街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
島田宿道標
▲金谷宿まで三十三町(3.6km)
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
島田宿道標
▲金谷宿まで三十三町(3.6km)
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
日本橋から206km
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2011年6月5日 7回目
上青島の一里塚跡
▲日本橋から51里目の一里塚。島田宿まで29町(3.2km)
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
染飯茶屋跡
江戸時代、この辺りの休憩所で染飯が売られていました。その包み紙に押した版木が残されています。
瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根づたいに通っていた頃から、尾根の茶店で売り始めたと言われ、天正十年(一五八二)の「信長公記」にその名が記されている。東海道が平地を通るようになっても、現在の茶店跡で江戸時代の終わり頃まで売られていた。染飯とは強飯(こわめし)をくちなしで染め、薄く小判型にしたものであったという。くちなしは足腰が強くなるというので、旅人には好評だった。染飯を売るときの包み紙に押した版木が市の指定文化財として石野家に残っている。平成十年五月 青島史跡保存会
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
東海道追分
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2011年6月5日 7回目
鏡池堂の六地蔵尊
鏡池堂の六地蔵尊は神龍棲む鏡ヶ池から出現したことから鏡池堂六地蔵尊と呼ばれている。地蔵の本像は知証大師の自作とされ、30糎(センチメートル)ばかりの金色に彩色された木仏である。六地蔵尊は33年毎に公開され、その他には一切公開しないようである。 なお、境内角に新しい一石六地蔵があるがこれは以前からあった像が朽ちたため建てられたものらしい。六地蔵尊とのかかわりは不明。
▲鏡池堂
▲六地蔵尊の由来
この六地蔵尊の由来を概略して記すれば、昔の人の言い伝えと郷土の史跡から六地蔵は近在 の名所として亦々東海道筋の由緒ある歴史の地として広く知られている所である。六地蔵尊 は神龍棲みし鏡ケ池から出現したるにより、鏡池堂六地蔵尊と称し、駿河国24番札所第9 番の霊地に指定せられ、東海道を旅する著名な人々がここに立ち寄って祈願をされたという 記録、また、正徳3年には、大草太郎左衛門当地支配の節、御嗣子なき為、六地蔵尊に祈願 せし所感銘あって、お子様が授けられしにより御手代向坂に左衛門を普請役として派遣され、 この堂宇を寄付されたという。また、六地蔵の本像は知証大師の自作とされ、長さ30糎ば かりの金色に彩色した木仏である。さらに鏡池堂の額は儒学の人、渡辺草山の揮亳であると 伝えられている。六地蔵尊の霊験は著しくあらたかにして、願いごとが叶えられ災難消除、 延命長寿、家内安全、交通安全等祈願すれば必ず感応する子と疑いなし。依而近郷庶民の帰 依頓みに厚く遠近よりの参詣者絶えず。この堂宇は昭和33年に昔の形を残して改築したも のである。六地蔵尊の縁日は毎年8月23、4、5日に行い24日の晩は付近に夜店が並び 余興もあって、近郷界隈より参詣する善男若女で賑やかで夏の夜の盛り場として有名である。 六地蔵尊の開扉供養(お開帳)は33年目毎に、その時は、本像を開けて信者に拝観せしむ る。その外は一切開扉しない。当六地蔵尊の周辺は時代の変遷により変化しておるが、堂宇 の位置は変わっていない。六地蔵尊霊験あらたかなる事は以上の通りであり、この由緒ある 状況を今の人たちに広く知って頂くと共に永くこれを保存顕彰して次の時代に伝え遺したい 所存であります。(昭和58年8月)瀬戸新屋町内会
▲新しい一石六地蔵
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2011年6月5日 7回目
田中藩領傍示石蹟
瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す榜示石を立てた。この榜示石は一丈余(約3M)の石柱で、「従是東田中領」と書かれていた。これと対になるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。膀示石は、田中城主本多正意が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。上青島にも榜示石があった。 平成十年五月 青島史跡保存会
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2011年6月5日 7回目
志太一里塚跡
静岡県藤枝市志太四丁目
奈良時代、官道の四里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。 志太一里塚は江戸から約二〇〇kmで五○里目に当り、瀬戸川堤から西へ約五〇M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。 平成十年五月 青島史蹟保存会
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2011年6月5日 7回目
藤枝宿標柱
藤枝宿(ふじえだしゅく、ふじえだじゅく)とは、東海道五十三次の22番目の宿場である。
現在の静岡県藤枝市の山沿い、本町および大手にかけての一帯。歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城の城下町として、また塩の産地であった相良に至る田沼街道への分岐点として、最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えた。明治に入り東海道本線が建設される際、当初は宇津ノ谷峠 - 藤枝宿 - 島田宿というルートとなる予定であったが、地形が険しい上に遠回りになることから大崩海岸 - 藤枝宿 - 島田宿へと変更され、最終的には大崩 - 焼津 - 島田宿がルートとして選ばれることになった。このため、1889年に開業した藤枝駅は宿場町から3キロほど離れた位置に設けられた。なお、これに関して蒸気機関車の煙や火の粉を心配した住民が線路の建設を拒んだ(鉄道忌避伝説)という俗説があるが、当時の新聞記事や県知事への上申書には藤枝宿で積極的な誘致運動があったということしか記録されておらず、反対運動があったという証拠はまったく発見されていない。駅が設置されなかったことで宿場町や商業地として停滞を余儀なくされたため、1913年、藤相鉄道が旧宿場町に通じ、藤枝本町駅、大手駅等が設けられたが1964年に廃止された。このように、軌道交通には恵まれなかったものの、モータリゼーションにより藤枝バイパス等が整備され、静岡市のベッドタウンとなっている。Wikipediaより
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2011年6月5日 7回目
藤枝の町並み 本町一丁目
▲道に迷ったがい奇跡的にたどり着いた。
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2011年6月5日 7回目
日本橋から197km
▲靜岡県藤枝市八幡
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
岡部宿石碑(西)
▲この石碑で岡部宿終わり
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