国道24号線の交差点の手前に、橦木町廓跡を示す「志ゆもく町廓入口」
の門柱が立っている。
遊廓は、元々は豊臣秀吉が伏見城を築いた頃、伏見田町に造られたもの
で、その後の慶長9(1604)年に渡辺掃部・前原八右衛門の両名により当
地に移設開設されたらしい。

島原遊廓の流れをくみ、伏見の町の発展と共に栄え、元禄期(1688~
1704)全盛期を迎えたらしい。伏見湊近くに置かれた柳町(後の中書島)
に、一時は客を奪われ衰退し、田畑に変わった頃もあったが、江戸後期
に再び遊廓として復活した。

この石の門柱が立てられたのが大正期で、この時代にはまだ隆盛して
いたらしく、賑わいは第二次大戦の後まで続いたと言う。
いわゆる赤線地帯、政府公認の遊廓で、昭和33(1958)年3月に「売
春防止法」が施行されるまで続いていた。

規模的には左程大きくはなかったらしいが、当地は京街道、奈良街道
や伏見街道が交錯する要衝の地で、古くから芝居小屋や土産物屋等が軒
を連ねる宿場町として栄え、遊廓にも京都の公家衆が多数訪れたと伝え
られている。

ここを有名にしたのは、京都に於ける「忠臣蔵」所縁の地として知ら
れているからだ。大石内蔵助が、笹屋清左衛門の遊廓「よろづや」で、
主君の仇である吉良方の目をあざむくために、遊興に耽った振りをし、
遊びほおけたと伝えられている。

橦木町の名前の謂れは、花街一帯の形状が仏具の一種で、鐘や半鐘を
打つ「撞木(しゅもく)」のT字型の棒に似ているからと言われている。
そんな遊里も今は住宅地に変わりその面影は無く、跡地を示す石碑が
ひっそりと立てられているだけらしい。

(東海道五十七次歩き旅・山城国・前編 完 後編に続く)

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の門柱が立っている。
遊廓は、元々は豊臣秀吉が伏見城を築いた頃、伏見田町に造られたもの
で、その後の慶長9(1604)年に渡辺掃部・前原八右衛門の両名により当
地に移設開設されたらしい。

島原遊廓の流れをくみ、伏見の町の発展と共に栄え、元禄期(1688~
1704)全盛期を迎えたらしい。伏見湊近くに置かれた柳町(後の中書島)
に、一時は客を奪われ衰退し、田畑に変わった頃もあったが、江戸後期
に再び遊廓として復活した。

この石の門柱が立てられたのが大正期で、この時代にはまだ隆盛して
いたらしく、賑わいは第二次大戦の後まで続いたと言う。
いわゆる赤線地帯、政府公認の遊廓で、昭和33(1958)年3月に「売
春防止法」が施行されるまで続いていた。

規模的には左程大きくはなかったらしいが、当地は京街道、奈良街道
や伏見街道が交錯する要衝の地で、古くから芝居小屋や土産物屋等が軒
を連ねる宿場町として栄え、遊廓にも京都の公家衆が多数訪れたと伝え
られている。

ここを有名にしたのは、京都に於ける「忠臣蔵」所縁の地として知ら
れているからだ。大石内蔵助が、笹屋清左衛門の遊廓「よろづや」で、
主君の仇である吉良方の目をあざむくために、遊興に耽った振りをし、
遊びほおけたと伝えられている。

橦木町の名前の謂れは、花街一帯の形状が仏具の一種で、鐘や半鐘を
打つ「撞木(しゅもく)」のT字型の棒に似ているからと言われている。
そんな遊里も今は住宅地に変わりその面影は無く、跡地を示す石碑が
ひっそりと立てられているだけらしい。

(東海道五十七次歩き旅・山城国・前編 完 後編に続く)

