コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

旅籠川坂屋(日坂宿)~静岡県掛川市日坂

2011-06-15 19:41:40 | 建築物(洋館以外)

2011年6月13日 静岡県

旅籠川坂屋

静岡県掛川市日坂

 

大坂の陣(慶長十九年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七朗源重吉は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789~1800)に問屋役を務めたこともある齋藤次右衛門が始めたと伝えられています。現在の建物は宿場の殆んどが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。 宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。 また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの着いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられたことは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。旅籠屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供していたと思われます。その後、平成五年(1993)まで齋藤家の住居として使われ、平成十二年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。 敷地は三百坪ありましたが、昭和二十五年(1950)の新国道開通で分断され、その後、平成七年のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田候より拝領した「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされました。茶室は平成十五年(2003)母屋の北側の地に復元されました。文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳には「川坂屋」について次のように記されています。

間口 六間
畳  五拾八畳半 旅籠屋
板鋪 六畳 次右衛門
奥行 拾参間
惣畳数  〆六拾四畳半
惣坪数  〆七拾八坪

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅籠川坂屋(日坂宿)(静岡県掛川市日坂)~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:41:31 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目

旅籠川坂屋

静岡県掛川市日坂

 

大坂の陣(慶長十九年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七朗源重吉は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789~1800)に問屋役を務めたこともある齋藤次右衛門が始めたと伝えられています。現在の建物は宿場の殆んどが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。 宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。 また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの着いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられたことは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。旅籠屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供していたと思われます。その後、平成五年(1993)まで齋藤家の住居として使われ、平成十二年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。 敷地は三百坪ありましたが、昭和二十五年(1950)の新国道開通で分断され、その後、平成七年のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田候より拝領した「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされました。茶室は平成十五年(2003)母屋の北側の地に復元されました。文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳には「川坂屋」について次のように記されています。

間口 六間
畳  五拾八畳半 旅籠屋
板鋪 六畳 次右衛門
奥行 拾参間
惣畳数  〆六拾四畳半
惣坪数  〆七拾八坪

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脇本陣「黒田屋」跡(日坂宿)~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:41:21 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目

脇本陣「黒田屋」跡

日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが努めた。ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を努めた「黒田屋(大澤富三郎家)」があった。黒田屋の拵えは文久2年(1862年)の宿内軒並取調書上帳に、間口8間・奥行15間・畳101畳・板鋪15畳・惣坪数〆120坪と記されている。また、明治天皇が街道巡幸の際、明治2年3月21日と明治11年11月2日の2回にわたりここ脇本陣で小休止をなされた。

 cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田屋(日坂宿)~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:41:11 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目 

池田屋 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋葉の常夜灯(日坂宿)~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:41:09 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目

 秋葉の常夜灯(日坂宿)

 ▲日坂宿入口付近

 庶民の秋葉山に対する信仰は、江戸中期にとても盛んになりました。常夜燈は秋葉山に参詣するための街道沿いにあるものばかりでなく、人々が火伏せの神への信仰や地域内の安全を願って建てられたものも数多くあります。日坂宿は、しばしば火災にあったためか、秋葉信仰が盛んだったようです。掛川ホームページより

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日坂宿(静岡県掛川市日坂宿)~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:41:08 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク>旧東海道>金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目

日坂宿

静岡県掛川市日坂宿

 

江戸から五十四里余、日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。「日坂宿」の初見は、室町末期の文明12年(1480)の「平安紀行」といわれています。慶長6(1601)年、徳川家康による東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は重要な存在になりました。助郷43村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。天保14(1843)年の記録によれば、家数168軒、人口750人とあり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒がありました。大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(700m)町並みの形態は現在もあまり変わっていません。 日坂地域振興の会 日坂宿おこし委員会 記載内容 
 
 
 
▲日坂の町並み
cosmophantom 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「二の曲」と「沓掛」~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:41:05 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目

「二の曲」と「沓掛」

 

「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの旧カーブを指しています。 「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ=馬用の草鞋)を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因(よ)るといわれています。記載内容

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浮世絵のモニュメント~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:41:03 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目 

浮世絵のモニュメント 

▲説明文 とにかく読みづらい・・・・広重作で小夜の中山を描いているようである。 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬頭観世音~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:40:57 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目

馬頭観世音

六観音・八大明王の一。人身馬頭、または宝冠に馬頭をいただき、憤怒の相をした観世音菩薩。江戸時代、馬の守護神として民間に広く信仰された。馬頭大士。馬頭明王。三省堂 大辞林

 佐夜の中山峠には、多くの伝説が残されていますが、その一つに蛇身鳥(じゃしん ちょう)退治の物語りが言い伝えられています。この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に 京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬った所とされています。

 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山神社~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:39:57 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目

白山神社

 

 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐夜鹿(小夜の中山)一里塚(56里)~旧東海道を歩く(8回目)

2011-06-15 19:38:57 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目

佐夜鹿(さよしか)(小夜の中山)一里塚

この佐夜鹿一里塚は、 江戸日本橋より56里の地点です。

 徳川家康(1542-1616)は慶長六年(1601)江戸と京都を結ぶ海 道に宿駅を設置しました。 その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。一里塚とは、江戸日本橋を基点にして一里(三十六町)ごとの里程を示す塚で、街道の両側に五間(約九メートル)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられました。 ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の古い言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて、五十六里目という説があります。 また、元禄三年(1690)の「東海道分間絵図」では、日本橋から日坂宿まで五十二里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。 天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」では、日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里ニ町ですので、この一里塚は五十四里に相当すると思われます。 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。 いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などにとって、おおよその道程の目安になっていたと思われます。
※54里と55里が欠番。佐夜鹿一里塚の江戸からの距離は、元禄3年(1690)の「東海道分間絵図」では、52里、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」では、54里と記されている。

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする