街道ウォーク<旧東海道<蒲原宿(駅)~府中宿(静岡駅)
2011年6月1日 6回目
由比桜えび通り
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街道ウォーク<旧東海道<蒲原宿(駅)~府中宿(静岡駅)
2011年6月1日 6回目
由比桜えび通り
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街道ウォーク<旧東海道<蒲原宿(駅)~府中宿(静岡駅)
2011年6月1日 6回目
由比川橋 常夜灯
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2011年6月1日 6回目
薩垂峠まで4.9kmの標識
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2011年6月1日 6回目
明治の郵便局舎/由比宿西木戸
▲明治の郵便局舎▲
▲江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では朝日麟一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。明治4年3月、郵便制度の創設により飛脚屋は由比郵便取扱役所となり、さらに明治8年1月由比郵便局と改称された。明治39年5月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治41年1月より郵便局を移転した。この局舎は昭和2年7月まで使用され、現在は平野氏私宅になっている。記載内容
▲由比宿西木戸
天保12年(1841)に江戸幕府が編集した東海道宿村大概帳によると、由比宿の町並みは東 西5町半(約600m)とあります。その宿場の西の木戸(通行人の出入り口)が、この先 の桝形(曲がり角)の所あたりだったと思われます。旧東海道は、その桝形を左折して坂道 を下って由比川の河原へ出ると、仮の板橋が架けられていて、それを渡りました。雨が降っ て水量が増すと、この仮板橋は取り外されました。このように由比川は徒歩で渡りましたの で、歩行渡りと言っています。歌川広重の版画の行書版東海道の『由井』には、この情景が よく活写されています。また狂歌入り東海道には、結城亭雛機という人が、『ふみ込めば 草臥足も 直るかや 三里たけなる 由井川の水』という狂歌を残しています。記載内容
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2011年6月1日 6回目
常夜灯/正雪紺屋/脇本陣温飩屋
▲常夜灯(由比本陣公園)
▲正雪紺屋▼
▲表に蔀戸(しとみと)を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より400年近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた四つ一組の藍瓶等の染物用具や、天井に吊 るされた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができます。慶安事件で有名な由比正雪(1605~51)は、この紺屋の生まれといわれていることから、正雪紺屋の屋号がつけられています。記載内容
▲脇本陣温飩屋(うんどんや)
脇本陣とは、副本陣という意味です。由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒あり、そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この温飩屋になる。東海道宿村大概帳(天保12年(1484年)幕末編集)に、脇本陣壱軒、凡そ建坪九十坪、門構え、玄関付とあるのがここだと思われる。記載内容
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街道ウォーク<旧東海道<蒲原宿(駅)~府中宿(静岡駅)
2011年6月1日 6回目
江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった。
此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸・和歌山間-五八四キロ-に約七里-二八キロ-毎の宿場に中継ぎ役所を置き、五人一組の飛 脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜・下り竜の模様の伊達半天を着て「七里 飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日を要した。特急便は四日足らずで到着した。幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八 太夫役所などとあるのは、油比駅における紀州家お七里役所のことである。この裏手に大正末年までお七里役衆の長屋があった。 記載内容
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2011年6月1日 6回目
由比駅まで2.8kmの標識
▲由比宿まで0.6km 由比駅までは2.8km
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2011年6月1日 6回目
蒲原駅前の東海道/桜えび店
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2011年6月1日 6回目
リーボックス
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