構成されている。



 昭和53(1978)年に設立され、現在は数十軒が加盟しているという。
『春は墨染寺での「墨染さくらまつり」、5月には藤森神社の「神幸祭」、
夏には藤森神社での「藤森盆踊りフェスティバル」にも協力し、地域の
活性に貢献しています。』



 『周辺には「伏見の大仏」で有名な欣浄寺や「墨染ダム」と呼ばれる水
力発電所もあり、歴史的な社寺仏閣が多数点在する「墨染ショッピング
街」は四季を通じて「ヒストリカル・ウォーク」を楽しめる商店街で。』
(HPより)



 右手に京阪本線墨染駅の有る場所で右折し、踏切を渡ると直ぐに墨染
橋を渡る。下を流れる川は第二琵琶湖疎水である。
琵琶湖のある大津市で取水された水は、人工の水路を通じはるばるここ
まで運ばれ、更にこの先も伏見を経て宇治川へと流れ込んでいる。
当地には、インクラインの落差を利用した関西電力の水力発電所もある。



 それにしても「墨染」の地名、優雅で雅な響きを持っている。
その謂れを調べてみると、「平安時代、上野岑雄(かむつけのみねお)
が友人である藤原基経(ふじわらのもとつね)の死を悼み、「深草の野
辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」と歌ったところ、この
地の桜が墨染色に咲いたという伝説が由来」との説が有力らしい。
その縁の寺が直ぐこの先にある。(続)





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藤ノ森界隈(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-20 | Weblog


 JR藤森駅を左に見て、その交差点を右折すると、地名が「大亀谷八島
町」と成る。上ってきた坂は、ここから先大亀谷と言う谷に向かうのか、
道は長い下り坂になっている。



 曲がるとすぐ右手に浄土宗のお寺、如意山・光厳院・西福寺がある。
手持ちの資料によると寺は、「文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉が伏
見城築城に当たって現在の地に移し、寺名を西福寺に改めたといわれ、
教誉上人を中興開山としている」と書かれている。



 山号が示す通り、光厳天皇所縁の寺と伝えられている。
由緒ある寺らしいが、山門は固く閉ざされ、その下には鉄柵が置かれて
いて、境内を窺う窺う事は出来ず参拝も叶わなかった。



 その先寺の西側は、広大な京都教育大学のキャンパスが広がっている。
明治9(1876)年に創立の京都府師範学校が前進で、昭和24(1949)
年、新制国立大学69大学の1つとして設置された国立大学である。



 更にその西に藤森(ふじのもり)神社がある。約1800年前、神功皇
后によって創建された皇室とも所縁の深い古社、地元の産土神である。

 江戸は正徳元(1711)年の銘がある鳥居には、かつて後水尾天皇の
宸筆による扁額が掛けられ、通行する大名達も礼拝をしていたという。
ところが幕末期には、新撰組の近藤勇が「こんな悠長はしていられな
い・・・」と言って外してしまったと伝えられている。 



 神社は、菖蒲の節句発祥地としても知られている。
尚武は勝負にも通じるので、今日では勝運の神様、馬の神様として信仰
され、競馬関係者(馬主・騎手等)や競馬ファンの参拝が多いらしい。
 また境内にある二つの紫陽花苑には、沢山の紫陽花が咲き乱れ、シー
ズンともなると多くの花見客でも賑わうと言う。(続)



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虫篭窓(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-18 | Weblog
 西久宝寺町の住宅街の中の狭い坂道を上り、突き当りを右に、左にと
小刻みに曲る。
 所々で、二階に虫篭窓(むしこまど)を備えた平入りの軒が低い町屋
風の建物が見られる。虫篭窓とは、京町家特有の軒の低い二階の塗り壁
に設けられた窓を言う。



 その見た目が「虫かご」に似ていることからこのように呼ばれるよう
になったらしい。江戸時代、武士を見下ろすことが禁じられていたため、
本格的な二階建を建てることが出来ず、高さを抑えて屋根裏を利用した
ような軒の低い中二階風な建物が建てられた。



 その壁には防火のため漆喰が塗り込められたが、やがて物置や、人の
用に供する部屋として使われる様になると、採光と風通しが必要となり、
通りに面した側に窓を設けるようになったものと言われている。
その形状は、建築時期により大きな特長があるらしい。



 江戸期には丸型(木瓜型)や、横長の丸型が多いらしい。
明治期になると武士に対する無礼の懸念もなくなり、屋根が高くなるに
つれ、長方形或は縦長の長方形に姿が変わっていったという。
一般的には、古い物ほど小さい場合が多いらしい。



 通りで見られる虫篭窓は、殆どが縦型で、時代的にはそう古くはなく、
明治期以降のものでは無いかと思ったりもする。
このように観察をしながら好き勝手に想像を巡らすのも又、街道歩きの
楽しみである。



 暫く行くとJR奈良線が右から寄り添って来る。
天理教山國大教会の前の跨線橋で線路越え、直ぐに左折して、道なりに
線路伝いを進むと、十字路があり左側にJR藤森駅が有る。
「ふじもり」かと思ったが、正式には駅も地名も「ふじのもり」と読む。(続)





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天皇の陵墓(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-16 | Weblog


 趣のある旧道を歩き、途中七滝川に架かる谷口橋を渡って進む。
そこは「深草谷口町」で、道端に「宇多天皇皇后御陵」、「仁明天皇御
陵」、「桓武大王陵」などと彫られた石標が建てられていた。



 「仁明天皇御陵」は、「深草陵(ふかくさのみささぎ)」と呼ばれる、
宮内庁が治定する第54代天皇の陵で、ここから200m程北に入った場所
にあるようだ。第50代・桓武天皇は、平安京に遷都した天皇で、教科
書にも登場し良く知られた天皇である。



 陵墓は直線でも2㎞程南に離れた伏見桃山にある柏原陵(かしわばら
のみささぎ)とされているが、当地以外にも参考地とされる陵墓がある
らしい。
 宇多天皇は、第59代の天皇で、女御は贈皇太后(藤原胤子)の事で、
墓は小野陵がこの近くの勧修寺北大日町にあるので、その事かと思う。



 これまでに他の場所にある天皇陵を訪れた事があるが、そこは深い森
の中にひっそりと佇んでいた。
時折ハイカーが訪れるようだが、参拝する人は稀らしく、その日は人と
出会うこともなく辺りは深閑としていた。



 何れにしても、こうして街道筋に天皇陵への道標が建てられていると
いうことは、昔の人は歴代天皇をお慕いし、陵墓に崇拝に訪れる事も多
かったと言う事であろうか。
今日歴代天皇に対する尊崇の念は薄れ、御陵は観光の対象と成っている。



 久々に見る趣の或る町並の旧道を抜け、再び大岩街道に戻って来た。
そのまま100m程歩くと、前方にJR奈良線のガードが見えてくる。
その筆ケ坂橋というところで左折して、「西久宝寺町」に入る。
見えてきた道は、住宅の密集した地域を抜ける、可成りな急な坂の狭い
道である。(続)





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京都一周トレイル(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-13 | Weblog


 旧道は左にカーブしながら高速道路とは離れ、山科区勧修寺から伏見
区深草に入る。右手に京都国際ローンテニスクラブを見る辺りでは、天
気は再び回復し青空も見えてきた。



 左手の木立が茂る薄暗い所に大岩神社の赤い鳥居が立っていて、そこ
に「京都一周トレイル」と書かれた案内板が立っている。

 トレイルとは一般道とは違う自然散策の遊歩道を、歩いたり、走った
りして巡ることで、最近では環境省も普及に取り組んでいるらしい。
 自然で清廉な空気を堪能することで、森林浴をしているようなセラピー
効果や、そんな環境の中で運動することで脂肪を燃焼させるダイエット効
果も期待できるという。



 京都一周トレイルは、京都市をはじめ、京都府山岳連盟、在京の各鉄
道・バス会社、市観光協会等からなる「京都一周トレイル会」により整
備がされているようだ。

 京都の東南、伏見桃山から、比叡山、大原、鞍馬を経て、高雄、嵐山、
苔寺に至る全長約83.3㎞のコースと、豊かな森林や清流、田園風景に恵
まれた京北地域をめぐる全長約48.7㎞のコースが設けられているらしい。



 ここの標識は、ケーブル比叡駅を出て、吉田山、大文字山(465m)、
東山(220m)、稲荷山(165m)等を経て伏見稲荷駅に到る「東山コー
ス」(24.6㎞)のものだ。
途中には銀閣寺、霊鑑寺、泉涌寺や伏見稲荷など有名寺社が含まれている。



 先に進み、育英館大学京都サテライト校で、通称大岩街道から離れ右
斜めに入って行く。この辺りに僅かに残された正真正銘の旧道らしく、
道筋には結構古い家が並んでいて、緩く曲がった道が如何にもそれらし
い雰囲気を醸し出している。(続)





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観光農園 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-11 | Weblog


 右手に高速道路の防音壁を見ながら、まだ僅かに上っている府道の歩
道を再び歩き始める。
雨が止み一瞬青空を見せ、薄い日差しを差し込んでくれた空であったが、
今又黒い雲に変わっている。風があり、雲の流れも速く、再び雨が来る
のかも知れないと、そんな心配をしながらの歩きである。



 道路の左側に、「勧修寺観光農園」と言うのが有った。
名前からして、お寺が副業に観光農園をしているのかと思ったが、この
辺りの地名が「勧修寺○○町」なのでその地名を冠したものと合点した。



 「たけのこ」と書かれた薄緑色の幟旗が何本も立てられている。
旬を向かえた筍が売られていたらしいが、既に完売の札が店先に掛けら
れている。
その先には、「林亀ぶどう園」等があり、この辺り観光農園や直売所が
軒を連ねている。看板によると、ブドウ狩りや芋掘りが出来るらしい。



 その先の左側には深草ゴルフ場が有ったが、コースを廻るゴルフ場で
はなく、打ちっ放しの練習場のようで、駐車場には可成りな数の車が駐
められていた。

 「深草馬谷町」のバス停を過ぎる辺りから、道の両側には竹薮が目立
つようになる。先程の直売所で筍を販売していたから名産地で、観光
竹林でもあるのかと思ったが、筍掘りが楽しめるとも書かれていないの
でそうではないらしい。



 嘗て東高野街道を高野山に向けて歩いた折、八幡の町外れの「達磨堂
円福禅寺」辺りで見た竹薮は、適度に間引かれ、倒れたり折れたりした
竹の放置もなく、手入れが行き届きさすが観光園らしく綺麗にしている
なぁ・・・と感じ入った事を俄に思い出した。



 しかしここの竹薮は、手が入っているとは思えない程に密生し、伸び
放題で、随分と荒れているように見受けられた。(続)



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突然の雨 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2024-12-09 | Weblog
 街道はこの先人家の乏しい地域を進むことになるが、この頃になると
雲行きが少し、怪しくなってきた。この日の天気予報は晴れながら、降
水量0㎜では有るが突然の雨に注意と言っていた。
ここまでは青空に所々白い雲が浮ぶ、穏やかな気候で歩きやすい日であ
ったが、その空は何時しか濃い灰色に変わっている。



 「勧修寺下ノ茶屋町」を過ぎ、右の高速道路と並行する道は、反対側
は山地で、地図で確認すると人家や店舗は殆ど見られない。
こんなところで荒れた天気にでもなったら大変と少し歩みを早めて上っ
てきた。

 

 しかし、空はすっかり黒くなり、辺りも幾分暗くなったようで、一段
と強くなった風は冷気を含んで吹き、街道脇の木々をワサワサと揺らし、
すでにぽつりぽつりと大粒な雨を落し始めている。



 雨になったら、あそこに駆け込もうと思っていた。
高速下には、それを横切る道路のトンネルが幾つかあり、降り出したら
そこへ、と思っていた矢先いきなりザーッと来た。
 幸いな事に、たまたま35号大津淀線の車も途絶えていたので、難なく
道路を横断出来た。予めの心構で咄嗟に高架下のトンネルに駆け込むこ
とが出来、大して濡れることもなかったのが幸いだ。



 雨で気温が若干下がったのか、トンネルの中故か、逃れた場所では少
し肌寒く感じる。ここは滅多に車も来ないので座り込んで、カロリーメ
イトをかじり、腹ごしらえをし、十分に水分を補給した。
ここまでは雨を気にして、急ぎ足でろくに休憩も取らず歩き続けてきた
ので、丁度良い足休めと成った。



 10分ほど降った雨は、これで気が済んだのか、何事もなかったかの様
に止んだ。幾分気温が下がったようで、外は心地よい風が吹いている。
見上げる空には、既に青空が戻り薄日も差してきた。(続)





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