街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
見附の町並みと道標
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
見附の町並みと道標
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
見附東木戸
▲見付の文化財案内図
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2011年6月13日 8回目
遠州見付宿 木戸跡
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2011年6月13日 8回目
三ケ野道標
▲見付宿 1.4km 宿界三一町
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2011年6月13日 8回目
木原地区
▲木原は、元亀3(1572)年に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地として知られています。また武田勝頼軍の斥候笹田源吾に由来する「木原大念仏」(市指定無形民俗文化財)の発祥の地でもあります。地区内には、原寸大に復元された木原一里塚をはじめ木原権現社(式内許禰神社)長命寺笹田源吾の墓や供養塔徳川家康腰掛石など多くの歴史遺産が残っています。
▲古戦場 木原畷
元亀3(1572)年、兵3万5千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城飯田城を落として久野城へ向かった。しかし久野宗能の激しい抵抗にあったため東海道を西に向かい、ここ木原・西島に陣をはった。これを知った徳川家康の兵とこの付近で小競り合いをくり返した信玄はやがて二俣城を攻略し、東三河へ向かうべく三方ヶ原を通過しようとした。これに対して家康は兵1万で迎え撃ったが、信玄の大軍の前に一蹴され浜松城へ逃げ帰った。これが世にいう三方ヶ原の合戦で、木原での戦いはこの前哨戦ともいうべきものであった。1985年5月袋井市教育委員会
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
木原一里塚
静岡県袋井市木原
▲説明文によると復元されたもの
木原一里塚は、江戸から数えて61里目の一里塚です。「東海道宿村大概帳」(逓信総合博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、「東海道分間延絵図」(東京国立博物館蔵)や「東海道分間絵図」(東京国立博物館蔵)などには、塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。記載内容
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2011年6月13日 8回目
木原松橋道標
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
蔦屋版東海道 袋井
松の枝に吊した茶釜で湯を沸かす出茶屋の女主人、キセルをくゆらし、しょざいなく高札を見入る駕篭かき、床几に腰掛け、茶をすする職人風の二人づれ、馬子はいないが、荷物と女性を乗せた馬は軽尻であろうか。街道は遠くの村々へと続き、夕日にはえる山並みとともに、袋井市域のおだやかな夕暮れを思わせます。
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2011年6月13日 静岡県
旧澤野医院 袋井市指定文化財
静岡県袋井市
旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。澤野家は享保12(1727)年に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行きも29間あり、さらに西側に12.5間、9間の短形敷地が設けられていたと考えられます。この敷地内に、街道に接して病棟(洋風2階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によってつながれている洋館が建てられています。各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後若干の変更が見られます。各建物の建築磁器は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流れを知る上では貴重な存在と言って過言ではありません。
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2011年6月13日 8回目
旧澤野医院 袋井市指定文化財
静岡県袋井市
旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。澤野家は享保12(1727)年に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行きも29間あり、さらに西側に12.5間、9間の短形敷地が設けられていたと考えられます。この敷地内に、街道に接して病棟(洋風2階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によってつながれている洋館が建てられています。各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後若干の変更が見られます。各建物の建築磁器は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流れを知る上では貴重な存在と言って過言ではありません。
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
春興五十三駄之内袋井など
春興五十三駄之内 袋井
葛飾北斎が生涯に描いた十一種類の東海道風景がの一つ。画面上部に三首の狂歌が添えられています。大きな荷物を背負った馬と大黒様を思わせる旅人。お茶を差し出す女将の姿は、どまん中袋井宿の「おもてなしの心」を表しています。
東海道五十三次之内 袋井之図
「保永堂版東海道五十三次之内 袋井」を模した出茶屋を背景に、荷を背負い、杖をつき、先を急ぐ女性の旅人を描いています。おそらく伊勢参りに行くのでしょう。当時、女性の旅は伊勢参りがほとんどでした。
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2011年6月13日 8回目
高札風説明板(秋葉山常夜灯、高札場、土手)
秋葉山常夜灯
日伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。公園入口の常夜灯はもと東海道の北側にあり、南側約50mの円信寺跡には、1800年(寛政12年)に建立された常夜灯が今も残っています。平成11年4月袋井市
高札場
幕府が人々を治めるため、忠孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を掲示した場所を高札場と呼び、1711年(正徳元年)以降に整えられました。高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました。平成11年4月袋井市
土手(土塁)
いくつかの中小河川をひかえた袋井宿は、背の高い土手(土塁)に囲まれていたといわれています。大正時代に撮影された宿入口の写真に、石垣で補強された高さ2mをこえる土手が写っています。土手の内側には桝形(宿の警護所)がありました。袋井宿の景観をイメージしていただけるよう、階段の両脇に土手を再現しました。平成11年4月袋井市
▲どまん中ふくろいのモニュメント
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
時空を越える道との対話:名所旧跡案内
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
問屋場(人馬会所)跡
袋井宿で、人馬の継立業務を行っていたところ。文化年間(1806~17)には、街道の北、中本陣の西側にあったといわれています。
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
此処はどまん中袋井宿
州山名郡袋井宿
掛川宿へ二里16町(約9.7キロ)
見付宿へ1里半(約6キロ)
当所うなぎすっぽん名物
袋井宿の名は、すでに弘安の頃(1278~88年)に書かれた「遺塵和歌集」の長唄の一節に見ることができます。江戸時代の袋井宿は、徳川家康公により東海道の宿駅制度が定められてから15年後の元和2年(1616年)八月四日に開設されました。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても27番目、東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿です。以後若干省略
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