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心意気
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「築山殿」「西郡局」「シングルマザーと家康」

2024年02月20日 | 歴史
🌸「三英傑」の知られざる女性観6

『要旨』
 ☆浜松時代の家康、性欲がなかった可能性もある
 *築山殿と西郡局への家康の愛情に対する態度より
 ☆家康には女性に対する深い愛情がなかった
 *三代将軍となる孫の家光は男好きで有名
 *家康も信長のように男性を愛していた可能性も考えられる
 ☆家康が浜松に滞在していた時代
 *常に武田信玄の脅威におびえる状況だった
 ☆シングルマザーが大好きだった家康
 *子どもを出産したことのある女性なら、子どもを作る能力がある
 *その女性と自分が夫婦の営みをすれば、必ず子どもが生まれる
 *ここまで考えて、家康は相手の女性を選んでいた
 「徳川家を栄えさせるには、男の子が多数生まれればいい」選択





「築山殿」「西郡局」「シングルマザーと家康」6
(ネットより画像引用)

浜松時代の家康、性欲がなかった可能性もある
 ☆家康と築山殿の間には愛情はなかった
 ☆浜松に移った家康、当時の家康は20歳くらい
 *男性としては一番女性にそばにいてほしい年齢
 *しかし、愛する女性がいた形跡がない
 ☆家康には西郡局と言われる側室がおり、女の子を産んでいる
 *西郡局が家康の愛を独占していたので
 *築山殿や他の女性は必要なかったのかもしれないが
 ☆家康が西郡局を溺愛していた形跡は見当たらない
 ☆彼女が産んだ女の子・督姫は北条氏直の嫁になる
 *北条氏直が若くして亡くなると、督姫は池田輝政へと嫁に行く
 ☆晩年の西郡局は、督姫が嫁いだ池田の家で世話になり
 *葬儀は、義理の息子である輝政が全部取り仕切る
 ☆家康が彼女に愛情を注いでいたのなら、娘の実家に住まわせたり
 *池田輝政に葬儀を一手に引き受けさせたりはしなかった

家康には女性に対する深い愛情がなかった
 ☆三代将軍となる孫の家光は男好きで有名
 *家康も信長のように男性を愛していた可能性も考えられる
 *「家康が男色を好んだ」という史料は残っていない
 *正妻築山殿を愛していたから可能性は薄い
 ☆浜松時代の家康が淡泊に見える理由
 *当時の家康は女性にかまっている暇がない程、精神的に緊張していた
 ☆家康が浜松に滞在していた時代
 *常に武田信玄の脅威におびえる状況だった
 *女性とくつろぐことなど許されなかった
 ☆武田信玄が攻めてくるのが怖くて
 *一時的な男性不能に陥っていても、おかしくない

シングルマザーが大好きだった家康
 ☆浜松時代の家康が積極的に女性と関係を持たなかったのは
 *岡崎城の息子信康が、跡を継と安心していたから
 *信康が織田信長の 逆鱗に触れたことで
 *家康はやむなく息子に切腹を命じます
 ☆大切な自分の後継者がいなくなってしまった家康
 *家康は、子持ちの未亡人たちと関係を持つようになる
 *若い頃の家康の女性選びの特徴は、地味ながらも熟女好き
 *子どもがいる未亡人と多く関係を持っている
 ☆二代目将軍の秀忠を産んだ西郷局、通称・於愛の方
 *彼女は、西郷義勝の正室だった女性で、夫が亡くなり未亡人になる
 *家康の側室になりました
 ☆家康が子持ちの未亡人を愛した目的「跡継ぎを作るため」だった
 *家康は、秀吉の苦労を知っていた
 *自分に子どもを作る能力があることはわかっていた
 ☆当時は身分の高い女性であればあるほどに
 *身体が弱くて子どもができなかったり
 *妊娠出産に耐えられずに亡くなる事情もあった
 ☆子どもを出産したことのある女性なら、子どもを作る能力がある
 *その女性と自分が夫婦の営みをすれば、必ず子どもが生まれる
 *ここまで考えて、家康は相手の女性を選んでいた
 ☆「徳川家を栄えさせるには、男の子が多数生まれればいい」選択
                       (敬称略)
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⛳出典、『愛憎の日本史』

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