昨秋、橿原市の藤原宮跡で出土した地鎮具に納められていた「富本銭」9枚の字体、成分、重量などが、7世紀後半の飛鳥池遺跡で出土したものと異なる新種であることが報道された。そして、これまでに出土した約10遺跡のものと比べてみても、かなりの違いが認められた。
そこで、各報道の見解は簡単にまとめてみると次のようであった。
読売新聞:遷都のために字体を変えた。
朝日新聞:複数の工房が存在していた。
毎日新聞:鋳造場所が藤原宮内の鋳銭司へと移った。和歌山県八幡山城跡で出土された富本銭の見直しが必要。
産経新聞:記念硬貨。和歌山県八幡山城跡で出土された富本銭の見直しが必要。
東京新聞:造幣局の生産拠点が移った。流通継続への努力跡。
奈良新聞:飛鳥から藤原京に工房が変わった。
共同通信:遷都のために字体を変えた。
そもそも、貨幣の新種としているが本当にそうなのかと疑念も残る。
富本銭は、これまでの歴史の中での取り扱われ方は、
貨幣、記念硬貨、厭勝銭(えんしょうせん、まじない用)、絵銭(銭の形状をした縁起物・お守り・おもちゃなどで、建前(棟上)の際に縁起物として配られた「上棟銭」も絵銭に含まれるという)、贋物、模鋳銭、私鋳銭など様々。
といっても、上の中には硬貨として流通されたものも含まれるらしい。
4年前に和歌山県八幡山城跡で出土した富本銭について見直しを取り上げた報道は、毎日新聞、産経新聞、紀伊民報の3社だけであった。
当時、2004年2月28日付紀伊民報は、
「日置川町中世の水軍領主・安宅(あたぎ)氏八幡山城跡から、富本銭(7世紀後半)が中世にも造られたことを示す模鋳銭が出土したことを町教委が発表した」と報じた。さらに、
魔よけやまじないに使う厭勝銭か、おもちゃや収集目的の絵銭として新たに造られたとみられる。
16世紀前半に使われた土器や中国・明の永楽通宝などとともに出土。重さ3・2g、外径は縦23・12mm、横23・04mm。奈良文化財研究所の鑑定で、周縁の幅や「冨」の字体、成分比などで古代銭と違いのあることから模鋳銭と分った。模鋳銭の製造時期は一緒に出土した土器から16世紀以前。 富本銭の模鋳銭が中世にも存在したことが明らかになった。…と。
今回、藤原宮跡から出土した富本銭と、八幡山城跡から出土した富本銭の字体・書体が同じであったことが分かったため、奈良文化財研究所は今後、新しい視点から年代について再検討する必要があるとしている。
さらに、今年3月、daily-sumusさんのHPで、『新撰古錢大鑑』(久保田豊編、大地社、一九三三年)に藤原宮跡で出土したものと字体・書体、しかも七曜の真中の点が太いところまでそっくりな図が載っていることを教えてもらう。1933年以前にも同じようなものが出土していたことが知られていたわけだ。
藤原宮跡出土のもの、八幡城跡出土のもの、新撰古錢大鑑のものを見比べてみると、字体・書体、さらに七曜の真中の点が太いところも同じ。それ以外の細かい部分では似てたり似ていなかったり。特に字体のワと口の間隔は、「和漢古今泉貨鑑」が一番狭いようである。それに、円の外側の線の太さと方形孔の周りの線の太さがの関係が、「和漢古今泉貨鑑」は太い・細い、藤原宮出土は太い・太い、八幡山城跡は細い・太いなどところどころ違っている。
富本銭出土履歴
1969 平城京から出土
1985 平城京右京八条の井戸の底から出土
1985 群馬県藤岡市上栗須(かみくるす)遺跡 1枚出土、2001に見直し発見
1991 藤原京条坊側溝から出土
1993 藤原京条坊側溝から出土
1997 難波京細工谷遺跡から出土 1枚
1998 飛鳥池遺跡から未製品が大量に出土
明治期 長野県下伊那郡高森町武陵地古墳 1枚
明治期 長野県飯田市座光寺遺跡1区6号墳 2枚
2004 八幡城跡遺跡出土
2007 藤原宮出土(地鎮祭) 9枚
備考:富本銭出土地
平城京、上栗須遺跡(藤岡市)、藤原京、難波京細工谷遺跡、飛鳥池遺跡、武陵地古墳(下伊那郡)、座光寺遺跡(飯田市)、八幡城跡遺跡(和歌山県)、藤原宮地鎮祭跡、大英博物館・朽木昌綱コレクション
<関連年表>
683年(天武12)4月「今後必ず銅銭を用いよ」(日本書紀)と命じた。(この時に富本銭が鋳造された。)
692年(持統6)5月「「浄広肆(じょうこうし)難波王等を遣わして、藤原の宮地を鎮め祭らしむ」(日本書紀)
694年(持統8)3月「直広肆(ぢきこうし)大宅朝臣麻呂・勤大弐台忌寸八嶋・黄書連本実等を鋳銭司(ぜにのつかさ)に拝す」(日本書紀)
同 12月 藤原京遷都
698年(文武2)3月 因幡国が銅の鉱石を献じた。
同 9月 周防国が銅鉱を献じた。
699年(文武3)12月「初めて鋳銭司を設け、直大肆の中臣朝臣意美麻呂をそのまま長官に命じた」(続日本紀)
707年(慶雲4)2月 諸王・諸臣の五位以上の者に詔を下し、遷都のことを審議させた。(注:諸国疫病大祓のためか?)
同 (慶雲4)6月 文武天皇崩御
708年(和銅1)1月「武蔵国の秩父郡が和銅を献じた。」(続日本紀)
同 (和銅1)2月「初めて催鋳銭司(さいじゅせんし、銭貨の鋳造を監督する役人)をおいた。従五位上の多治比真人三宅麻呂をこれに命じた。」(続日本紀)
同 (和銅1)5月「初めて和同開珎の銀銭を使用させた。」(続日本紀)
同 (和銅1)7月「近江国に和同開珎の銅銭を鋳造させた。」(続日本紀)
同 (和銅1)8月「初めて銅銭を使用させた。」(続日本紀)
同 (和銅1)9~10月 平城京造営の役職を任命、伊勢大神宮に平城京遷都のことを報告した。
709年(和銅2)1月 偽の銭鋳造の処罰のこと(略)を詔した。
同 (和銅2)3月 銅銭の使用奨励
同 (和銅2)8月 銀銭の使用を禁止させた。
710年(和銅3)1月 大宰府が銅銭(和同開珎)を献じた。播磨国が銅銭を献じた。
同 (和銅3)3月 初めて平城京に遷都
同 (和銅3)9月 全国の銀銭の使用を停止した。
参考文献・資料
日本初期貨幣研究史略-和同開珎と富本銭・無文銀銭の評価をめぐって-松村恵司 IMES 日本銀行金融研究所 2004
和漢古今泉貨鑑 朽木竜橋 撰 (福知山藩主朽木昌綱)寛政10年版
daily-sumusさんのHP http://sumus.exblog.jp/8210884/
読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、東京新聞、奈良新聞、共同通信、紀伊日報
そこで、各報道の見解は簡単にまとめてみると次のようであった。
読売新聞:遷都のために字体を変えた。
朝日新聞:複数の工房が存在していた。
毎日新聞:鋳造場所が藤原宮内の鋳銭司へと移った。和歌山県八幡山城跡で出土された富本銭の見直しが必要。
産経新聞:記念硬貨。和歌山県八幡山城跡で出土された富本銭の見直しが必要。
東京新聞:造幣局の生産拠点が移った。流通継続への努力跡。
奈良新聞:飛鳥から藤原京に工房が変わった。
共同通信:遷都のために字体を変えた。
そもそも、貨幣の新種としているが本当にそうなのかと疑念も残る。
富本銭は、これまでの歴史の中での取り扱われ方は、
貨幣、記念硬貨、厭勝銭(えんしょうせん、まじない用)、絵銭(銭の形状をした縁起物・お守り・おもちゃなどで、建前(棟上)の際に縁起物として配られた「上棟銭」も絵銭に含まれるという)、贋物、模鋳銭、私鋳銭など様々。
といっても、上の中には硬貨として流通されたものも含まれるらしい。
4年前に和歌山県八幡山城跡で出土した富本銭について見直しを取り上げた報道は、毎日新聞、産経新聞、紀伊民報の3社だけであった。
当時、2004年2月28日付紀伊民報は、
「日置川町中世の水軍領主・安宅(あたぎ)氏八幡山城跡から、富本銭(7世紀後半)が中世にも造られたことを示す模鋳銭が出土したことを町教委が発表した」と報じた。さらに、
魔よけやまじないに使う厭勝銭か、おもちゃや収集目的の絵銭として新たに造られたとみられる。
16世紀前半に使われた土器や中国・明の永楽通宝などとともに出土。重さ3・2g、外径は縦23・12mm、横23・04mm。奈良文化財研究所の鑑定で、周縁の幅や「冨」の字体、成分比などで古代銭と違いのあることから模鋳銭と分った。模鋳銭の製造時期は一緒に出土した土器から16世紀以前。 富本銭の模鋳銭が中世にも存在したことが明らかになった。…と。
今回、藤原宮跡から出土した富本銭と、八幡山城跡から出土した富本銭の字体・書体が同じであったことが分かったため、奈良文化財研究所は今後、新しい視点から年代について再検討する必要があるとしている。
さらに、今年3月、daily-sumusさんのHPで、『新撰古錢大鑑』(久保田豊編、大地社、一九三三年)に藤原宮跡で出土したものと字体・書体、しかも七曜の真中の点が太いところまでそっくりな図が載っていることを教えてもらう。1933年以前にも同じようなものが出土していたことが知られていたわけだ。
藤原宮跡出土のもの、八幡城跡出土のもの、新撰古錢大鑑のものを見比べてみると、字体・書体、さらに七曜の真中の点が太いところも同じ。それ以外の細かい部分では似てたり似ていなかったり。特に字体のワと口の間隔は、「和漢古今泉貨鑑」が一番狭いようである。それに、円の外側の線の太さと方形孔の周りの線の太さがの関係が、「和漢古今泉貨鑑」は太い・細い、藤原宮出土は太い・太い、八幡山城跡は細い・太いなどところどころ違っている。
富本銭出土履歴
1969 平城京から出土
1985 平城京右京八条の井戸の底から出土
1985 群馬県藤岡市上栗須(かみくるす)遺跡 1枚出土、2001に見直し発見
1991 藤原京条坊側溝から出土
1993 藤原京条坊側溝から出土
1997 難波京細工谷遺跡から出土 1枚
1998 飛鳥池遺跡から未製品が大量に出土
明治期 長野県下伊那郡高森町武陵地古墳 1枚
明治期 長野県飯田市座光寺遺跡1区6号墳 2枚
2004 八幡城跡遺跡出土
2007 藤原宮出土(地鎮祭) 9枚
備考:富本銭出土地
平城京、上栗須遺跡(藤岡市)、藤原京、難波京細工谷遺跡、飛鳥池遺跡、武陵地古墳(下伊那郡)、座光寺遺跡(飯田市)、八幡城跡遺跡(和歌山県)、藤原宮地鎮祭跡、大英博物館・朽木昌綱コレクション
<関連年表>
683年(天武12)4月「今後必ず銅銭を用いよ」(日本書紀)と命じた。(この時に富本銭が鋳造された。)
692年(持統6)5月「「浄広肆(じょうこうし)難波王等を遣わして、藤原の宮地を鎮め祭らしむ」(日本書紀)
694年(持統8)3月「直広肆(ぢきこうし)大宅朝臣麻呂・勤大弐台忌寸八嶋・黄書連本実等を鋳銭司(ぜにのつかさ)に拝す」(日本書紀)
同 12月 藤原京遷都
698年(文武2)3月 因幡国が銅の鉱石を献じた。
同 9月 周防国が銅鉱を献じた。
699年(文武3)12月「初めて鋳銭司を設け、直大肆の中臣朝臣意美麻呂をそのまま長官に命じた」(続日本紀)
707年(慶雲4)2月 諸王・諸臣の五位以上の者に詔を下し、遷都のことを審議させた。(注:諸国疫病大祓のためか?)
同 (慶雲4)6月 文武天皇崩御
708年(和銅1)1月「武蔵国の秩父郡が和銅を献じた。」(続日本紀)
同 (和銅1)2月「初めて催鋳銭司(さいじゅせんし、銭貨の鋳造を監督する役人)をおいた。従五位上の多治比真人三宅麻呂をこれに命じた。」(続日本紀)
同 (和銅1)5月「初めて和同開珎の銀銭を使用させた。」(続日本紀)
同 (和銅1)7月「近江国に和同開珎の銅銭を鋳造させた。」(続日本紀)
同 (和銅1)8月「初めて銅銭を使用させた。」(続日本紀)
同 (和銅1)9~10月 平城京造営の役職を任命、伊勢大神宮に平城京遷都のことを報告した。
709年(和銅2)1月 偽の銭鋳造の処罰のこと(略)を詔した。
同 (和銅2)3月 銅銭の使用奨励
同 (和銅2)8月 銀銭の使用を禁止させた。
710年(和銅3)1月 大宰府が銅銭(和同開珎)を献じた。播磨国が銅銭を献じた。
同 (和銅3)3月 初めて平城京に遷都
同 (和銅3)9月 全国の銀銭の使用を停止した。
参考文献・資料
日本初期貨幣研究史略-和同開珎と富本銭・無文銀銭の評価をめぐって-松村恵司 IMES 日本銀行金融研究所 2004
和漢古今泉貨鑑 朽木竜橋 撰 (福知山藩主朽木昌綱)寛政10年版
daily-sumusさんのHP http://sumus.exblog.jp/8210884/
読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、東京新聞、奈良新聞、共同通信、紀伊日報