2011年6月5日 静岡県
金谷駅
静岡県島田市金谷新町
▲JR金谷駅 島田駅← →菊川駅
▲大井川鐵道→新金谷駅
しずおかコーラ
▲お土産は「お茶羊羹」
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2011年6月5日 静岡県
金谷駅
静岡県島田市金谷新町
▲JR金谷駅 島田駅← →菊川駅
▲大井川鐵道→新金谷駅
しずおかコーラ
▲お土産は「お茶羊羹」
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
金谷駅
静岡県島田市金谷新町
▲JR金谷駅 島田駅← →菊川駅
▲大井川鐵道→新金谷駅
しずおかコーラ
▲お土産は「お茶羊羹」
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
金谷一里塚跡
静岡県島田市金谷
「一里塚跡 金谷町新町
延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、「金谷一里塚榎木」とある
里程 江戸へ五十三里 島田へ一里 日坂へ一里廿四町 金谷宿
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
定飛脚問屋(三度屋)跡
田町の南側に「朝倉屋何右衛門」、北側に「黒田屋重兵衛(治助)」という定飛脚の問屋がありました。定飛脚とは「三都定飛脚」ともいい、江戸と京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月三度(二日・一二日・二二日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも言いました。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と呼びました。並便は昼間のみの往来でしたが阿、昼夜兼行の早便(特別急行便)は、江戸・大坂間の到着期限を6日としたことから「定六」とも呼ばれました。明治4(1871)年、郵便の制度が施行されるまで、書類や信書、金銀の輸送もこの定飛脚で取り扱われました。 島田宿 金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
山田屋本陣(三番本陣)跡 (金谷宿)
本陣とは、江戸時代に各地の宿場に大名・公家・高僧などの宿泊や休憩場所として設けられた施設です。元禄~正徳(1688~1715)頃には、本陣は柏屋本陣(一番本陣)・佐塚本陣(二番本陣)の二軒で、山田屋は脇本陣でした。
徳川家の本陣は、はじめ柏屋でしたが、貞亨元年(1684年)大納言参向のとき、大井川満水を、浜松まで飛脚を遣わして注意すべきところを怠ったため、宿泊所は山田屋(三右衛門)に変更されました。おそらくそれ以降、山田屋が三番本陣として格上げになったものと思われます。
寛政3年(1791年)西は一里塚から東は下十五軒まで焼失した大火事で本陣・脇本陣・旅籠屋52軒すべてが焼失しました。その10年後の記録では三番本陣の山田屋と脇本陣はまだ再建されていませんでした。天保14年(1842年)の記録では、山田屋が三番本陣として、建坪97坪、門構え、玄関付、裏間口六間と記されています。嘉永7年(安政元年1854年)の大地震で柏屋本陣は半壊・佐塚本陣と山田屋本陣は全壊し、それ以後、金谷宿では本陣の施設は機能していなかったようです。そして明治3年(1870年)民部省令により、本陣はすべて廃止されました。島田宿 金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会 記載内容
遠州金谷宿本陣跡 柏屋
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
大井川と大井川橋
▲歩道上のモニュメント
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
島田宿道標と朝顔の松
▲朝顔の松
この松には次のような物語が伝わっています。
宮仕え中の京都で『深雪』は『宮城阿曽次郎』と恋仲になります。
しかし、国元に帰った深雪には『駒沢次郎左衛門』という、親に決められた婚約者がいると聞かされます。その人こそ、駒沢家を継いだ阿曽次郎だとは知らず深雪は家出をし、名前を『朝顔』と変え三味線弾きとなり阿曽次郎を訪ね歩くうちに、目が見えなくなってしまいます。縁あって島田の宿で歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。その声の主こそ阿曽次郎だったのですが、彼は急ぎの旅、朝顔は目が見えなかったため名乗りあえず、後にこの事を知った朝顔は、急いで追いかけますが大井川は川止めでした。半狂乱となった朝顔は激流へ飛び込もうとしましたが、宿屋の主人に助けられ献身的な介護により目が見えるようになり、初めて目に映ったのがこの松でした。朝顔の松は昭和10年代に枯れてしまい、今ある松は植え直されたものです。この『朝顔日記』は江戸後期に作られたもので、浄瑠璃として上演され好評を博しました。今でも、この『生写朝顔話』は上演され続けています。ふじのくに文化資源データベースより
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
大井川川越遺跡
静岡県島田市河原
島田市博物館から北へ続くルートは、昭和41(1966)年に国指定の史跡となった「島田宿大井川川越遺跡」。江戸時代、幕府により架橋、通船を禁じられていた東海道最大の難所、大井川では旅人たちは川越人足たちの手を借りなければ渡ることができず、川越遺跡周辺は大変賑わっていました。島田宿の川越しの拠点となったこの地は、現在も当時の町並みが復元・保存されている、江戸時代の情緒を残す空間です。
▲仲間の井戸 ▼
六番宿の横道を入ると井戸があります。いつ頃掘られたか定かではありませんが、明治30(1897)年に改修され、現在の形となりました。このつるべ井戸は水道が敷かれる昭和29(1954)年頃まで実際に使用されており、井桁にはその頃の利用者の名前が刻まれています。
▼川合所
my旅しずおかより
▲川合所(大井川越えの料金所)のお役人(?)
▲白っぽい屋根は川合所
▲こんな駕籠を利用できるのは身分の高い人(?)
▲川札のねだん(水位によって違っている) 庶民は肩車で川越したんだね。
天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(一六〇四~一六〇五年)で決壊し、建設まもない島田宿のすべてが押し流されました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。恐らくこの頃(天保元年・一六四四年)までには完全な大堤が完成していたことと思われます。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えています。大堤の規模は高さ二間(約三.六m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ三一五〇間(五.七三三m)と記録されています。今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。 島田宿史跡保存会
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2011年6月5日 静岡県
大善寺の梵鐘
静岡県島田市向島町
当山の鐘は、天明4年(1784)「時の鐘」として備え付けられました。それ以後、昼夜六時(二時間おき)に、この鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)と、暮れ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図となっていました。しかし、この鐘は昭和19(1944)年、太平洋戦争の際、供出され、現在の鐘は昭和48(1973)年に新しく造られたもので、毎月1日・15日と大晦日に撞かれています。
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
大善寺の梵鐘
静岡県島田市向島町
当山の鐘は、天明4年(1784)「時の鐘」として備え付けられました。それ以後、昼夜六時(二時間おき)に、この鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)と、暮れ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図となっていました。しかし、この鐘は昭和19(1944)年、太平洋戦争の際、供出され、現在の鐘は昭和48(1973)年に新しく造られたもので、毎月1日・15日と大晦日に撞かれています。
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
島田駅
静岡県島田市日之出町
▲東海道本線島田駅 六合駅← →金谷駅
▲商店街で見かけたポップ モチーフは川越の様子
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
問屋場 (島田宿)
島田宿の問屋場は現在本通五丁目の中央(Pファイブ駐車場前)にあった。享和三年(1803)当時の当時の島田宿問屋場の概要については「島田宿書上控」に記載されている。問屋場とは、宿場間公用の旅人、荷物を逓送する事務を司る所である。問屋場は、問屋、年寄、帳付、馬指、歩行割と呼ばれる宿役人によって運営されていた。島田市観光協会ホームページ
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
刀匠顕彰碑
▲島田刀鍛冶の由来
島田の刀鍛冶は、室町時代より400年続くという歴史を持ち、繁栄時には多くの刀鍛冶が島田に軒を連ね、刀鍛冶集団を作っていたとされます。
「助宗」「義助」「広助」を主流として、代々同名を踏襲してきました。島田の刀鍛冶は地方的なものでしたが、戦国大名の今川氏、武田氏、徳川氏より高い評価を受け、大切にされたといわれています。ふじのくに文化資源データベースより 静岡県島田市本通り5丁目
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日
島田宿一里塚跡
▲この碑は車道からしか見えない・・
一里塚跡 島田市本通七丁目 江戸から数えて五十番目の一里塚が島田宿七丁目にありました。元禄三年(1690)に描かれた「東海道分間之図」によれば、宿の東から二丁程入った七丁目通りの両側(北と南)にその位置が示されている。しかし、百年後の寛政年間に作られた「東海道分間延絵図」に一ヶ所のみが記され、榎が植えられていた。現在その場所に石柱(碑)が建てられている。島田市観光協会ホームページより
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街道ウォーク<旧東海道<府中宿(静岡駅)~金谷宿(金谷駅)
2011年6月5日 7回目
島田宿道標
▲江戸時代の島田宿
島田宿 (しまだしゅく、しまだじゅく、旧名「嶋田宿」)は、東海道五十三次の23番目の宿場である。現在の静岡県島田市。大井川の左岸(江戸側)にあるため、増水で大井川の川越が禁止されると、お伊勢詣りなどの江戸から京都方面へ上る旅客が足止めされ、さながら江戸のような賑わいをみせた。長雨により、滞在費と遊興費に所持金を使い果たすことも珍しくなかった。そのため、所持金が無くなったり宿が満員になった際に家を借りた名残で、島田の旧・東海道沿いには御仮屋という地名がある。Wikipediaより
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