徳間書店 1983年
「シークがきた」所収。
初読だと思って読んでいたが、オチを読んで、どこかで
もうすでに読んでいたことが判明。ふしぎな感じの短編で
SFだと思うのだが、よくわからない。いそしぎになること
を希望した妻は選ばれて、いそしぎになることになるのだ
がそのための祭りのようなものをする。なんか、こういう
めんどくさい小説を読みたい、と思っていたので、読むことも
苦にならない。結局、文体の勝利だろうな、これは。
徳間書店 1983年
「シークがきた」所収。
初読だと思って読んでいたが、オチを読んで、どこかで
もうすでに読んでいたことが判明。ふしぎな感じの短編で
SFだと思うのだが、よくわからない。いそしぎになること
を希望した妻は選ばれて、いそしぎになることになるのだ
がそのための祭りのようなものをする。なんか、こういう
めんどくさい小説を読みたい、と思っていたので、読むことも
苦にならない。結局、文体の勝利だろうな、これは。
講談社文庫 1992年
57名の作家に直截話をきき、エッセー風に書いている。
もう亡くなっている人が大半だ。そういう意味でも貴重だ。
だいたいおしなべて男は男らしく、女は女っぽい印象。
きっとこの時代は作家に限らず、男は男として、女は女
として生きられていたんじゃないか。
いろんなタイプの作家がいるのは当然として、そこへ独
自の視線であっさりとかわしていく阿川女史の切り口は
あっぱれだ。なんとなく、父上が作家というのもいいように
影響しているのかな、と思う。ちょっと活字にうみてきた
ぼくには、おもしろく読めたので、よかった。ぼくには
まだ読むべき本がある、と思えた。
新潮文庫 平成5年
この本が書かれてから三十数年が経ち、この本が
書かれてから二年後の平成7年に瞳氏は亡くなっ
ている。
まず、第三景の浅草のロック座のストリップショー
を見に行く、というやつ。67歳でもなお女の裸に
興味があるのか、と驚かされるが、それが、食い合わせ
が悪かったか、女の裸に反応したか、いきなり、死
にそうになって、吐きまくって、救急車で運ばれている。
うーん、これでは死んでしまうのを分かるね、二年後に。
代官山に行ったときに、シェ・リュイという菓子屋に
立ち寄っている。丁度このころ、亡くなった義兄が修行
していたころではなかろうか。ケーキと言わないと売らない
という女の子の店員にえらく腹を立てている。
その後、義兄はシェ・リュイをやめて、春日部に店を出した。
1997年ことの話だ。
山口氏はなんにでも文句があったらしく、えらいメンドクサイ
ジジイだったらしい。
ぼくも、東京を離れて22年、東京の街は変わったのだろうなあ
もうそろそろ東京行ってみっか。
双葉文庫 2008年
今の若い人はどうかしらないが、ぼくらが子供のころは
このタブチくんを知らない人はいなかったはずだ。
野球選手なのにでぶで、すごくおもしろいやつ。
昔、小三の頃に南浦和の映画館ではなく、公民館
みたいなところに雨の日に象物語っていうのを見に行った。
その同時上映がこのタブチくんのアニメだった。ハハ
はアニメに偏見があって、子供にアニメなんて、とすごく
機嫌が悪かったのを覚えている。
これは中二のときに、試験勉強を絶対にしないとまずいという
夕方16:00からタブチくん、見ちゃったね。ああ、
考えてみたら勉強って勉強、ろくにしてなかったわ。
あんまり勉強好きじゃなかったからさ。このタブチくんに
サブカル的側面があるとは知らなかった。
おれってサブカルくそ男だからさ、チーン。
角川文庫 1998年
このエッセイ集には枕詞みたいな引用があるが、
それに「毎晩 毎晩 不運に生まれつく者 毎朝
毎朝 幸せに生まれつく者」という引用がある。これ
は「デッドマン」というジム・ジャームッシュ監督
のもので、ぼくはジャームッシュ監督は大好きなので
このセンスに脱帽と言う感じだ。それも98年なので
最新作だったはずだ。きっとこの人は映像的にも鋭敏
なものをもたれているのだろうと思われる。
韓国人の家庭の人ということで、サイン会でおどされた
という。右翼と名乗る男からとあったが、何人たりとも
そんなおどしに屈しちゃだめだったんだ、と思う。
いつも韓国系の人はあたりが強くなってくる。作家にしても
妬み、が多いと思う。
いろいろ心に残った文章はあったのだが、吉川ひなの
女史に会った話が柳さんを物語るいいエピソードだろう。
プレゼントを必至の感じで服を用意して、それを
喜んでくれたひなの女史の姿を見て、すごく喜ぶ。この
素直な感じがなんとも微笑ましい。ぼくがそんなことを
したら、ただのスケベオヤジだけどね、チーン。
小学館 昭和60年
シーナ氏の初期の作品である。沢野画伯も冴えている。
おとぼけがすぎますよ。
シーナ氏と言えばうどん、ラーメン、海苔、のひとだと
思うのだ。長いものをこよなく愛す、長物好きの人。
それで、この本だが、おもしろいのだが、昭和ケーハク体
ともいうべき、消化の良さで、読後になにも残留しないというの
が、まことに正直にいいんですね。
無内容ってわけじゃあない、なにか、こう、サムシングを感じ
るんですが、邪魔にならないポップ感というかね。
そうそう、でもね、この巻末の対談は野菜論議なんだが、あん
まり対談的な表記は苦手なのね、ぼく。でね、内容もタマネギは
えらい、とかだしね。
このはっちゃけた文章のおもしろさ、というのは、神が
かっているね。まったく脱帽だよ。久しぶりにシーナ氏の
神髄を見た気がした。
集英社 1979年
あなた、おげんきですか、おしあわせですか? と
宮城女史は聞いてくれる。読者を友だちと認識して
いるらしい。その1はオレンジ、その2はグリーン、
の装丁だ。美的な才能に溢れているらしい。ハハも
ねむの木の展覧会に数十年前にいったが、よかった、
と言っていた。ちょっとやそっとじゃ描けない絵だ、
ということだ。その2も、第三作の映画を撮り始める
あたりまでのことが描かれる。とにかく、この人は
いつも走り回り、疲れていた。三足も四足も仕事の
わらじを履いていたのだ。こういう人のことを、最近は
聞かなくなった、ヒューマニストというんだろうな。
(読了日 4・21(木)12:40 鶴岡 卓哉)
集英社 1978年
吉行淳之介氏の愛人というイメージが強いが、障害者施設
ねむの木学園の学長でもあった。1978年当時はねむの木
の詩がきこえる、などの映画も撮られていて、数々の賞を
受賞している。その功績は今も語り継がれているのではなか
ろうか。いや、あんま聞かないか。
その忙しさは目に余り、実際、過労で入院を何度もしていらっ
しゃる。その合間を縫って、の、この本であるが、これがすごく
いいのである。その熱量は大したもので、やさしくね、やさしくね
やさしいはつよいのよ、というメッセージはなにより心に響いてくる。
その映画もぼくは見たような気もするが、よくは覚えていない。
文章も句読点がはじめ、打ち過ぎではなかろうか、と思ったが、読
んでいるうちにそれほど気にならなくなる、というか、後半、
句読点の打ち方がうまくなってくると、なんか物足りなく感じてくる。
2もあるので、読んでみよう。