また一人彼岸への旅立ちを送りました。
幼い日、夏休みは、決まって母の実家でなん日かを過ごしていました。不安を抱えながら行き先表示を確かめ、電車を乗り継いで半日がかりで辿りつく「田舎」は、街中で暮らす子にとっては不思議の国でした。
そこで待ち構えていて、私たち姉妹の世話をやいてくれたのが一つ年上の従弟でした。小川で魚を追い、お堂や鎮守の森でやぶ蚊に刺されながら蝉取りに夢中になって、日を送ったものでした。こうした遊びの師匠だった従弟が亡くなりました。転移した癌はもはや手の施しようもなく、手術もできないまま退院し、自宅で痛みとの戦いでした。
中学の校長だった息子も同じ病で在職中に先立ち、寂しさも一入だったようです。仲の良かった夫人に我が儘をいいながら、最後を看取ってもらって旅立ったのがせめてもの幸せだったと思います。土筆を摘んだからと届けてくれたり、たまに病院で出会うと晴れやかな笑顔で声をかけてきました。まだ大丈夫と思っていましたが容体が急変したようです。
80を過ぎているのですから誰が先に旅立ってもおかしくはないのですが、みまき会のメンバーも毎年欠けてゆくようになりました。解散したメンバーが顔を合わせるミニいとこ会になり、思い出話が次々でした。合掌。
今が盛りのシュウメイギクです。
最近 自分より若い方もありますね。これだけは 年齢順と言う訳にはいかない。TVで流されるコマーシャルのセリフに
”病気は人を選ばない・・・” がありますが、そうですね。
今夏、久しぶりに思い立って 暑中見舞いの葉書を10枚ほど書いた。しばらくして見知らぬ女性よりのお手紙を受領。
訃報だった。しかも故人の奥様がショックで床にあり、奥様の姉上が代筆されていました。
ゴルフのシングルさんだった、ラウンドレッスンでもお願いしようと思っていたのに、文面の最初に、”彼はこの世では白球を追えなくなりました・・と”
記されていました。
浄土真宗の教えでは”人の死をご縁にして生かされている命の尊さに触れる”だそうですが、マダマダやりたい事が一杯あって悔しかっただろうと本人に代わって恨節に陥る次第。
人生二度なし 巻き戻しも再生も不能と、肝に銘じ毎日を過ごしましょうか。
隣にはご存じ寄りの大阪は羽曳野から駆け付けた人もいて、叔母様の思い出話もできました。
老少不定とはいえ、いつかはこの世に生きるものには必定するる他界の日まで、自分らしく生きていけたらと念願しています。
どうかお体を大事に、またお尋ねください。
外出は今日も喪服や秋日和
喪服の出番が多いこのごろです。