慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「面長の顔」「幅の広い顔」「見た目での判決」

2023年11月09日 | 社会
🌸「見た目」で人生は決まる2

「言ってはいけない」
 ☆「面長の顔」は「幅の広い顔」に殺されている
 ☆裁判官たちは容貌から内面を推察しているかとの錯覚に陥る
 (顔立ちが暴力的だと直感した被告に重い刑を科していた)

「面長の顔」は「幅の広い顔」に殺されている
 ☆直感で、大学教授の有能さを瞬時に見分けられるのなら
 *外見から攻撃性を推測するくらいはかんたんだ
 ☆実際、ふたつの異なる容貌を一瞬見ただけで
 *どちらの人が、攻撃的な性格なのかを判別できる
 ☆判断の基準になるのは、顔の幅と長さの比率
 *面長の顔と幅の広い顔、人は幅の広い顔を攻撃的と判断する
 *研究者は、男性の顔の幅により
 *テストステロンの濃度に関係しているのではと考えている
 *数値が高いほど競争を好み
 *野心的・冒険的で、攻撃的な性格になる(性欲も強く関係している)
 ☆研究者は、面長の男性と幅広の男性のデータを紹介している
 ①賞金を山分けするか、自分が多く取るかを決められる条件では
 *幅の広い顔の男性は、ほっそりした顔の男性に比べて
 *公平に分配することを嫌った
 ➁アメリカで発見された無数の頭蓋骨と200以上
 *殺害されたひとの頭蓋骨を調べ暴力で殺されたケースは
 *ほっそりした顔の男性が圧倒的に多かった
 *ほっそりした顔の男性が幅の広い顔の男性に殺されている
 ③幅の広い顔の男性は、ほっそりとした顔の男性に比べ 
 *ライバルを蹴落とすため3倍嘘をつく


⛳顔立ちによる残酷すぎる損得

 ☆童顔のひとは男でも女でも
 *純真で、素直で、か弱く、温かく、正直な印象を与える
 *童顔だからといつて、生きていくのに有利だとは限らない

 ☆アメリカの銀行が窓口担当者と融資の査定担当者を募集する場合
 *童顔の男性を窓口担当者にすること多い
 *大人びた顔の男性を査定担当者にすることが多い
 *銀行業務では、窓口よりも融資の査定担当のほうが地位も給料も高い
 *童顔の男性は外見だけで「非情さに欠ける」と判断され、割を食う
 ☆童顔で得をすることもある
 *アメリカの裁判の判決と被告の容貌を比較した研究
 ☆童顔の男性にカネを師し取られたと訴えたとしても
 *多くの場合、敗訴することがわかっている

人種と容貌に関するより不穏な研究
 ☆研究者達はフロリダ州の裁判では判決を精査した
 *人種による判決のちがいが見られないことを確認した
 ☆白人も黒人も同等な刑を宣告されている
 *その意味ではリベラルな裁判所といえる
 ☆リベラルな裁判官たちが下した判決、犯罪者の顔写真で比較すると
 *裁判官たちは容貌から内面を推察しているかとの錯覚に陥る
 *顔立ちが暴力的だと直感した被告に重い刑を科していた
 (顔幅の広い被告の罪が重くなる)
 ☆私たちの日常的な判断
 *視覚(見かけ)に大きく依存している
                     (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『言ってはいけない』




「面長の顔」「幅の広い顔」「見た目での判決」
(ネットより画像引用)
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「連合赤軍⇒赤軍派」「アウトサイダーへの憧れ」

2023年11月09日 | 社会
🌸テロリストが「物語化」される理由2

どうして言えるんだい、やつらが凶暴だって
 ☆当時の日本社会、学生運動に対して2分されていた
 *赤軍派のように武装闘争に走るセクトが現れて、反発は強まった
 *しかし、1971年頃は、シンパシーはまだ維持されていた
 ☆シンパシーは、あさま山荘事件の直後に完全に吹き飛ぶ
 *連合赤軍兵士たちが逮捕され、彼らの供述から
 *12人の仲間をリンチで殺害した山岳ベース事件が明らかになった
 ☆山岳ベース事件で
 *学生運動、武装闘争への日本社会のシンパシーは完全に潰えた
 ☆学生運動を擁護したい人たちの最後のようどころが
 *「連合赤軍ではない赤軍派」よど号犯と日本赤軍である
 ☆よど号犯は、北朝鮮に向けて出発した際に声明文を残している
 *われわれは明日、羽田を発たんとしている
 *われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに
 *自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない
 *最後に確認しよう。われわれは明日のジョーであると
 ☆当時人気のあったボクシング漫画『あしたのジョー』に
 *自分たちをなぞらえ、真っ白に燃え尽きるまで闘うとの宣言

海外へ「雄飛」したアウトサイダーたち
 ☆日本赤軍のテロの数々は、国際社会では激しい非難を浴びた
 ☆日本人のあいだでは決して否定的な反応だけでなく
 *「海外に雄飛し、世界を相手に戦っている」印象を持つ人もいた
 *そこには欧米を相手に戦争に完敗した日本人ならではの
 *「やり返してやった」的な心象もあったのかもしれない
 ☆「海外に雄飛していった武闘派の兵士たち」というイメージ
 *アウトサイダーの物語へと重なった
 ☆アウトサイダーとは
 *自分がいま生きているこの抑圧的な日本社会の外側にあって
 *自由に放埒に生きる者たちである
 *当時の日本にはそういう自由な人生に憧れ
 *自分がいまいる息苦しい場所から逃れたいと願った人もいた
 ☆戦争が終わり、戦前の伝統的な社会は崩壊した
 *戦後の混乱期になると、アナーキーな若者たちがたくさん現れる
 *彼らは権威や古い価値観を否定し
 *大人には理解不能な事件を引き起こして話題を奪った
 (東大生がヤミ金融を経営の光クラブ事件等)
 *「エリートの東大生が―」と社会に衝撃を与えた
 ☆彼らは、無軌道で無責任で奔放な犯罪者だった
 *戦後混乱期に現れたこのような若者たち
 *当時の大人はアプレゲール(戦後派)と
 *侮蔑的なニュアンスで呼んだ

社会の抑圧の中で膨らむ無軌道なヒーローヘの憧憬
 ☆1950年代なかばから高度経済成長期に入ると
 *日本社会はふたたび秩序を取り戻していく
 *農村から都会に大量に流入した若者たちは企業社会に吸収され
 *農村が衰退して農業人国が減り、都市の会社員が増えていく
 *新たな社会の階層が生まれ、階層は固定的になつていく
 ☆高度成長は生活を豊かにし
 *普通の家庭が電気炊飯器や電気洗濯機、テレビを持てるようになった
 ☆豊かにはなったが、抑圧も強かった
 *サラリーマンが企業への精神的従属を強いられたように
 *社会のさまざまな場所に新たな抑圧が生まれていた
 ☆アウトサイダーヘの憧れ
 *高度成長末期のそういう時代状況から登場してきた
 *高度成長の完成期であった1970年代には
 *かってのアプレゲールのような無軌道で奔放なヒーローが
 *映画にもたくさん登場し、アウトサイダー俳優が活躍した
 ☆アウトサイダー映画作品『復確言するは我にあり』
 *警察の捜査網をかいくぐり、逃走しながら5人を殺害した西口の実話
 ☆アウトサイダー映画作品『野獣死すべし』
 *元戦場記者は戦争の悲惨さを目の当たりにして倫理感を失い
 *社会とは隔絶した生活をしながら強盗で生計を立てている
 ☆彼らアウトサイダーたちは苦難や挫折を抱え、社会の外側へと逃れた
 *そのカッコ良さに、当時の日本人は無秩序な時代への郷愁を感じ
 *自分たちの「あり得たかもしれない人生」をも仮託していた
 *平凡な自分たちの人生の代わりに
 *アウトサイダーに別の人生を夢想させてもらっていた
                      (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『「神話」解体』





「連合赤軍⇒赤軍派」「アウトサイダーへの憧れ」
(ネットより画像引用)
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「天橋立ビューランド」「竹田城」散策(再)

2023年11月09日 | 官僚
🌸天橋立ビューランド

☆京都府宮津市にある天橋立を眺められる展望台のある遊園地
 ☆展望台から望む天橋立(飛龍観)
 *展望レストランや観覧車などのアトラクションがある
 ☆文珠山の山頂に位置し、展望台から「股のぞき」で眺められる天橋立
 *天舞い昇る龍に例えられ「飛龍観」と呼ばれる
 ☆天橋立を北側から望むことができる傘松公園の展望台
 *天橋立のベストビュースポットである
 *モノレール、リフトで天橋立ビューランドに入園できる

🌸竹田城 
 
 ☆兵庫県朝来市和田山町竹田にあった日本の城(山城)
 ☆城跡から雲海を眺望竹田城の位置と周辺地形より、虎臥城と呼ばれている
 ☆城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し
 *円山川の川霧により霞むことから、「天空の城」とも呼ばれる
 *雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物だ
 ☆標高約350mの古城山の山頂に築かれ
 *縄張りは南北約400m、東西約100m
 ☆廃城から約400年、石垣がほぼそのままの状態で残っている
 *現存する山城として日本屈指の規模となっている
 *予算の関係で建物の木造復元計画はない

竹田城の室町時代
 ☆築城に関しては不明な点が多く、築城に関して史料が少ない
 *1443年に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城された
 *太田垣光景が初代城主と言われている
 ☆当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で
 *播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた

竹田城戦国時代
 ☆細川勝元と山名宗全の争いで応仁の乱が起こる
 *但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった
 ☆応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊
 *播磨などを巡って抗争を続け赤松氏と戦う
 *一時山名軍が播磨を占領したりした
 *山名政豊の権威も低下、内紛も発生する
 ☆赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放する

竹田城安土桃山時代
 ☆出雲の戦国大名・尼子氏は毛利元就に滅ぼされた
 *出雲奪還を目指す尼子氏残党が挙兵した
 *山名祐豊(誠豊の甥)がこれを支援した
 ☆毛利元就は織田信長に祐豊の背後を脅かすよう但馬出兵を依頼
 *信長は木下秀吉軍2万兵を派兵し10日間で18城を落城させた
 *この時竹田城も攻略されたと考えられている
 ☆丹波の赤鬼と言われた荻野直正が竹田城を占領する
 *山名祐豊は一転して信長に救援を求める
 *信長も応じる形で明智光秀を派遣し荻野直正は黒井城に撤退した

竹田城の戦い
 ☆信長は播磨に羽柴秀吉を派遣し、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城
 ☆羽柴軍は二手に分かれ、秀吉率いる本隊は上月城を攻城
 *別の一隊は秀吉の弟羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍した
 ☆竹田城は生野銀山を管轄しており秀長隊の第一目標になり
 *秀長隊は真弓峠から但馬に侵攻し竹田城を攻城した
 ☆秀長は信長の命令で、明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入った
 *秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げた
 *毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した
 *再び信長の命により秀長が但馬攻めを開始する
 *竹田城、有子山城はさしたる抵抗もせず降伏した
 *山名祐豊、太田垣輝延はその座を奪われた
 ☆秀吉は秀長を有子山城主とした
 *秀長配下の武将である桑山重晴を竹田城主にそれぞれ命じた
 *桑山重晴は後に和歌山城に転封となり
 *秀吉に投降した龍野城主斎村政広が竹田城の城主となる
 *この斎村政広によって現在の竹田城が完成される

竹田城関ヶ原の戦い
 ☆最後の城主である斎村政広は関ヶ原の戦いでは西軍に属した
 *政広の居城であった竹田城は家康の命により
 * 山名豊国が受取りを務め、入城した
 ☆その後江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった
                 (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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⛳出典、『WIKIPEDIA』他








「天橋立ビューランド」「竹田城」散策
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