簾 満月「バスの助手席」

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山崎橋 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-03-03 | Weblog

 その昔の神亀2(725)年、僧・行基はこの地に「山崎橋」と呼ばれ
る橋を架けた。今日その場所に同名の橋は存在しないが、日本三古橋の
一つと言われた橋である。因みに三古橋の残り二橋は、宇治橋と瀬田の
唐橋で、何れも後継橋が現在まで残されている。



 宇治橋は、大化2(646)年、大和国・元興寺の僧・道登(どうと)
により宇治川に架けられた橋である。これまでに古今和歌集や源氏物語
等の文学作品にも登場する、宇治を象徴する橋とされている。
橋の袂には紫式部の像があり撮影スポットになっている。



 瀬田の唐橋は瀬田川に架かる橋で、1000年以上前から存在が知られ、
「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、京の都と東国を結ぶ
交通の要衝地に架かっている。唐金擬宝珠(からがねぎぼし)の美しい
欄干の橋で、その風光明媚は「瀬田の夕照」として広く知られている。



 「山崎橋」が結ぶ対岸の山崎は、現在の京都府の大山崎町から大阪府
の山崎町にまたがる辺りである。古くから北陸交通の要衝地で、丹波街
道の起点であり、西国街道も通り、京と芥川との間に位置する宿場町で
もあった。



 この山崎橋の左岸に出来た集落は橋の袂にあった事から、「橋本」と
呼ばれるようになる。この橋本には、東海道も通っていて所謂間の宿、
(五十七次の淀宿と枚方宿の中間に位置)、石清水八幡宮の門前町に
近く参拝者の宿泊場所としても賑わっていた。



 しかし橋は度々の増水で何度も流され、幾度も架け直しが行われた。
しかし、元禄年間に架けられた橋が流されて以降は、新たな橋は架けら
れなかったという。(続)



(写真:上三枚は順に宇治橋、瀬田の唐橋、西国街道山崎宿)




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