簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

杖衝坂 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-08 | Weblog


 「杖突坂 采女村にあり官道に属す、伝へ云ふ倭武尊東征の時、桑名
郡尾津村より能褒野に到るの時、剣を杖つき此坂を踰え玉ふ故に名ずく」
と古誌で紹介されている。
 「日本武尊が余りにも急坂で疲れ果て、剣を杖代わりにして登った・」
(古事記)と伝わるのが、釆女町の杖衝坂だ。



 坂の途中に「うつべ町角博物館」があった。
内部川の流域に開けた旧内部村の、縄文の昔から続く文化を紹介する施
設である。和風平屋住宅の内部五部屋を改装し、平成24年に開館した。
街道歩きの休憩場所や、地域の学習交流の拠点として活用されている。



 「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」

 更に上ると「史跡 杖衝坂」の石柱が立ち、横に「永代常夜灯」や、
屋根付きの小さな建屋の中に芭蕉の句碑がある。



 芭蕉は江戸から故郷の伊賀に帰る途中、この坂を馬に跨り越えようと
したが、余りにも急坂のため途中で鞍ごと落ちてしまった。
それが余程ショックであったのか、芭蕉にしては珍しい季語の無い句を
読んでいる。



 この場所には二つの井戸が残されている。
手前の井戸を「大日の井戸」といい、坂の途中にあった大日堂にお供え
する「閼伽水(あかみず)」を組み上げた井戸である。 
 もう一つは、「弘法の井戸」で、水に困る住民のため弘法大師が杖を
指して掘らせたところ水が湧き出たという。



 こう言った弘法大師伝説は、四国八十八カ所のルート上のみならず、
全国至る所に残されている。空海は遣唐使として入唐し、その折土木技
術も学んでいるので、水の出やすい場所を地勢的に見て承知していたの
であろう。(続)




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采女(うねめ)町 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-05 | Weblog
 明治の中頃、小古曽、北小松、采女、貝塚、並木の五ケ村が合併して
内部(うつべ)村が誕生した。
村名は近くを流れる内部川に因んで名付けられた。
昭和に入ると内部村は四日市市に吸収合併され、昔の村名は地区名とし
て残ることになる。



 この辺りをその一つ采女町と言い、古い家が幾らか残り、なんとなく
懐かしい風情ある町並が見られる通りである。これまで見てきた街道筋
に面した家並みは、地域で例外もあるが、妻入りか平入りかでほぼ統一
されていた印象を持っていたが、ここは珍しく混在して建っている。



 杖衝坂の登り口にある集落で古くから「采女郷」として知られた地だ。

 「杖つき坂の東にあり。日本武尊御悩の時、三重の郡家より采女出て
御介抱し奉る。(中略)采女の名是より起こる」(東海道名所図会)



 「采女」とは、古代朝廷に仕え、主に天皇や皇后の食膳の奉仕をした
下級の女官をいう。多くは地方豪族の娘たちで、朝廷への服従の証拠と
して娘を采女として差し出したと云われているから一種の人質である。

 容姿端麗が絶対条件と云われるが、才媛であることも必要だった。
この「三重の郡家より采女・・・」と書かれた女性は、この地の女性と
言われている。



 国道から300m程進んで突当りを右折し、更に100m程先を左折する。
道の先はすでに登り坂の様相で、小さな川を越えればそこが杖衝坂の登
り口だ。道は枡形に曲がると、金刀比羅宮の小さなお堂が右にある。



 その前を左に折れると更に勾配を増して右カーブで登り始める。
久しぶりに遭遇する急坂で、たちまちにして息が上がる。(続)



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小古曽(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-03 | Weblog
 「日永の追分け」で、弥次さんと喜多さんは、左の伊勢参宮道に入り、
お伊勢参りの旅へと進んで行った。
次の宿場神戸(かんべ)迄は一里九丁(およそ4.9㎞)の距離である。

 東海道はそれと分かれ、やや西寄りに右の道を旧小古曽村へと向かう。
これまでほぼ並走してきた「あすなろう鉄道」の終点「内部駅」が左に
見えると、街道はそのまま進み内部川で行き止まる。





 昔はここに橋が架けられていたが、今は無く少し下流に国道の橋が架
けられている。駅のところで、左の新道を行き、小古曽東三の交差点で
国道1号線に合流する。交差点から国道に出て、歩道橋を渡り、暫くし
て内部川に架かる内部橋を渡る。

 日本橋から延びる現在の東海道、国道1号線の道路標識には、401.5㎞
と表示されている。
残す京・三条大橋までの距離も、既に百キロを切ったことになる。





 七里の渡しを終え桑名に上陸すると東海道は、比較的平坦な地勢に助
けられ、殆ど難所と言われる所も無く、苦も無くここまでやって来た。
街道筋は伊勢湾の海に近い内陸部に当たり、濃尾平野から続く伊勢平野
の堆積地帯で、殆ど高低差の無い市街地を抜けてきたのである。





 橋を渡り、国道と交差する旧道を南に入り込むと、采女の集落である。
まだ高くは無いが回りの丘陵地帯が、これまでと違った様子を見せている。
進路もこの先でやや西向きに変化すると、行く手には西の難所鈴鹿山脈が
立ち塞がっている筈だが、その姿を目にすることはまだ無い。
その前に采女の集落の先の、まず小さな難所を越えなければ成らない。(続)

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伊勢国(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-05-01 | Weblog


 伊勢国は伊勢湾に沿って南北に細長く、八つの藩から構成されている。
中での最有力大名は、「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ」と古くから謳
われ、現在の県庁所在地、津市に津城を構えた「津藩」32.3万石である。



 藩祖は外様大名、築城の名手と言われた藤堂高虎で、藩の推定人口は
26万人余りと言われ、当時は伊勢の国の大藩であった。
 因みに現在の津市の人口は、27.1万人余である。
津市には、藤堂家から分家立藩した久居陣屋も置かれ「久居藩」5.3万石
が治めていた。



 桑名城を拠点としたのが「桑名藩」11.3万石である。
立藩したのは、徳川四天王の一人と称された本田忠勝で、その後家康の
異父弟・松平定勝が入封し、以後は主に松平氏が藩主を務めている。
伊勢の国への入口、七里の渡しが有るだけに、譜代大名が治めている。



 桑名の輪中地帯・長島を中心に治めたのは、長島城を拠点とした譜代
大名「長島藩」2.0万石 である。
菰野市には菰野陣屋が置かれ、外様大名「菰野藩」1.1万石が支配地とし
ていた。



 東海道の要衝地亀山を治めたのは、譜代大名「伊勢亀山藩」6.0万石だ。
松坂市には、松坂城の外様大名「松坂藩」5.5万石があり、鈴鹿市神戸の
「神戸藩」は、神戸城を拠点とした1.5万石の譜代大名であった。



 東海道は四日市宿を出て、泊村の日永の一里塚から、日永の追分けま
でやって来た。当時とまり村は、紀州藩の飛び地だったようで、その南
端に当るのが追分けである。



 江戸中期「松坂藩」は、紀州藩の領地になっている。
この国には紀州の飛び地が幾らかあったようだが、追分けが紀州領地で
あったかは、調べてみたが良く解らなかった。(続)

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