「杖突坂 采女村にあり官道に属す、伝へ云ふ倭武尊東征の時、桑名
郡尾津村より能褒野に到るの時、剣を杖つき此坂を踰え玉ふ故に名ずく」
と古誌で紹介されている。
「日本武尊が余りにも急坂で疲れ果て、剣を杖代わりにして登った・」
(古事記)と伝わるのが、釆女町の杖衝坂だ。
坂の途中に「うつべ町角博物館」があった。
内部川の流域に開けた旧内部村の、縄文の昔から続く文化を紹介する施
設である。和風平屋住宅の内部五部屋を改装し、平成24年に開館した。
街道歩きの休憩場所や、地域の学習交流の拠点として活用されている。
「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」
更に上ると「史跡 杖衝坂」の石柱が立ち、横に「永代常夜灯」や、
屋根付きの小さな建屋の中に芭蕉の句碑がある。
芭蕉は江戸から故郷の伊賀に帰る途中、この坂を馬に跨り越えようと
したが、余りにも急坂のため途中で鞍ごと落ちてしまった。
それが余程ショックであったのか、芭蕉にしては珍しい季語の無い句を
読んでいる。
この場所には二つの井戸が残されている。
手前の井戸を「大日の井戸」といい、坂の途中にあった大日堂にお供え
する「閼伽水(あかみず)」を組み上げた井戸である。
もう一つは、「弘法の井戸」で、水に困る住民のため弘法大師が杖を
指して掘らせたところ水が湧き出たという。
こう言った弘法大師伝説は、四国八十八カ所のルート上のみならず、
全国至る所に残されている。空海は遣唐使として入唐し、その折土木技
術も学んでいるので、水の出やすい場所を地勢的に見て承知していたの
であろう。(続)
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