古民家ギャラリーうした・ガレッジ古本カフェ便り

古民家ギャラリーうしたと隣のガレッジ古本カフェで催している作品展、日々の発見!、書評、詩などを紹介していきます。

桃の栽培   藤原新也

2024-04-24 03:07:58 | 藤原新也
「乳の海」所収。

相変わらず、産道を通っていない赤ん坊はどー

のこーのという話。時代考証とも言えると思う

のだが、その感触はシビアだ。時代に対して手

厳しい。新人類批判だと思うのだが、ぼくが

新人類なので、どうとも言えないね。

考えてみたら、ぼくの顔も桃っぽいし、まあ、

あんまりごつごつはしていないよね。

引き続き、Sのコンサート批評なのだが、

最後にヤマ師らしき人が出てきて、トム坊や

たちをなだめすかして、ご高説たまわったら

しいが、小学生のクソまで管理されているって

話はホントかな、と思った。クソまで管理か。

去勢されたカエルのようになるのもムリはない

か。それにしても、この本は読むにつれて元気

がなくなってゆく、元気が削がれていく気がする。

(結局、ほっぽり出してしまった)

(読了日 2024年2・21(水)20:16)



































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0.三秒の沈黙   藤原新也

2024-04-23 04:03:45 | 藤原新也
「乳の海」所収。

山口百恵のうたいだしの0,三秒遅れることに対し

百恵は「癖」だといった。それに対し、機会があ

って行った、SのコンサートでSは先走ってうたを

うたった。生理(ノリ)に関する考察だと思うが、

ここまで言われると、うるせえな、といいたくな

ってくる。おもしろい考えだとは思うが、説教臭

く、耐え難い。

むかつくんだろうか? うーん、よく分からないが

まあ、そう言うんならSのコンサートなんて行かな

きゃいいんじゃない? と言いたくなる。行かない

という選択肢だってあるのだから、行かなきゃいい

のだ。

























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イエロー・ボイス・エッセイ  藤原新也

2024-04-22 07:08:31 | 藤原新也
「乳の海」所収。

S(松田聖子)に対する批評が続く、Sは「乳飲み子」

であるというんである。

体と顔に突起がなく性の未熟を表現し、それをシンボ

リックに表現してるのは、クリームパフェ、マカロニ

ホワイトシチュー、マフィン、バナナスフレである。

口はほんのり開いていて、半開き、エロティシズム

(セクシャリティではない)を引き出す時にカメラマン

が口にする決まり文句通りの口の形状をしているという。


それは口唇期の母親の乳首と一対になったものであり、

マイクを握った姿はシンボリックにそう見える。それ

に対し、百恵はマイクがペニスに見えてくるくらい。

ぼくはそう見えたことは一度たりともない。山口百恵

のマイクをペニスに見立てるなんて、いかれてるんじ

ゃないか、とさえ思える。考えすぎもいい加減にして

ほしい。「黄色い声」が高音域に対する赤子の泣き声、

云々。うーん、うっせえわ。

(読了日 2024年2・18(日)14:30)
                (鶴岡 卓哉)




































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イノセント行き・涙の連絡船 藤原新也

2024-04-21 13:26:39 | 藤原新也
「乳の海」所収。

そういえば、春日部に住んでいたころに近所の

犬が17:00に夕焼け小焼けが流れると、歌

っていたのを思い出した。その遠吠えは悲痛な

声で、それを聴く度、この身が切なくなった。

と、藤原氏は60、70年代の歌謡曲と80年代

の楽曲を比較、分析してゆく。80年代において、

突然の如く、歌手たちが声変わりしていたらしく

有機的な記号がことごとく消滅してしまったと

いうんである。

あのマフィンの精製された小麦でつくられた

たべものの食感の如く、すべての感覚を失った

ようなもの。「草塩の村」には三週間以上滞在

していたという。




















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朝のパルス・山犬の夜    藤原新也

2024-04-20 03:00:13 | 藤原新也
「乳の海」所収。

「草塩温泉」という看板を見て、行ってみるも、

「今どきは民宿もやっておうんずう」ということ

らしい。そこで、毎晩赤マムシ酒を呑んでいると

イヤな夢ばかり見るので、よしにしてもらった。

「強かっつづら」らしい。そこで朝まだき、ねま

どろんでいると、甘いメロディが聞こえてくる。

0グラムの音、レモン・イエロー色のボイス。

それはSの声と楽曲だということが判明し、

ずっと草塩温泉から帰っても聞くのだ。

それは朝のラジオ体操の為に流れるもので、

夏休みの間中、行われるという。一方、これは

大きな音でスピーカーから山間に流れる「怨歌」

である。

移動スーパーの爆音なのだが、それと共に犬たちが

「叫び(クライ)」が谷に立ち上った、というんである。

その音に反応して、犬たちが遠吠えする。しかし、

S(松田聖子)には反応しないというんである。

(読了日 2024年2・16(金)14:30)
                (鶴岡 卓哉)



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青年とチワワ   藤原新也

2024-04-19 16:49:30 | 藤原新也
「乳の海」所収。

八三年、冬の気配が漂い始めた秋のある日の午後、

その青年とエレベーターで玄関ホールまで降りた

ところで出逢った。

中肉中背で坊っちゃん風のこれといって特徴のない

どこにでもいる青年だった。

その青年の独白めいたものが続き、母上に

過保護に育てられ、自閉症になり、ついに

チワワと同等に扱われるのがイヤで家を飛

び出してきた、というんであるな。

まあ、程度の差こそあれ、現代の男というものは

ハハという業を背負って生きていかねばならない

と思う。

どうそれを処するかが、これが男というものの、

覚悟というかね、そういうものの違いなんだろうな。






































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風の犬   藤原新也  

2024-04-14 06:21:10 | 藤原新也
「乳の海」所収。

ロンドンに行った年の夏、足をちょっと痛め、

コルセットなどをあてがって、不自由の身と

いうのを味わったらしい。右の脚が左の脚の

3分の2に二カ月後、痩せ細っていた。

右脚だけ20年くらい歳をとったようだ、と

いうと、温泉に行ってきなさい、と言われる。

その方面に詳しい人に聞くと山梨県の下部という

ところがフジワラくんにはいいだろう、という。

そこで老婆に会い、その老婆は片方の乳がない。

どうやら乳癌のためきってしまったらしい。

神様にもらったもんを罰当たりなこってす、と

その老婆は言う。

その下部を出て、身延についたころにはすっかり

日も暮れていて、老婆に宿を聞いた。その老婆は

あの片方の乳のない老婆にそっくりである。

三日ほど、身延に泊まり、山を歩いていると、

四匹の仔犬を連れた母犬と出会い、母犬は仔犬の

ために身を挺して守る、という話が紡がれてゆく。

(読了日 2024年2・14(水)0:50)
               (鶴岡 卓哉)





























































ンドンに行った年の夏、足をちょっと痛め、

 
corset    
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機械じかけの聖母‐プロローグ   藤原新也

2024-04-13 04:30:48 | 藤原新也
「乳の海」所収。

復活しそうにないキリスト画。それは

グリュネワルトという人の作品でそれを

見に行ったらしい。

それとは別に市で穴のあいた像を見つけ

それが四十八のいばらを突きさす道具だと

いうのだ。それはオルガンと風力によって

動くらしく、僅かに少しずつ動くらしい。

それらは、藤原氏独特の文体で紡がれてゆく

ので、読んでみないと伝わらない。

それが、文体の本質だ。ぼくがどんなにうまい

具合いに要約しようと、その人の書いた本

を読まない限り、それは正確には伝わらない

のだ。

読んでみるに限るのだ。

(読了日 2024年2・13(火)14:30)
                                               (鶴岡 卓哉)


















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藤原悪魔   藤原新也

2022-09-28 11:10:58 | 藤原新也

文藝春秋   1998年

 

途中、だめ人間なところを見せつけられて、読むのを

 

一旦、やめていたが、気を取り直して読んで読了。

 

天使まゆげ、と表紙にある。まゆ毛犬だが、マジックで

 

まゆ毛が書いてあった、というそれだけなのだが、作品に

 

仕立ててあるのを読むと、おもしろく書いてある。

 

気になったのは、戦争は人間のストレスを発散させるための

 

祭りごとだ、という新たな戦争論。こうだけ書くと不謹慎

 

なようにも感じるが、果たしてそういう見方もあるかなあ、

 

とは思った。

 

藤原氏といえば、オウムだが、この本にもオウムのことは

 

書いてある。その後的なものだが、その目の鋭さは、ぼくを

 

圧倒する。

 

いろいろなことについて書いてあるので、ちょっとでも気に

 

なる方は読んでソンはないのかなあ。藤原フリークのぼくとし

 

ては、この度の、コロナ禍をどうみているかも気になるところ。

 

けど、新刊を買う体力はないんだよなあ、だめだめなのはおれ

 

っちの方だったかも、チーン。

 

        (読了日 2022年 9・9 13:50)

                (鶴岡 卓哉)

 

 

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黄泉(よみ)の犬     藤原新也

2021-07-12 06:21:27 | 藤原新也

文春文庫   2006

 

1995年は日本の現代史においても、重要なターニング

 

ポイントとなった年だ。オウム事件がそれの最たるもので

 

あり、本書も麻原彰晃について描かれている。

 

麻原が水俣病であったらしいことに言及し、目の見えなか

 

ったことも水銀のせいではないかと推論をすすめ、実兄に

 

会う。というところで雑誌の掲載は中止となったようだ。

 

このあと、実兄に会い、実際に麻原が水俣病であったと明

 

かされる。

 

黄泉の犬が過保護とエゴイズムに満ちた現代にとって、救い

 

となるのか、インドのガンジス川の袂で人を焼いていたのを

 

毎日、じっと見つめ続けたという藤原氏。死んで燃やすと、せ

 

いぜい60ワット三時間くらいの光を放って消えてしまう、と

 

いう。しかし、それは確固とした光となって宇宙を照らす灯と

 

なるだろう。船頭が歌うのだが、その歌詞がまたいい。

 

空中浮遊する麻原失笑の有名な一枚。そのまま何度か反動をつけ

 

飛び上がる。空中浮遊したと本人も自認し、イワシの頭も信心から

 

と同じことで、ただの青年もその時点で聖者になってしまう、と

 

書いている。

 

だからぁ、浮くなっちゅうの。……合掌。

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