街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
久延寺
静岡県掛川市佐夜鹿 291
小夜の中山峠の中腹に位置する古刹です。
山内一豊が関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉征伐の軍を大坂より進めてきた家康をもてなした茶亭の跡や、その礼に家康が植えたとされる五葉松が残っています。境内は市の文化財に指定されています。 また、夜泣き石伝説ゆかりのお寺としても有名です。掛川市ホームページより
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
久延寺
静岡県掛川市佐夜鹿 291
小夜の中山峠の中腹に位置する古刹です。
山内一豊が関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉征伐の軍を大坂より進めてきた家康をもてなした茶亭の跡や、その礼に家康が植えたとされる五葉松が残っています。境内は市の文化財に指定されています。 また、夜泣き石伝説ゆかりのお寺としても有名です。掛川市ホームページより
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
道標 (日坂の宿 菊川の里)
日坂の宿←道標←間の宿菊川←金谷
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街道ウォーク<旧東海道<金谷宿(金谷駅)~見附(磐田駅)
2011年6月13日 8回目
「小夜の山中」は急な上り坂 茶畑が続く
小夜の中山(さよのなかやま)または佐夜の中山(読みは同じ)は、静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)に位置する峠。最高点の標高は252m。古くは遠江国の東部に属し、宿場では金谷宿と日坂宿の間に当たる。
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2011年6月13日 8回目
菊川由来の石
その昔附近の川から菊花紋の石が数多く出土されました その石は菊石と呼ばれて川の名前を菊川と名付け地名も生まれました。白菊姫の伝説による菊石は北へ1km位の処にある佐夜鹿公民館の傍にあります。
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2011年6月13日 8回目
「菊川案内板」と説明板「間の宿、菊川」 他
間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかってつくられました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿「菊川」が置かれました。間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では金谷宿の許可がないと旅人を泊めることはできませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられてていました。そこで生まれたのが菊川名物の「菜飯田楽」。大井川の激流を渡り、金谷坂を登り切った旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。 島田市・金谷町観光協会
▲バス停「 中納言宗行卿」 中納言宗行卿は菊川にゆかりのある鎌倉前期の公卿。
日坂宿-菊川-金谷宿
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2011年6月13日 8回目
菊川坂石畳と間の宿菊川
菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ2例目として・・・・・高い評価を得ています。・・・・・・・・・・・・・・・江戸時代には西の日坂宿、東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・記載内容抜粋
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2011年6月13日 8回目
菊川坂石畳
島田市菊川1748-17地先
通称、菊川坂と呼ばれ、諏訪原城跡から菊川宿へ至る途中の石畳で、道幅は2.9mから4.2m、全長161mに及びます。大小の山石を組み合わせ、やや隙間を開けて敷き詰められています。現在残っている石畳は、今から150年以上前に敷設されたものと考えられており、現状もよく残っています。 島田市博物館ホームページ
▲菊川坂石畳下り口
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2011年6月13日 8回目
茶畑
▲金谷の石畳を超えると茶畑が広がっていた。
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2011年6月13日 8回目
すべらず地蔵堂
『平成道普請・町民一人一石運動』によって甦った『旧東海道金谷坂石畳』の路肩に有志によって建立されたお地蔵さんがあります。東海道の開通より長い年月、旅人の足場を守ってきた『滑らない山石を敷いた石畳』にちなんで、この地蔵尊を『すべらず地蔵』と呼んでいます。『安全に、滑らず、転ばず、着実に進めるように』と試験合格や健康長寿、家内安全などを願いお詣りされています。ふじのくに文化資源データベース
▲お地蔵様は六角堂の中?
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2011年6月13日 8回目
鶏頭塚
鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。「曙も夕ぐれもなし 鶏頭華」の句と「六々庵巴静寛保甲子四年(1744)二月一九日没」と刻んだ自然石の碑である。巴静というのは、蕉風をひろめた 江戸時代の俳人でその教えを受けた金谷の門人たちは師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。 この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に 至っている。なお、塚の裏に位置する更新堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜 働きの着替え場所としたことが口碑として残っている。東海道金谷宿 記載内容
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2011年6月13日 8回目
金谷坂石畳
静岡県島田市金谷坂町
この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元されました。いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三個所だけとなりました。 平成4年3月 島田市教育委員会
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2011年6月13日 8回目
金谷大橋(西入口土橋)跡
現在の不動橋は、江戸時代には「西入口土橋」(金谷大橋)と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていました。規模は長さ6間(約10m)横幅2間半(約4.5m)橋桁は三本立四組の土橋でした。土橋とは橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土を搗き固めて造られた橋をいいました。「御普請所」となっていて約3年目毎に代官所の負担で修理や掛け替えが行われました。金谷坂を下ってきた大名行列は橋の北側にあった休み茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、宿場に整然と入りました。またここから上りは金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つでした。大橋の東側袂には「どじょう屋」という一膳飯屋があり、そこが「駕籠仕立て所」となっていて、坂を上下する公認の駕籠かき達の詰め所になっていました。 島田宿 金谷宿 史跡保存会 島田市教育委員会
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