JR東日本パスの旅。長野県の岡谷(おかや)駅で下車した続き。
JR中央本線は諏訪湖の西岸~北岸をほぼ半周する。駅名では東京側から上諏訪~下諏訪~岡谷、自治体では諏訪市~下諏訪町~岡谷市。
2016年に訪問した上諏訪と下諏訪は、諏訪大社があり、温泉地であり、諏訪湖と同じ地名でもあり、認知度は高いと思う。
個人的には、秋田にも諏訪神社があることによる親近感に加え、上諏訪は、かつてNHK教育テレビで放送されていた、小学校3年生社会科の学校放送番組「たんけんぼくのまち」でチョーさんが最初の2年を過ごした町でもあり、リアルタイムで対象学年であった僕は、昔から知っていた。
対して、岡谷の認知度は高くないと思う。人口は諏訪市とほぼ同じで、他の近隣市町と同じく精密機械、さらに製糸や味噌作りも行われているのに。
実はチョーさんは岡谷にも住んでいる。8年間で6か所に暮らしたうち、最後から2番目の1990年度。
僕はその頃は中学生だから、番組はちらりと見る程度だったが、岡谷が舞台の年があったことは覚えていたし、それで初めて岡谷を知った。諏訪編は、DVDや再訪番組が作られ、(自分でもやったけど)現地を訪問するファンもいるのに対し、岡谷編はそれらもない。
だから、たんけんぼくのまちとは関係なく、ネットで見付けたおもしろそうな場所を“たんけん”する。
ところで、子どもの頃、川の源流=「川の始まり」を見ることにあこがれた。
身近な旭川(雄物川水系)をさかのぼって、最初の1滴がしたたり落ちる場所を見てみたいと。
それに、ちょうど30年前、高校生の時、秋田朝日放送が開局した当初、CMの穴埋めの自社宣伝スポットの1つとして、「ニュースステーション」の中で時折放送されていた、「立松和平 心の水紀行(※)」から抜粋した映像が流れていたのも印象深い。その1シーンに、川の最初の1滴の映像があり(撮影地は不明)、立松氏の「この川はひとつの生命体だねえ。水は(川は?)生きている」という声が流れていた。【2023年3月15日補足・話がそれるが、おそらく水紀行シリーズで「知床の海で天使に出会った」としてクリオネを見せるスポットもあった。それで初めてクリオネの存在を知った。】
※Wikipediaでは「心と感動の旅」とあるが、少なくともAAB開局時点では「~水紀行」であったと記憶する。立松氏は1993年に盗作が発覚し、テレビ出演はほぼなくなっていく。
大人になっても、最初の1滴を見に行くような実行力はないのだけど。
今回の旅行の計画時、岡谷にあずさが停車することを知り、何か見どころがないかと、観光サイトや地図を眺めた。
すると、岡谷駅のすぐそばに、「川の始まり」があることを知った!
それも、日本9位・長さ213キロの一級河川・天竜川の。
期待させては申し訳ないので、ここで断っておきます。天竜川の始まりは「最初の1滴」ではないスタイルなのです。国が「ここから天竜川」と決めてしまえば、そこが始まりなわけで…(「最初の1滴」としては、八ヶ岳に行き着くらしい。)
岡谷駅は、昔ながらの地上駅。線路の北側に駅舎があり、そちらが市街地。山が迫った地形的な制約か、駅前広場も駅前の街もこぢんまり。
上の写真左・タワー状のオブジェには、地元企業・セイコーの時計があったらしいが、「故障中」で針が取られていた。
駅前広場の右側に、いかにも「昭和の総合スーパーが撤退した」っぽいビルがあった。
「lala OKAYA」
1984年に地元の松本電鉄(現・アルピコ交通)などが建て、イトーヨーカドー岡谷店などが入居。施設名は当初から「ララオカヤ」だった。2000年代初めにイトーヨーカドーや食品スーパーが撤退し、以降は上のフロアは閉めて、公共施設やイベント会場として使われてきた。
2021年には、岡谷市がララオカヤ全体の所有権を取得し、解体する方針を決めたが、具体的な動きはなさそう。訪問時点では、1階部分(ほとんど通路?)に入ることはできたようだ。
天竜川のある駅南側へ行きたい。ララオカヤ側に自由通路があったので渡る。
広くて明るい
西側を眺める。前回最後の写真もここから撮影
駅の西側に高く架かるのは、長野自動車道。このすぐ南(左)に、中央道との岡谷ジャンクションがある。
南側は、地方都市によくある「駅裏」の風情。新しそうな西友がある。
駅から200メートルも歩くと、川に突き当たる。これが天竜川。
対岸までの距離は50メートルちょっとで、予備知識がないとこれが大河・天竜川とは分からない。そういえば、「天竜川」の河川名看板は見当たらなかった。
※以下、橋の情報は、「信濃路の風・信濃路の橋(https://hiro66.sky-zet.com/index.html)」サイトを参考にさせてもらいました。
そこ架かる駅南天竜橋(一部地図サイトでは駅前天竜橋)を渡っても良さそうだったが、渡らずに、右岸の川沿いの道を、流れをさかのぼる東方向へ。車は多く通り、途中から歩道がなくなり、古くからの家が建てこんでくる。
「天竜町二丁目」
地名の天竜といえば、浜松市天竜区が有名だが、ここにもあった。川の始まりだから、おかしくはない。
150メートル強の間隔で、橋が2本架かっている。どちらも長野県道16号所属のようだ。下流側が「天竜橋」、上流側が「釜口橋」。
天竜橋は、赤いトラス橋? アーチ橋?、っぽいけれど桁橋。トラスっぽく見える鋼鉄の赤い構造物は、高欄をデザイン化した「飾り」のようだ。
中央にはステンドグラスまで埋めこまれる。1988年竣工だから、バブルの産物か。
釜口橋は桁橋ではない。上辺が弧を描いているからアーチ橋かと思いきや、これもトラス橋の一種で、ボーストリングトラス(ボウストリングトラス)というタイプ。
この長さ(81.9メートル)なら、桁橋で充分のはずだけど、1932(昭和7)年に架けられたとのことで、当時の技術的制約だったのだろう。
トラスは鮮やかな赤。Googleストリートビューでは2012年~2015年の間に塗り替えられている。
【13日補足・釜口橋がこの付近ではいちばん歴史がある橋のようで、明治43年の地形図でも(先代の)釜口橋が存在する。】
そして、釜口橋の170メートルほど上流が、目的地。
釜口橋トラスのすき間から
「釜口水門」である。水門というか「堰」なのか。その水門の向こうは諏訪湖。
天竜川は諏訪湖から流れ出る唯一の河川であり、釜口水門がその始点とされているので、ここが天竜川の始まりとなる。
一方、諏訪湖への流入河川は31もあるため、かつての諏訪湖は氾濫を繰り返しており、江戸時代から治水が行われていた。1936年に、諏訪湖の水量を調節する釜口水門が造られ、現在は1988年にできた2代目水門。
右岸から行くと、立入禁止看板の横から唐突に公園が始まり、湖岸と水門につながる。
岡谷駅と反対・左岸には、長野県諏訪建設事務所の出先機関・釜⼝⽔⾨管理事務所がある。
一級河川の本流は国土交通省直轄なので、各支流~諏訪湖~水門までが長野県管轄という区分なのだろう。
対岸が管理事務所
↑管理事務所手前(右)にゲート状の構造物がある。現地で気付かないでしまったが、これが初代水門「舟通し(後述)」の遺構だそうで、どうも展望台のように上れる感じ。ただし、ストリートビューでは2022年4月までは開放されているが、最新の2022年9月では、封鎖されている。
釜口水門
この時は、6つあるゲートのうち、中央の1つだけが開いていた。これが平常時のようだが、それだけでもけっこうな水量で、見ていて怖い。左端は魚道。
「危い!!」「すいもんでみずをながしかわのみずがふえることがあるからきをつけよ」
各地にある、ダム放流時の警告看板。
以前見た、盛岡市の北上川水系中津川の看板と言い回しは酷似しているが、微妙に異なる。
「ダム」を「水門」と言い換え、「放流予告サイレン」もある。中津川では「50秒」鳴って「休止10秒」なのに対し、こちらは「約1分」と時間を示さない休止。
「この川の上流0キロメートルのところに釜口水門があり」というのは、杓子定規。
それと「上流」に「かみのほう」とふりがなを当ててある。ほかにも「左記(のとおり)」に「つぎ」、「危険」に「あぶない」。中津川では「じょうりゅう」「きけん」。
看板の脚に「元年10月長野県」のシールがあるので、1989年設置と思われる。
今、災害時の外国人向けでもてはやされる「やさしい日本語」の概念があるけれど、それに通じるものがある。ただ、「かみのほう」で分かってもらえるか、また「放流直前」などにはふりがながなく、不完全。
というか、平常時でも、ここで「河原に降り」ようとする者はいないでしょうし、放流時にはものすごい轟音と水しぶきのはずで、近づけないでしょう。
あと、1ゲート開いた状態でも「放流」には違いないと思うのだが、看板が言っているのは全開にする時ってことなのだろうか。
ここから天竜川が始まる
右岸左岸どちら側も、諏訪湖沿いが公園として整備され、遊歩道がある。水門の湖側は橋(橋名板は「釜口水門」)になっていて、遊歩道で通り抜けられ、散歩の人や学校帰りの自転車が、水門の上を通っていた。
左が諏訪湖・右が天竜川
水門の上から、雨に煙る諏訪湖
向こう岸は上諏訪の街。岡谷からは諏訪湖越しに富士山が見える(距離は100キロほど)そうで、釜口水門から見えるとすれば、位置的には上の写真右側のはず。
激しく水が動く水門と打って変わって、諏訪湖は穏やかな水。その一部が水門を通って、天竜川の水となって、太平洋へ向かっている。
おそるおそる水門の上から天竜川
水門の諏訪湖側。水が天竜川に入っていく様子はよく見えない
上記の通り、水門の右岸側の端は魚道。左岸側は「舟通し水門」、すなわち先代の遺構の現役版。
水門の上から。手前の枠のほうが川より水位が高いかな?
諏訪湖と天竜川には3.5メートルの水位差がある(諏訪湖が高い)ため、水門を行き来する「漁舟(と看板に表記)」を通す施設。ゲートで仕切って水位を調整するパナマ運河方式。
【13日追記】「信州・市民新聞グループ」2018年10月27日「釜口水門「舟通し」を探検 「あってもいいな夢工場」体験乗船」によれば、舟通しは「幅4メートル、長さ17・5メートルの水路」。「昔は多くの漁業利用があったが最近は年1、2回ほどという。」。
霧雨が強くなって、小雨になった。
管理棟併設の「水の資料室」で雨宿り。あまり新しい資料はないが、模型や建設時の写真の展示、ダムカード配布がされていた。
うまい具合に雨が収まり、列車の時間もちょうど良さそうなので、岡谷駅へ戻る。
今にして思えば、旧舟通し水門や、少し離れた場所から湖越しに水門を見たかった気もするが、いいものを見られた。
昔、長良川河口堰を見に行った。長良川のほうが新しく大きいけれど、あちらは川の終わり。こちらは歴史があって、川の始まりということで、感慨深かった。人が暮らす以上、川に手を加えることは避けられないのだとも思った。
新宿で引き出し損なった千円札を入手しようと、コンビニかATMを探す。釜口橋の通りの街の中に、岡谷天竜町郵便局があり、遠回りもせずに駅正面へ出られそう。
駅から水門までの行程も、少し前なら、パソコンで印刷して持ってきたものだが、今やスマホを持っていれば済む(パソコンで予習はします)。そのほか必要な時に必要な情報をその場で探せるようになったし、コンビニATMで現金が引き出せるし、便利になったものだ。そして、いつの時代も、旅先でゆうちょATMは心強い。
ところで、釜口水門の「釜口」って何だろう?
水門と橋の名前だけで、少なくとも現在は地名にはなっていない。それ以外では、郵便局の通りに「釜口医院」というクリニックがあった程度。
諏訪湖を釜に見立て、その出口ということなのだろうか。
風が強くなってきた
釜口橋~郵便局の通りには、家々の軒先などに紐を渡して、複数色の荷造り用ビニール紐(いわゆるすずらんテープ)をまとめた、吹き流し状のものがたくさんぶら下がっていた。
ところどころに「御柱祭」「おんばしら」の短冊も下がっていたので、諏訪大社の祭事にちなむものだろう。諏訪の隣の岡谷も、諏訪大社の“エリア”内。2022年は御柱祭の年で、新型コロナ対応で縮小開催。6月ですべての行事が終わっているようだけど。
秋田などでは、神社の祭礼の際、周辺の町内会ごとに、同じような形で紙の御幣を下げているのは見かける。御幣代用のビニール紐ってことだろうか。上諏訪では、また別の形のものを見かけたので、後日。
郵便局を出て、帰宅する高校生の流れにまぎれて歩くと、「丸山橋」というオーバーパスで線路を越えて、ララオカヤの横へ出られ、階段を使わずに済んだ。※道路配置が少々複雑なので注意。
距離的には、駅裏から川沿いをたどったほうが少し近いと思うが、どちらも1キロ程度。
薄暗くなってきたけれど、上諏訪の宿に入ってしまうのはもったいない気もする。1駅乗って、下諏訪で降りることにした。続く。
JR中央本線は諏訪湖の西岸~北岸をほぼ半周する。駅名では東京側から上諏訪~下諏訪~岡谷、自治体では諏訪市~下諏訪町~岡谷市。
2016年に訪問した上諏訪と下諏訪は、諏訪大社があり、温泉地であり、諏訪湖と同じ地名でもあり、認知度は高いと思う。
個人的には、秋田にも諏訪神社があることによる親近感に加え、上諏訪は、かつてNHK教育テレビで放送されていた、小学校3年生社会科の学校放送番組「たんけんぼくのまち」でチョーさんが最初の2年を過ごした町でもあり、リアルタイムで対象学年であった僕は、昔から知っていた。
対して、岡谷の認知度は高くないと思う。人口は諏訪市とほぼ同じで、他の近隣市町と同じく精密機械、さらに製糸や味噌作りも行われているのに。
実はチョーさんは岡谷にも住んでいる。8年間で6か所に暮らしたうち、最後から2番目の1990年度。
僕はその頃は中学生だから、番組はちらりと見る程度だったが、岡谷が舞台の年があったことは覚えていたし、それで初めて岡谷を知った。諏訪編は、DVDや再訪番組が作られ、(自分でもやったけど)現地を訪問するファンもいるのに対し、岡谷編はそれらもない。
だから、たんけんぼくのまちとは関係なく、ネットで見付けたおもしろそうな場所を“たんけん”する。
ところで、子どもの頃、川の源流=「川の始まり」を見ることにあこがれた。
身近な旭川(雄物川水系)をさかのぼって、最初の1滴がしたたり落ちる場所を見てみたいと。
それに、ちょうど30年前、高校生の時、秋田朝日放送が開局した当初、CMの穴埋めの自社宣伝スポットの1つとして、「ニュースステーション」の中で時折放送されていた、「立松和平 心の水紀行(※)」から抜粋した映像が流れていたのも印象深い。その1シーンに、川の最初の1滴の映像があり(撮影地は不明)、立松氏の「この川はひとつの生命体だねえ。水は(川は?)生きている」という声が流れていた。【2023年3月15日補足・話がそれるが、おそらく水紀行シリーズで「知床の海で天使に出会った」としてクリオネを見せるスポットもあった。それで初めてクリオネの存在を知った。】
※Wikipediaでは「心と感動の旅」とあるが、少なくともAAB開局時点では「~水紀行」であったと記憶する。立松氏は1993年に盗作が発覚し、テレビ出演はほぼなくなっていく。
大人になっても、最初の1滴を見に行くような実行力はないのだけど。
今回の旅行の計画時、岡谷にあずさが停車することを知り、何か見どころがないかと、観光サイトや地図を眺めた。
すると、岡谷駅のすぐそばに、「川の始まり」があることを知った!
それも、日本9位・長さ213キロの一級河川・天竜川の。
期待させては申し訳ないので、ここで断っておきます。天竜川の始まりは「最初の1滴」ではないスタイルなのです。国が「ここから天竜川」と決めてしまえば、そこが始まりなわけで…(「最初の1滴」としては、八ヶ岳に行き着くらしい。)
岡谷駅は、昔ながらの地上駅。線路の北側に駅舎があり、そちらが市街地。山が迫った地形的な制約か、駅前広場も駅前の街もこぢんまり。
上の写真左・タワー状のオブジェには、地元企業・セイコーの時計があったらしいが、「故障中」で針が取られていた。
駅前広場の右側に、いかにも「昭和の総合スーパーが撤退した」っぽいビルがあった。
「lala OKAYA」
1984年に地元の松本電鉄(現・アルピコ交通)などが建て、イトーヨーカドー岡谷店などが入居。施設名は当初から「ララオカヤ」だった。2000年代初めにイトーヨーカドーや食品スーパーが撤退し、以降は上のフロアは閉めて、公共施設やイベント会場として使われてきた。
2021年には、岡谷市がララオカヤ全体の所有権を取得し、解体する方針を決めたが、具体的な動きはなさそう。訪問時点では、1階部分(ほとんど通路?)に入ることはできたようだ。
天竜川のある駅南側へ行きたい。ララオカヤ側に自由通路があったので渡る。
広くて明るい
西側を眺める。前回最後の写真もここから撮影
駅の西側に高く架かるのは、長野自動車道。このすぐ南(左)に、中央道との岡谷ジャンクションがある。
南側は、地方都市によくある「駅裏」の風情。新しそうな西友がある。
駅から200メートルも歩くと、川に突き当たる。これが天竜川。
対岸までの距離は50メートルちょっとで、予備知識がないとこれが大河・天竜川とは分からない。そういえば、「天竜川」の河川名看板は見当たらなかった。
※以下、橋の情報は、「信濃路の風・信濃路の橋(https://hiro66.sky-zet.com/index.html)」サイトを参考にさせてもらいました。
そこ架かる駅南天竜橋(一部地図サイトでは駅前天竜橋)を渡っても良さそうだったが、渡らずに、右岸の川沿いの道を、流れをさかのぼる東方向へ。車は多く通り、途中から歩道がなくなり、古くからの家が建てこんでくる。
「天竜町二丁目」
地名の天竜といえば、浜松市天竜区が有名だが、ここにもあった。川の始まりだから、おかしくはない。
150メートル強の間隔で、橋が2本架かっている。どちらも長野県道16号所属のようだ。下流側が「天竜橋」、上流側が「釜口橋」。
天竜橋は、赤いトラス橋? アーチ橋?、っぽいけれど桁橋。トラスっぽく見える鋼鉄の赤い構造物は、高欄をデザイン化した「飾り」のようだ。
中央にはステンドグラスまで埋めこまれる。1988年竣工だから、バブルの産物か。
釜口橋は桁橋ではない。上辺が弧を描いているからアーチ橋かと思いきや、これもトラス橋の一種で、ボーストリングトラス(ボウストリングトラス)というタイプ。
この長さ(81.9メートル)なら、桁橋で充分のはずだけど、1932(昭和7)年に架けられたとのことで、当時の技術的制約だったのだろう。
トラスは鮮やかな赤。Googleストリートビューでは2012年~2015年の間に塗り替えられている。
【13日補足・釜口橋がこの付近ではいちばん歴史がある橋のようで、明治43年の地形図でも(先代の)釜口橋が存在する。】
そして、釜口橋の170メートルほど上流が、目的地。
釜口橋トラスのすき間から
「釜口水門」である。水門というか「堰」なのか。その水門の向こうは諏訪湖。
天竜川は諏訪湖から流れ出る唯一の河川であり、釜口水門がその始点とされているので、ここが天竜川の始まりとなる。
一方、諏訪湖への流入河川は31もあるため、かつての諏訪湖は氾濫を繰り返しており、江戸時代から治水が行われていた。1936年に、諏訪湖の水量を調節する釜口水門が造られ、現在は1988年にできた2代目水門。
右岸から行くと、立入禁止看板の横から唐突に公園が始まり、湖岸と水門につながる。
岡谷駅と反対・左岸には、長野県諏訪建設事務所の出先機関・釜⼝⽔⾨管理事務所がある。
一級河川の本流は国土交通省直轄なので、各支流~諏訪湖~水門までが長野県管轄という区分なのだろう。
対岸が管理事務所
↑管理事務所手前(右)にゲート状の構造物がある。現地で気付かないでしまったが、これが初代水門「舟通し(後述)」の遺構だそうで、どうも展望台のように上れる感じ。ただし、ストリートビューでは2022年4月までは開放されているが、最新の2022年9月では、封鎖されている。
釜口水門
この時は、6つあるゲートのうち、中央の1つだけが開いていた。これが平常時のようだが、それだけでもけっこうな水量で、見ていて怖い。左端は魚道。
「危い!!」「すいもんでみずをながしかわのみずがふえることがあるからきをつけよ」
各地にある、ダム放流時の警告看板。
以前見た、盛岡市の北上川水系中津川の看板と言い回しは酷似しているが、微妙に異なる。
「ダム」を「水門」と言い換え、「放流予告サイレン」もある。中津川では「50秒」鳴って「休止10秒」なのに対し、こちらは「約1分」と時間を示さない休止。
「この川の上流0キロメートルのところに釜口水門があり」というのは、杓子定規。
それと「上流」に「かみのほう」とふりがなを当ててある。ほかにも「左記(のとおり)」に「つぎ」、「危険」に「あぶない」。中津川では「じょうりゅう」「きけん」。
看板の脚に「元年10月長野県」のシールがあるので、1989年設置と思われる。
今、災害時の外国人向けでもてはやされる「やさしい日本語」の概念があるけれど、それに通じるものがある。ただ、「かみのほう」で分かってもらえるか、また「放流直前」などにはふりがながなく、不完全。
というか、平常時でも、ここで「河原に降り」ようとする者はいないでしょうし、放流時にはものすごい轟音と水しぶきのはずで、近づけないでしょう。
あと、1ゲート開いた状態でも「放流」には違いないと思うのだが、看板が言っているのは全開にする時ってことなのだろうか。
ここから天竜川が始まる
右岸左岸どちら側も、諏訪湖沿いが公園として整備され、遊歩道がある。水門の湖側は橋(橋名板は「釜口水門」)になっていて、遊歩道で通り抜けられ、散歩の人や学校帰りの自転車が、水門の上を通っていた。
左が諏訪湖・右が天竜川
水門の上から、雨に煙る諏訪湖
向こう岸は上諏訪の街。岡谷からは諏訪湖越しに富士山が見える(距離は100キロほど)そうで、釜口水門から見えるとすれば、位置的には上の写真右側のはず。
激しく水が動く水門と打って変わって、諏訪湖は穏やかな水。その一部が水門を通って、天竜川の水となって、太平洋へ向かっている。
おそるおそる水門の上から天竜川
水門の諏訪湖側。水が天竜川に入っていく様子はよく見えない
上記の通り、水門の右岸側の端は魚道。左岸側は「舟通し水門」、すなわち先代の遺構の現役版。
水門の上から。手前の枠のほうが川より水位が高いかな?
諏訪湖と天竜川には3.5メートルの水位差がある(諏訪湖が高い)ため、水門を行き来する「漁舟(と看板に表記)」を通す施設。ゲートで仕切って水位を調整するパナマ運河方式。
【13日追記】「信州・市民新聞グループ」2018年10月27日「釜口水門「舟通し」を探検 「あってもいいな夢工場」体験乗船」によれば、舟通しは「幅4メートル、長さ17・5メートルの水路」。「昔は多くの漁業利用があったが最近は年1、2回ほどという。」。
霧雨が強くなって、小雨になった。
管理棟併設の「水の資料室」で雨宿り。あまり新しい資料はないが、模型や建設時の写真の展示、ダムカード配布がされていた。
うまい具合に雨が収まり、列車の時間もちょうど良さそうなので、岡谷駅へ戻る。
今にして思えば、旧舟通し水門や、少し離れた場所から湖越しに水門を見たかった気もするが、いいものを見られた。
昔、長良川河口堰を見に行った。長良川のほうが新しく大きいけれど、あちらは川の終わり。こちらは歴史があって、川の始まりということで、感慨深かった。人が暮らす以上、川に手を加えることは避けられないのだとも思った。
新宿で引き出し損なった千円札を入手しようと、コンビニかATMを探す。釜口橋の通りの街の中に、岡谷天竜町郵便局があり、遠回りもせずに駅正面へ出られそう。
駅から水門までの行程も、少し前なら、パソコンで印刷して持ってきたものだが、今やスマホを持っていれば済む(パソコンで予習はします)。そのほか必要な時に必要な情報をその場で探せるようになったし、コンビニATMで現金が引き出せるし、便利になったものだ。そして、いつの時代も、旅先でゆうちょATMは心強い。
ところで、釜口水門の「釜口」って何だろう?
水門と橋の名前だけで、少なくとも現在は地名にはなっていない。それ以外では、郵便局の通りに「釜口医院」というクリニックがあった程度。
諏訪湖を釜に見立て、その出口ということなのだろうか。
風が強くなってきた
釜口橋~郵便局の通りには、家々の軒先などに紐を渡して、複数色の荷造り用ビニール紐(いわゆるすずらんテープ)をまとめた、吹き流し状のものがたくさんぶら下がっていた。
ところどころに「御柱祭」「おんばしら」の短冊も下がっていたので、諏訪大社の祭事にちなむものだろう。諏訪の隣の岡谷も、諏訪大社の“エリア”内。2022年は御柱祭の年で、新型コロナ対応で縮小開催。6月ですべての行事が終わっているようだけど。
秋田などでは、神社の祭礼の際、周辺の町内会ごとに、同じような形で紙の御幣を下げているのは見かける。御幣代用のビニール紐ってことだろうか。上諏訪では、また別の形のものを見かけたので、後日。
郵便局を出て、帰宅する高校生の流れにまぎれて歩くと、「丸山橋」というオーバーパスで線路を越えて、ララオカヤの横へ出られ、階段を使わずに済んだ。※道路配置が少々複雑なので注意。
距離的には、駅裏から川沿いをたどったほうが少し近いと思うが、どちらも1キロ程度。
薄暗くなってきたけれど、上諏訪の宿に入ってしまうのはもったいない気もする。1駅乗って、下諏訪で降りることにした。続く。
春休みの午後時代の春高バレーの中継思い出します。
秋田の雄物川が負けると東京からに切り替わりましたが、名門リストによく岡谷工の名前が。
たしか自分たちの年には優勝もしてます。
ちなみに女子は成徳と三田尻、ひとつ上のメグカナでした。
岡谷の街になぜか秋田っぽさを感じた気も。
自由通路や旧ヨーカドーは秋田駅に似てますし、水門も四ツ小屋の岩見川に似てます。
危ないも旭川にありました。
最後の写真も秋田市内に似たような場所がありました。
学校の歴史としては、岡谷らしく農蚕学校が起源で、明治までさかのぼるそうです。
人口4万6千ほど、同規模の諏訪市も近いということもあるためか、駅や市街地はコンパクトな印象を受けました。製糸で栄えた街だけに、昭和の昔はもっとにぎやかだったかもしれません。たんけんぼくのまち岡谷編も見てみたいものです。
駅や市街地、住宅街のすぐそばが湖&大河の起点という土地は、日本ではそうそうないでしょう。