簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

東海道・淀宿(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-07 | Weblog
 淀は城下町であり川舟の寄港地としても栄え、元和5(1619)年に
は淀宿が成立している。ただ宿場町としての規模は左程のものはなく、
江戸期の家の数800軒余、人口2800人余りで旅籠の数も16軒と少なく、
本陣・脇本陣は置かれていなかった。



 明治を向かえると人口は7.3万人余りで、町の規模も江戸期に比べる
と拡大している。美豆村と淀村を編入した淀町が京都市に編入されるの
は、昭和32(1957)年のことだ。
納所村は、淀町よりも早い昭和6(1931)年に編入されている。



 納所は昔から淀の中心的な所で、町中には「納所村道路元標」が有る。
河川の付け替えで、遺構が殆ど失われたとはいえ、桂川河畔には、朝鮮
通信使が上陸した船着き場の跡「唐人雁木旧跡」の碑、更に戊辰戦争に
関連する記念碑等も多い。



 駅前の府道124号に面した場所にも、「淀小橋旧址」碑がある。
嘗てここには淀城下と城外の納所を繫ぐ、長さ七一間(129m)、幅は
四間(約7.3m)の橋が架かっていたらしいが、現在では埋め立てられ
橋は無く、川も流れていない。



 北東面に「東南 淀川渡場径」と彫られ下に小さい字で「 渡舟場十丁
一口村十四丁 中島十丁 相島十八丁 森十九丁 野村廿三丁坊池廿丁 巨
椋湖十五丁」とある。

 更に南東面には「十一面観世音尊像 安養寺」と彫られ、小さい字で
「弥陀次郎開基 一口村 是南十五丁」とある。



 昭和3年に遺志で建立されたと言う道標が、京阪本線の高架下に立
っていた。

 東海道五十七次(京街道)の宿場町でもある淀の城下町は、京・羅
城門から南下し桂川左岸を来る鳥羽街道の終点でもある。
この道はその先高野街道から高野山へと続いている。(続)





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陸と川の結節点(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-05 | Weblog
 「淀(よど)」は、京都市伏見区の南西部に位置する地域である。
競馬ファンの間では、「京都競馬場」がある場所としての知名度が高く、
今では「淀」という地名がそのまま競馬場の通称になっている。



 元々この辺りは淀川水系の桂川、宇治川、木津川の三川が合流する標
高10m程という低い三角州で、流れはいつも澱んでいたことから「淀」
呼ばれるようになった。

 明治に入ると初期の頃に木津川が、後期には宇治川がそれぞれ付け替
えられているので、この辺りの地形は大きく変化している。



 淀の「納所」は、京の南玄関口として古くから軍事的な要衝であった。
又川湊が開かれ、陸路の街道も通り、物流的にも人事的にも重要な場所
とされていた。
 ところが川の付け替えで嘗ての淀城の城下町や、淀宿当時の遺構は殆
ど失われ、何も残ってはい無いという。
見附の場所や宿場の中心が何所なのかも良く分かっていないらしい。



 「納所」は「のうそ」と読む。
昔当地では、淀の川湊に水揚げされ、その後平安京へ運ぶ様々な物資が
収められ倉庫が立ち並んでいた。この物を「納」める倉庫が立ち並んで
いた「所」という意味である。



 因みに、季節に先駆け出始めた野菜や魚などを「はしり」と言うが、
その昔は、三十石舟で運ばれた生鮮食品は、淀の川湊に陸揚げされると
鮮度を落とさないよう、都まで走って運ばれたという。
このことが、この「はしり」の語源とされている。



 クリーンセンターの施設内に迷い込み、思わぬ回り道で正午を大きく
過ぎたにも関わらず、昼食も食べそこねてしまった。
 食事場所を探しに、「納所」の交差点から京阪本線の「淀駅」の高架
を潜り、その競馬場が見える場所にやってきた。(続)





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思わぬ遠回り(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-03 | Weblog
 高瀬川の橋が通れず、思わぬ遠回りをし、おまけにクリーンセンター
内に迷い込み、時間だけが押し、これまで随分と歩いているのに一向に
前に進めない。行き止まりでは、先ほどの若い女性の言う通り国道1号
線まで戻るより仕方が無い。



 国道まで戻り手前を左に曲がり、下の側道に出てそれに沿って歩く。
先程のサラリーマン氏が教えてくれたとおり、国道に上がる階段はなく、
北に向け300m程行くと交差する道路があり、これまで歩いてきた道は、
その先で国道に吸収される。



 ここでUターンし、坂を上れば宇治川大橋の北詰に出るので、右に曲
がれば街道歩きの本来のルートに乗れる。
 素直に向かえば良かったものを、偶然道路脇に立つ「淀競馬場」への
案内板が目に付いたものだから、ついその標識に誘われてしまった。



 こちらからでも行かれるなら、大路の方が解りやすくて安心だ、それ
にどこかで昼食もとりたい。堤防道に食事処はない。
 そんな思いから、そのまま先に進み横大路交差点に出てそこを左折、
京都外環状線道路を歩く事になった。
しかしこの判断がとんでもない間違いを犯すことになる。



 確かに道は解りやすかった。その先の外環横大路をバス停で確認しこ
こを左折すれば、後は一本道で安心して歩くことが出来る。しかしこれ
が何とも単調で途轍もなく遠かった。後で距離を測ってみると、3.5㎞
余もあった。



 素直に堤防道を歩いていれば、2㎞足らずで済んだものを、とんだ遠
回りをしてしまった。来た以上途中から引き返すことも癪で、味気ない
都会の幹線道路を、写真も撮らず、昼食も先延ばしにし、ただただ歩き、
疲れ果てて、ようやくにして淀納所交差点に出た。(続)





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