タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

名残の紅葉

2019年11月22日 | 山歩きから
スマホから投稿したように、今日は広島県中央部の天神嶽に登りました。

天気は曇り、時間の経過とともに雲は厚くなってきましたが、雨の心配はありませんでした。

本当はもう少し明るい空だったら写真的にも良かったのですが、そんなことを考えるのは贅沢かも分かりません。

風が無いだけで良かった、とも思いました。

    

    

紅葉はあまり期待していなかったのですが、思わぬ紅葉を楽しませてもらいました。

    

    

東天神嶽からの展望です。

このような写真が撮れるとは思っていなかったの嬉しかったです。

    

    

それ以上に良かったのが中天神嶽の手前の紅葉でした。

これこそ想定外でしたが、そこはチョッとした谷地形で、そのため強風の被害を受けなかったのかも分かりません。

この紅葉をゆっくりと楽しんだあと、中天神嶽で昼食を済ませ、西天神嶽に行くのはキャンセルして、同じ道を下りました。

    

雲が厚くなってきたので、写真的にはイマイチですが、、、、まぁ、欲は言わないことにしましょう。

    

何度も書いたことですが、今年の紅葉は良くないようです。

そのような年の、この時期にこれだけの紅葉が見られたので満足しました。

    

今年の紅葉を鑑賞するプラン。

12月1日に広島市内の三滝寺に行く予定があります。この時期に行って、感激するような紅葉を見た記憶もありますが、今年はどうでしょうか?

ファミリー登山で、子どもたちも参加するので、きれいな紅葉を見せてやりたいのですが、、、、、、。


臨時主夫は、、、

2019年11月21日 | 日々雑感
今日は終日快晴、絶好の洗濯日和でした。

タカ長のブログに「洗濯日和」とか言う言葉が出るとは思われなかったでしょうが、、、、

実は、女房殿が旅行に出て、タカ長は留守番でした。

その女房殿が間もなく帰ってくるので、女房殿に叱られないように、洗濯や掃除に精を出したのですが、、、

洗濯ものがキレイに乾いた頃になって、あれも洗濯しておけば良かった、これも洗うべきだったというものが出てきて、、、

やっぱり「臨時主夫」はダメだなぁ、と力を落としているところです。

洗濯には失敗したようですが、掃除のほうは頑張りました。

旅行から帰ってみたらわが家はゴミだらけ、では気分が良くないので、それなりに頑張りましたが、、、、

犬小屋に毛の生えた程度のボロ家でも、掃除をすればそれなりに時間がかかり、疲れてしまいました。ダメですね。

    

でも、タカ長がこのような平凡な風景を見ているとき、女房殿は、、、、、

    
                          鳥友からもらった画像です。

このような風景を見て気分を良くしているはずなので、まぁ、叱られることはないはずです。

それにしても慣れていないことに精を出すと疲れますね。

    

同じ疲れるのなら、このような山を歩いて疲れるほうがいいですね。

臨時主夫はあくまで臨時主夫、度々やるのはノーサンキュウですね。


裏山の紅葉

2019年11月20日 | 山歩きから
年金生活者のタカ長ですが、それなりにやることがあり、暇を持て余すことはないようです。

昨日は裏山から帰ったあと雑用をしていたら、ブログの更新をすることをすっかり忘れていました。

〇〇さんとか、ΔΔさんなど高齢の方のブログで失敗談を拝見して、思わず笑ってしまうこともありますが、タカ長も同じようなことをしています。

まぁ、高齢者は大同小異の生活をされているのでしょうね。

    

昨日の裏山、本隊と遅れてせせらぎ広場まで行きましたが、風を避けるところが無くて早々にひき返しました。

そのコースでも紅葉を見ることは出来ますが、もちろん「全国区の紅葉」ではありません。

    

完全な「地方区の紅葉」ですが、その紅葉も今年は良くないようです。

先日、仲間の家で久住山に登ったときの写真を見ました。赤く落葉した上を歩いている写真が何枚もありましたが、ことしはタカ長の知る限り、どこも茶色の状態で落葉していました。赤い落ち葉の上を歩くことは出来ていません。

    

イタヤカエデの紅葉はうまく撮ることが出来ませんでした。

時期的にも遅かったようですが、邪魔になる木が多くてダメでした。

    

    

季節風が吹いている時は50番鉄塔に登り、そこで風下になるところを探して休憩するほうが良さそうです。

そこで、、、、この切り株の上にジェットボイルを置いて、、、、、、

というような下見をして、本隊より一足早く山を下りました。

    

本隊のメンバーが撮影した蛇の池の紅葉ですが、時期的に少し遅かったようです。

と言いながらも、蛇の池の紅葉を何枚も撮影していました。


   

    

今日は団地の編集長

2019年11月18日 | 日々雑感
雨模様の天気です。気温が下がったわけではありませんが、何となくうすら寒い天気です。

だから、と言うわけではありませんが、今日のタカ長はパソコンの前に座りこんで、団地新聞の作成をすすめています。

    

今回は団地特集号で、団地誕生のころのことを特集しています。

団地新聞にもそれなりの歴史がありますが、今回の特集を作成するにあたり何名かの人から昔ばなしを聞きました。

そのようなことをしていたら、世の中には几帳面に記録される人もいて、、、、

子ども会発会記念餅つき大会が昭和52年4月10に行われた、と言う記録まで出てきました。

調べてみたらその日は日曜日で、大安でした。関係者の心が伝わってくるような記録です。

    

私たちの団地は広島湾を見下ろす山を造成して生まれた団地です。

そこに住みついた「新住人」だけがつくった町です。そのためでしょうか、団地住民の結束力は強くて、そのことが団地の伝統になっています。

もう一つ言えば、町内会活動への男性の参加者が多いのも私たちの団地の特徴だとタカ長は考えているのです。

そのような団地のルーツ探しの取材で、これまで考えていたことが間違っていたことも分かりました。

たかだか4ページの広報紙ですが、作成作業に携わってみると面白い発見もあります。

    

居住開始翌年の秋まつりです。

神輿のつくり方も何も分からない状態からの出発でしたが、多くの人が協力してこの神輿を氏神様に奉納することが出来ました。

子どもたちに着せる法被がなくて、豆絞りだけしか準備できなかったようです。

それでも子どもたちは体操服を着て神輿を担いだ、と記録されています。

新聞づくりは半分しか出来ていませんが、ここらで一息ついで、残り半分を頑張るつもりです。


思い出すことなど~2

2019年11月17日 | 山歩きから
14日に紹介した「焚火」は平成4年に650部の限定版として出版されました。その出版に事務局担当として関わったのが登山家の高見和成です。

高見和成と言えば高名な登山家ですが、冬の大山北壁で遭難死しています。彼は私たちの仲間的な存在ですが、登山の面では月とスッポン以上の差があり、存命中一度も山行きに誘われたこともありません。またタカ長のほうから誘ったこともありません。

しかし、彼が行っていた「自称文化人もどき」の活動にはタカ長も協力したことがあり、その縁で「焚火」の出版にも微力ながら協力しました。

    

昭和48年10月、61歳で病没した加藤武三は多くの絵と詩を残していました。山が縁でその遺作を目にした高見が感激、それを出版することを思いつきました。しかし、出版してくれる会社は見つかりませんでした。
そのため高見は自費出版を決意します。
予算200万円で普通のかたちの本として出版することを企画、加藤や高見の山友だちに協力を求めて歩きました。その結果600万円以上の資金が集まりました。

予算が集まると色々な夢がふくらみ、豪華本として出版されることになります。
製本は広島山稜会の桑原会長に教わったフランス綴じを採用することになりました。
ご存知の人も多いと思いますが、フランス綴じではそれぞれのページが袋とじになっています。読者はペーパーナイフで袋の部分を切り、その中を読むことになります。

    

出来上がった箱入りの本です。
左の白い本が「続焚火」です。表紙に何も書かれていないのは、そこに読者が、世界に一つしかないデザインを工夫するために。あえて白紙になっているのです。
タカ長は絵心など無いので、何も手を加えないままになっています。

ペーパーナイフは高見のゲレンデであった三倉岳に近いところで採った竹を、家具職人の姫島正和、緑夫妻が作成されました。本が届いたときは青竹の状態で、少し乾いてから使用するよう注意書きがありました。

ペーパーナイフを入れる袋は重要無形文化財石州半紙伝統工芸士久保田保一先生よりご寄贈いただいたものです。

焼印は中国地方唯一の製作者堂正明氏によるものです。

写真には写っていませんが、それらの本を縛る紐は高見がチベットから持ち帰った大黄を草木染作家、青木笛美・貞永孝幸両氏が染め上げたものです。

と言うように、細部にわたって色々な工夫がされている豪華本です。すべてに凝り性だった高見の性格が色濃く反映されています。

タカ長が持っているのは650部限定版の402番です。

その「続焚火」に、14日に紹介した「内黒峠」もあります。

    

    


文字はすべて竹ペンで書かれたものです。

これらの作品はタカ長にとっては「雲の上」の人の作品なので、タカ長ごときはコメントすることは出来ません。

多くの人に読んで頂きたい作品ですが、部数は限定されています。しかし、各県の県立図書館などには寄贈されているので、この作品に触れるチャンスはゼロではありません。
ある程度困難が伴うことですが、広島人としては是非一度ご覧いただきたいと思います。

この署名「焚火」ですが、加藤と交流のあった人から「ほだび」と読んでいた、と高見の挨拶文に書かれています。

そうですね。タカ長も「たきび」ではなく「ほだび」と読むほうがいいように思われます

    

昭和25年に発表された作品です。

近年ブナの重要性が見直されていますが、加藤武三は古くからブナに深い愛情を注いでいたのですね。



とにかく好天

2019年11月15日 | 山歩きから
    

里山キングを目指しているyamakashi君につきあって、中国自動車牛頭山トンネルの真上にある牛頭山に登りました。

スマホから投稿したように、とにかく好天、一点の雲もない快晴でした。

麓では今が盛りの紅葉を見て、、、、

    

森の中の暗い道を登ります。

距離は短いのですが、とにかく急登です。この登りは好きではありませんが、距離が短いのが救いです。

    

そのようにして着いた山頂は快晴無風。広島県西部の山がすべて見えるのではないか、というような気がする山頂です。

この画像の左端のほうに安芸の宮島が見え、その向こうに周防大島の嵩山も見えました。

画像の中央から右にかけてわが裏山や窓ヶ山、東郷山、天上山などが見え、、、、

よく見ると羅漢山、吉和冠山、立岩山、十方山、恐羅漢山など馴染みの山が数多く見られました。

晴れの山を歩くことは珍しいことではありませんが、これだけの好天はそうそうないようにも思えました。

    

その快晴に、里山キングのカラビナコップで乾杯。

とにかくのんびりとした時間を過ごしました。

タカ長もyamakashi君も山頂でぼんやりとした時間を過ごすのが好きなのです。

    

紅葉の向こうに広島湾の海が光っていました。

yamakashi君が準備してくれた「山メシ」を食べ、、、、

くどいようですが、とにかく、のんびりしたあとコースタイムを楽しんでから下山しました。

小さな山ですが、足場の悪い急登があるので、もうこの山に登ることはないのかも分かりません。

そのようなことを考えながら、山頂からの風景をシッカリと脳に刻んだのですが、、、、

しかし、すぐに忘れてしまうのかなぁ???


思い出すことなど

2019年11月14日 | 山歩きから
    

朝日新聞のコラム記事です。

筆者の加藤真理さんはタカ長の母校、小学校の先生をされていた、、、
というのが今日の話題ではありません。筆者の父上に関する話題です。

筆者の父上、加藤武三は山の大先輩、広島の登山界の草分け的な存在で、少なくともタカ長の時代の登山者なら誰でもが知っている登山家です。タカ長にとっては雲の上の人でした。

    

青春のころ、加藤のガイドブックを読みながら、芸北山群と言われた山を歩いていました。今のようなガイドブックはもちろん、ネット情報などない時代では、この本は貴重な資料でした。

その中に1ページに貴重な写真があるので紹介します。

    


そのころの聖山です。ご覧のような草原状の山でした。この姿を知っている人は「古い登山者」です。今は木が茂って、展望など期待できない山になっています。
秋はススキが光る山で、その姿は今も脳裏に残っています。

    

広島の岳人のハイマート、広島県の最高峰恐羅漢山に登るためには、現在の安芸太田町戸河内でバスを下り、そこから標高1000メートルの内黒峠を越えて行くのが通常のルートでした。マイカー時代以前のことです。

タカ長が初めてこの峠を超えたのは12月末、スキーを担いでの恐羅漢行きでした。

    

その内黒峠には加藤武三の業績を伝える石碑が建てられています。その経緯も表示されています。

    

ネットから見つけた画像です。

加藤武三著「恐羅漢と周辺の山々」に載せられて写真で、「内黒峠路より見る恐羅漢・牛小屋高原」と紹介されているそうです。昭和30年代初めに撮影されたようです。
タカ長はこの本を持っていないので、この画像の存在は知りませんでした。

タカ長がこの峠を越え始めたころの撮影ですが、このアングルから見た牛小屋高原の記憶はありません。昔のことなので忘れてしまったのでしょうが、もう一つの理由はこの風景を度々見ていないからだと思います。

最初の時こそ昼間に越えましたが、多くの場合内黒峠は夜越えていました。

土曜日の夕刻、ふもとの戸河内に降りたち、それからの峠越えですから、当然のことですが夜道を歩くことになるのです。
暑い夏など、時間的な余裕があってもわざわざ夜道を歩いていました。

夜の内黒峠を越えて、古屋敷の明かりを見た時の、ほっとした気持ちは今も忘れられません。

    

今は車で越えることが出来る内黒峠ですが、当時は徒歩の道、難所と言って良かったのかも分かりません。

峠の上には避難小屋もありました。三八(さんぱち)豪雪の時は、タカ長たちが逃げるように内黒峠を越えたあと、その近くで遭難事故が発生して3名の登山者が亡くなりました。その遭難碑は峠の近くに建てられています。

語り始めればキリがありませんが、ひとつのコラム記事から青春のころの山歩きを思い出したわけです
どれもこれも、広島から日帰りで登ることが出来なかった芸北山群の、マイカー時代以前の記憶です。

私たちがいま歩くのはあのスキー場の下、牛小屋高原か二軒小屋の駐車場をベースにしての山歩きです。
戸河内からのルートは徒歩はもちろんですが、車で越えることもなくなりました。

どれもこれも、古くなった想い出です。