コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

西餅屋茶屋跡~旧中山道を歩く(8回目)

2012-06-21 16:59:56 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>長久保宿(宿泊) ~下諏訪宿(駅)
2012年6月1日 8回目 

西餅屋茶屋跡

諏訪郡下諏訪町西餅屋

和田宿と下諏訪宿の間に設けられた立場茶屋4軒の跡。随時口留番所となった。元治元年和田嶺合戦で焼き払われた。財団法人八十二文化財団より

西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)」(直角な曲り)と茶屋跡が残っている。昭和四十五年九月一六日 指定 下諏訪町教育委員会

本文  cosmophantom


古峠(和田峠)~旧中山道を歩く(8回目)

2012-06-21 16:58:51 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>長久保宿(宿泊) ~下諏訪宿(駅)
2012年6月1日 8回目 

古峠(和田峠)

 

 

中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や、一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の行き来などで賑わいを見せた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。明治九年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり、古峠の名を残すのみとなった。文化庁 長野県 和田村 

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東餅屋~旧中山道を歩く(8回目)

2012-06-21 16:58:00 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>長久保宿(宿泊) ~下諏訪宿(駅)
2012年6月1日 8回目 

東餅屋

  

標高1531mの和田峠は急坂が多く降雪の際はもとより、雨や霧の日も旅人は難渋した。この峠の唐沢、東・西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり人馬の休息所となっていた。この東餅屋では、五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間(1624~1643)より、一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣もおかれ土屋氏が勤めていた。鉄道が開通するとともに往来も途絶え、五軒の茶屋も店をたたみ、今は(ドライブイン以外家はなく)石垣を残すのみである。

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広原一里塚(52里)(長野県小県郡長和町和田)~旧中山道を歩く(8回目)

2012-06-21 16:57:45 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>長久保宿(宿泊) ~下諏訪宿(駅)
2012年6月1日 8回目 

広原一里塚(52里) 

長野県小県郡長和町和田

 

 

このあたりを広原といった、その名のとおり昔は笹と葦の生い茂る原であった。冬の降雪期には山頂より吹き下ろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれるとき、五間(九メートル)四方のこの塚は旅人の道しるべとなったであろう。この塚は江戸より五二番目の一里塚に当たる。 文化庁 長野県 和田村

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接待茶屋跡(和田峠)~旧中山道を歩く(8回目)

2012-06-21 16:57:27 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>長久保宿(宿泊) ~下諏訪宿(駅)
2012年6月1日 8回目 

接待茶屋跡(和田峠) 

 

江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道のたびの難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に五十両づつ下付し、文政十一年(1828)に設置された施行所の一つである。 十一月から三月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。 その後、山抜けにより流失したが嘉永五年(1852)現在地に再建され明治三年までつづけられた。文化庁 長野県 和田村

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唐沢一里塚(51里)(長野県小県郡長和町和田唐沢)~旧中山道を歩く(8回目)

2012-06-21 13:05:07 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>長久保宿(宿泊) ~下諏訪宿(駅)
2012年6月1日 8回目 

 唐沢一里塚(51里)

長野県小県郡長和町和田唐沢

 

 この塚は、江戸より五一番目の一里塚である。 一里塚は、江戸日本橋を基点として一里(約四キロメートル)ごとに道の両側に五間(約九メートル)四方の塚を築き、多くはその上に榎や松を植えて旅人の目じるしとし、また、憩いの場所ともしたものである。 和田、下諏訪宿間に一里塚は六カ所あったが、これはその一つである。 この塚は、中山道の一部路線変更により山中にとり残されたもので、天保二年(一八三一)の絵図面にはすでに路線からはずれている。 現在樹木は残っていないが、塚は二基ともほぼ原形をとどめている。 文化庁・長野県・和田村

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